第30話 誰もが深く傷ついて

 その頃、沖田は山南の部屋の前の縁側に座っていた。そこから西本願寺の瓦屋根が見え、経を上げる坊主の声が聞こえてくる。山南はこの景色をどんな思いで見ていたのだろうか。

 あのときの山南は沖田が追ってくるのを分かっていたような素振りだった。いつもの柔らかい笑みを零して「介錯は沖田くんにお願いしたい」と言ってきたのを思い出していた。


 ふと沖田は誰かの気配を感じて廊下の先へ視線を向けた。そこに涙をぼろぼろと零しながら歩んでくる椿があった。椿はいつの間にか山南の部屋へ向かっていたようだ。


「椿、さん?」


 椿はどこを見ているのか分からない程、ふらふらと定まらない足取りで沖田の方へ近づいて来る。


「椿さん!」

「沖田、さん」


 やっと椿は沖田に気づいて床に崩れるように膝をついた。


「ごめんなさい、ごめんなさい。私がいけないの。私のせいです」


 叫びながら、自分を責めるように泣いた。

 沖田はこの娘にとてつもない荷を背負わせてしまったと後悔をした。最後に山南に椿を会わせたのは自分だ。椿は山南を切腹させたのは自分だと責めているに違いない。


「椿さんのせいではありません。山南さんはずっと迷い悩んでいたのです。武士として自分らしく、山南敬介としての死に場所を探していたのです。誰も止めることはできなかったのです」


 椿は沖田の言葉を聞いて、泣き叫ぶのを止めた。


「椿さんに会って死を決めたのではなく、椿さんに会って自分自身を取り戻したのだと思います。切腹をするという事は武士だったという証なのです。だからあの時、声を上げずに立派に果てたのです」


 この世に悔いがあれば、新選組を呪っていたなら、あの様な美しい最期ではなかったのだと沖田は言う。


「椿さん、山南さんの最期に間に合ってよかったですね」


 沖田はそう言うと、頬を少し緩め笑って見せた。


 武士とはいったい何なのか切腹の何が名誉なのか、そんな恨み節が椿は頭の中で巡らせた。それでも彼が望んだ事なら、仲間はそれを受け入れ送り出してやるものなのだろう。それが武士というものなのだ。

 椿は震える声を圧し殺し「はい」とだけ答えた。

 沖田は椿の背中をぽんぽんと優しく宥め、静かにその場を後にした。


「山崎くん、後は頼みますね」


 山崎は椿の後を追ってここにやってきた。山崎が椿の前で膝をついて顔を覗き込むと、涙で濡らした愛おしき者の姿があった。


 椿が重い瞼を開けると、山崎が目の前に現れた。


「山崎さん、うわぁぁぁん」


 椿は山崎の体に縋りながら、声を上げて泣くことしかできなかった。


 椿の中で「どうして、どうして」と言う言葉ばかりが支配していた。なぜ山南は死ぬことが選択肢に入っていたのか椿には到底理解できない事だった。自分は医者であり人の命を救う立場にある。無傷な人間をあの世に送り出すなどあってはならないことなのに。

 これが新選組の進む道なのか、それとも激動の渦に呑み込まれた者の運命さだめなのだろうか。切腹は武士である証拠だと誰が決めたのだ。椿に悔しさと悲しみが後から後からと溢れだす。


「椿さん。大丈夫ですか」

「すみません。取り乱してしまいました」

「いえ」


 椿は体を起こし山崎に向き直った。

 泣きはらした椿の顔は擦れたように赤くなっている。それを見た山崎は、中庭に降りて自分の手拭いを、鹿威ししおど)しの水で濡らした。

 ふと山崎が顔を上げると、中庭から見える景色のなんと風流なことか。寺の境内から本殿の屋根が僅かに覗き、僧侶が唱える経の音色が低く響き渡る。それに共鳴するかのように鹿威しがカタンと鳴った。

 山南は此処で自分の身の振りを決めたのだと思うと、胸が苦しくなった。まるで此処だけは別世界のように思えたからだ。


 山崎は濡らした手拭いをそっと椿の頬に当てた。きんきんに冷やされた手拭いが、椿を現実の世界に引き戻す。椿は自分の頬を拭う山崎の手に自分の手を重ねた。そこから伝わる山崎の体温を感じた。


――ああ、この人は生きているわ。確かに今を生きている。


「椿さん、副長が心配していました」

「はい。でも、もう少しだけ。もう少しだけ山崎さんの温もりを感じさせてください」


 椿が縋るように言うので、山崎は手拭いを足元に置き今度は両手で椿の頬を包み込んだ。椿はそっと瞳を閉じる。


――お願いです。あなたは死なないでください。どんなに不利な戦争になっても、どうか死なないで。


 口に出すことは許されないと承知している。此処では誰もが武士として己の使命を全うしようとしているのだから。死ぬなという事は、戦うなという事と同じ。それは武士を辞めろと言うのと同じだから。


「俺は、死にませんよ」

「え……」

「新選組と最後まで共に在り続けるのが俺の使命です。有意な情報を副長へ知らせるため、新選組を勝利に導くために自分がいるのです。死んでしまえば隊務放棄となります」


 山崎は椿の心を読み取ったのか、迷いのない眼差しで椿にはっきりと言った。


「山崎さっ......」

「だからっ。俺は、死にません!」


 椿は山崎の力強い言葉に自分も応えたいと思った。だから自分にできる精いっぱいの笑顔をこしらえる。


「私が死なせません。絶対に死なせたりしませんからっ」


 そう、自分が救えばよいのだ。

 そのためにもっと学ばなければならない。新選組を、山崎を最後まで武士として、戦士として悔いなく戦わせるために自分は此処にいるのだ。


 椿の熱きその言葉に、山崎は静かに頷いた。


――椿さん。あなたの笑顔は眩しい。何があっても、どうか強く乗り越えてください。


 山崎は椿の手を取り静かにその場から離れた。山南の匂いが残るこの世界から。





 椿と山崎は土方の部屋に戻った。土方は椿の顔を見て安堵したのか、鬼のように強張っていた顔が少し緩んだ。


「もう、大丈夫なのか」

「はい。ご心配をお掛けいたしましたが、私なりに消化いたしました」

「そうか」


 実は土方自身も今回の件は参っていたのだ。近頃は意見の不一致で山南とぶつかり合ってばかりだった。それでも江戸に居た頃からの仲間であり、彼の事はとても慕っていた。賢く冷静でそれでいて優しく、周りの事がよく見えている人だった。

 しかし隊を率いる者として、山南だけを特別扱いすることはできなかった。どうしてもっと遠くに行ってくれなかった。どうして大津なんかで宿を取ったのだと悔やまれてならない。

 沖田と山崎を追わせたのは、手荒な真似で連れ戻したくなかったからだ。そして心のどこかで、見つからなかったと言う甘い言葉を期待していた。


「で、どうするんだ。もう新選組ここには居たくなくなっただろう。身内であろうと容赦なく切腹させるとんでもない集団だ。いい加減、愛想が尽きただろう」


 土方の投げやりな言葉に椿は苛立つ。


「仰りたい事が分からないのですが」


 椿は土方も落ち込んでいる事を承知していた。悲観的になるのも無理はない。きっと自分以上に自身を責めているに違いない。隊の責任をこの男が担っているのだから。だからこそ椿は、いつもの椿に戻る必要があった。


「分からねえだと。こんな誰でも簡単に殺すような場所には、居たくなくなっただろって、言っているんだ。出て行きたければ止めやしねえよ」

「相変わらず一人でお決めになるのですねっ」

「なんだと!」


 山崎は焦った。椿が土方に喧嘩を売ろうとしているではないか。


「椿さん!」

「山崎さんは黙っていてください。土方さん、泣きたい時は泣けばよいのです。ここには私と山崎さんしかいませんから。鬼の副長だって涙くらい出るでしょう」

「てっめぇ……」


 土方は前のめりになって椿を睨みつけた。眉間の皺は一層深く掘り込まれている。椿も怯むこと無く、文机に手をついて土方を睨み返した。


「ちょ、ちょっとお二人とも」

「煩せぇ」

「黙っていて下さい」

「っ.....!」


 土方の瞳には椿自身が睨む姿が映り、椿の瞳には土方自身の鬼の形相が映っている。互いに自分の顔を見ながら睨みつけ、一歩も引こうとしない。


「泣いてください!」

「誰が泣くか莫迦やろう!」

「強情ですね」

「おまえに言われたくない」


 そんなやり取りをしいると、突然障子が開き、断りもなく一人の男が入ってきた。

沖田だ。


「おやおや。お二人は接吻でもするつもりですか」


 沖田の突拍子も無い一言で我に返った土方と椿は、大慌てで後ろに飛び退いた。


「んなわけあるかっ!」

「ご冗談を!」

「はははっ。冗談に決まっているじゃないですか。嫌だなぁ。本当に接吻だったら山崎くんが黙って見ているわけがないでしょう。おかしな人たちですね」


 そう言って、沖田は一人けらけらと笑った。

 本当は沖田だって分かっている。誰よりも察しがいいのだから。沖田自身も兄の様に慕った男の首を、介錯という形で斬り落としたのだ。誰もが皆、深く傷ついていた。

 椿が必死になって、いつも通りに戻そうとしている姿が、痛いほど胸に響いていたのだ。


 いつ、誰が、どんな形で死ぬのか分からないこの乱世。それでも、それを糧にして乗り越えて行かなければならない。

 己に命が有る限り。

 これはまだ始まりにすぎないのだから。

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