第40話 口に出せぬ願い

 近藤不在の新選組の全指揮は、副長の土方歳三が揮っていた。日々、会合に明け暮れていたが、いよいよその時が来た。薩長連合軍は京を乗っ取り、一気に幕府を潰そうとぎりぎりし始めたのだ。


 土方は全隊士を集める。


「年明けすぐに徳川軍は桑名藩、見廻り組と共に淀まで兵を進め、鳥羽街道を目指す。会津藩と我が新選組はこの伏見奉行所を拠点とし、京の中心部へ進軍する!」

「おお!」


 新式装備を誇る幕府歩兵部隊も配備される。その全兵力は大坂城周辺に配置された予備軍を含めると、一万数千から二万人になるという。薩摩軍、長州軍の兵力は合わせても五千弱だ。どう考えても徳川軍が数では圧倒的有利である。どう見たって負けるはずがない。


「心して準備をするように」


 いよいよ戦争が始まる。そのせいか屯所内は常にピリピリとした空気が漂っていた。医療班をまとめる椿も、その時に備え大量の医療具を整えていた。


「椿、いいか」

「はい」

「今回のいくさは経験した事がないくらい、大きなものになるだろう。死傷者もどれくらい出るか想像がつかない。いいか、助かる可能性の低い者は捨てろ。助かる可能性があると判断した者は、全力で救え。例え救えなくとも、お前のせいじゃねえ。全ては俺の責任だ。分かったな」

「はい」


 土方は椿の負担を少しでも減らしておきたいと思ったのだろう。責任は自分にあるのだからお前は気にするなと言い聞かせたる。


「それから、おまえもこれを着ろ」


 差し出された着物は隊士と同じ型のものだった。鎖帷子くさりかたびら、細身の鉢金、袴の裾は細く絞ったもの。着物の袖も同じく。黒の羽織の背には誠の字が金の糸で縫い込まれてあった。これに白襷をする。そして腰の後方に護身の短刀を差す。


「間違っても仲間から斬られねえ為だ。お前は絶対に死んではならない。絶対に俺から離れるな。いいな!」

「はい、承知しました」


 硬い表情の椿に土方の大きな手が伸び、頭をくしゃくしゃと撫でた。


「そんなに難しい顔をするな。俺がお前を護ると言っただろう」

「土方さん」

「じゃねえと、山崎に俺が斬られちまう」

「まさか!」


 そう言うと土方は頬を上げて笑った。


 徳川軍と薩長連合軍との戦争が、いよいよ始まろうとしていた。椿は自分に出来ること、それだけを全うしようと思った。自分は戦えない、その分可能な限り多くの命を救おうと。



 ◇



 その夜、土方は会津藩との打ち合わせで戻らないと椿に言った。日々、緊張が高まって行く中、椿は心を落ち着けるためにサラシを縫うため、針仕事に没頭していた。


「椿さん、起きていますか」


 その時、廊下から聞きなれた声がした。


「山崎さん、どうぞ」


 山崎のいつもと変わらない精悍な顔立ちと、真っ直ぐに向けられる視線が、椿の心を落ち着かせてくれた。


「土方さんは、今夜戻りませんから。ゆっくりどうぞ」


 何気なく言ったその言葉を山崎が苦笑しながら受け止める。


「その言い方ですと、朝まで二人きりで過ごしてよいと」

「え......っ!」


 椿は耳まで真っ赤に染めて、目を泳がせはじめた。


「ははっ、冗談ですよ。椿さんの事ですから、深い意味はないと承知しています」


 深い意味はないと聞いた瞬間、そんな事はないとなぜか反発心が湧いてきた。椿は軽く唇を噛みしめて、山崎の顔を見た。いつだって自分は貴方の傍にいたいのだと。


「そんな事はありませんっ」

「え?」

「私はいつでも山崎さんの傍に居たいのです。ほんの少しの時間でも、貴方に触れていたいと思ってしまうのです。日々忙しさが増していると言うのにっ。すみません、ただの我儘です」

「椿さん、貴女の言葉は俺の理性を簡単に持って行ってしまう。俺だって同じです。皆が命をかけて任務に当たっているというのに、貴女に触れたくて仕方がない」


 いつも自分の感情を抑えて、任された仕事を淡々とこなす山崎が、困ったように笑った。そんな山崎の姿を見て、椿は堪らず抱きついた。


「椿さんっ」


――これほどこの人を愛おしいと思った事はない。いつも自分のことより新選組のため、私のためにと意思を圧し殺し耐えている人。この人を唯一、慰め励ます事ができるのは私だけ!


「抱いてください」


 椿の口から出た言葉に山崎は息を呑んだ。椿は確かに抱いてくださいと言った、聞き間違えるはずがない。


「山崎さん、お願いです。今すぐ、私を抱いてください」

「椿さんっ、何を言って」

「何度も言わせないでください。女だって欲情するんです」


 椿の鼓動が山崎にも伝わって来る。椿の力強く打つ心臓の音が、どれほどの勇気を出して言ったことなのかと知らせてくる。

 山崎は戦へ向かう幕府の状況を誰よりも分かっていた。もしかしたら今夜が、二人で過ごす最後の夜になるかもしれない。そんな事が頭を掠める。


 山崎が迷っていると、椿が掠れた声でお願いしますと男の背を押した。


「椿さんに言わせてしまって、すみません。俺、椿さんが欲しくて、欲しくて仕方がない。貴女の全てをください。そして俺の全てを受け取ってください」


 山崎は椿をきつく抱きしめ返す。それはこれまでのものとは違い、とても熱い抱擁だった。山崎が椿の瞳を見つめると、柔らかな笑みを返された。それは泣きたい程に切なく、そして何よりも愛おしい者の顔。その笑みにつられるよう山崎も微笑み返す。

 そして椿は瞳を閉じた。それを合図に山崎は椿に唇を重ねる。少し角度を変えれば、唇が薄く開き己を迎え入れてくれる。柔らかな温もりに包まれて互いの熱をただ、貪りあう。


――椿さん、俺は貴女の全てが愛おしい。この俺の、拙い言葉も不器用な愛情も、貴女は受け止めてくれた。


 椿は躰の力を抜き、ただ、ただ山崎を求めた。何も怖くない、今だけは自分の全てを、この男に愛してほしい。帯が緩められ、胸元の合わせが大きく開かれた。山崎の膝が椿の脚を割って着物の裾が寛げられる。その度に胸の奥が熱く疼き、悦びで吐息が漏れた。


「は、あ......ん」

「今夜、椿さんの全てを見せてください」

「ん」


 肩から上掛も着物も落とされ、今まで剥ぐことのなかった襦袢も落とされた。それが腰のところまで落ち、椿の上半身が山崎の目の前で露わになる。想像していた通り、白い肌、丸み帯びた曲線は山崎には眩しかった。淡い行燈の下で二人の影が妖艶に揺らめく。


「見ていただけますか?」


 椿はスリと後ろに下がり立ち上がると、下帯を解き腰で止まった着物を全て脱ぎ落とした。くびれた腰、ふくよかな尻、細くしなやかな両脚はまるで天女が舞い降りたかと思うほどの衝撃だった。最後に後ろで留めた髪がはらりと解けた。


「とても、綺麗ですよ。俺には勿体ないくらいだ」

「いいえ。私の体は山崎さんのためだけにあるのです。これから先も、ずうっと山崎さんのものですから」

「椿さん」


 椿の瞳から一筋の涙が流れた落ちた。

 椿も分かっているのだ。もう引き返せない、逃れることのできない運命を。


 山崎も自身の着物を脱ぎ捨てた。他の隊士と比べれば小柄だと言われるが、任務で鍛え上げられた体は目を細めるほど美しかった。そっと体を合わせれば、こんなにも近くに心臓があり、互いの息遣いを感じらことがだできる。

 二人はゆっくりと畳に体を沈めた。山崎の熱い息が椿の耳を愛撫すると、行き場のない手が宙を彷徨う。山崎がその手を追い、捕え、硬く握りしめた。思わず声が漏れそうになれば、唇が重なりその咥内に吸い込んだ。



「あ、はぁ。山崎さっ......」

「くっ、椿さん」


 ゆっくりと山崎が椿の中に入る。椿は無意識に脚を山崎の腰に絡ませた。離れたくない、お願いだからずっと傍にいて。そんな願いが込められているのかもしれない。


 椿の目尻から涙が流れた。その涙の意をくみ取った山崎は、自らの唇でそっと拭う。忘れない、この涙の味を、どんな事が起きようとも。

 山崎の汗が一滴ひとしずく、ぽたりと椿の頬に落ちた。椿はその雄々しい姿に目を逸らすことが出来ない。

 焼き付けたい。

 今を、この瞬間ときを、永遠に、心の中に閉じ込めたい。


 互いの熱が交わり、二人に限界が見え始める。椿の山崎の背に回した手に力が入る。爪の跡が背に残るほど、強く掴んだ。これまで以上に激しく熱い行為だった。椿は山崎から離れまいとしがみつく。

 ぼたぼたと落ちる汗を受け止めながら、やがて頂点に達した。


 ドクドクと熱い生命の飛沫しぶきが、確かに椿の体に注がれた。


――お願い! どうか、どうかこの人を連れて行かないでっ––!


 決して口には出せない願いを、心の中で叫んだ。

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