第21話 溶かされる心

 無言で三人のもとへ行く山崎を誰も止めることができなかった。否、誰も止めてくれるなと山崎の背中が語っていたのかもしれない。固唾を呑んでその行く末をただ見守るしかない。

 山崎が折り重なる三人の側に片膝をつくと、気のせいかいつも以上に低く落ち着いた声を出す。


「局長、お怪我はありませんか」


 ゆっくりと近藤の腕を取り、椿からゆっくりと引き離した。


「ああ、山崎くん。すまんな」

「いえ」


 そして今度は椿の腕を取り、腰を支えながら優しく抱き起こした。


「山崎さん。ありがとうございます」

「大丈夫ですか。着物に酒がかかってしまいましたね」


 あまりにも冷静に対処する姿に椿の心臓が跳ねた。決して良い意味で跳ねたわけではなさそうだ。山崎の表情から感情を読むのは非常に難しく、起こっているのか呆れているのか分からない。


「副長、災難でしたね。お怪我は」

「ああ、俺は大丈夫だ。気にするな」


 土方はまさか自分の軽い冗談が引き起こした事だと、口が裂けても言えない状況にあった。それは、あまりにも滑稽過ぎたからだ。椿に「冗談だ」の声が届いていなかったのに、もっと早く気づくべきだった。


「椿くん大丈夫かね。こんな大きな体で君に乗ってしまった。申し訳ない。酔っていたのかもしれんな。すまん!」


 局長が頭を下げるものだから椿は慌てた。


「あ、頭を上げてください。私のそそっかしさが局長を巻き込んでしまったのです。私こそ申し訳ございません」


 お互いに頭の下げ合いをしている。本当は一番深々と頭を下げなければならない男が隣に居るのだが誰も気づかない。


「椿は今日はよくやってくれた。なあ近藤さん。こいつが居なかったら辛気臭い集まりになってただろう」

「おお、もちろんだ。椿くん、本当にありがとう。いやぁ、椿くんの按摩も最高だったよ。怒りもすっかり消えてしまったからな」


 豪快に笑う近藤の後ろで、表情を変えない男が一人。山崎だ。何かが彼の導火線に火をつけてしまったようだが、果たしてそれは何なのか。原田も沖田も藤堂も目が離せなくなっていた。


「左之さん、山崎くん怒ってるよな」

「ああ」

「平助くん、誰が怒らせたと思う?」

「全然分からねえ」


 他の幹部は山崎が怒る前触れを知らない。それに三人が転けた姿を見てしまい、笑いを堪えるのに必死だったのだ。


「椿さん、着物は直ぐに着替えた方がいいですね」

「えっ、あ。本当だ」


 着物の袖をくんくんと臭う椿は、先ほどの失態はもう忘れている。


「椿、このまま下がっていいぞ。後は野郎だけで適当に飲む」

「土方さんよろしいのですか」

「ああ構わねえ。なあ、近藤さん」

「ああ、ゆっくり休みたまえ」


 椿は近藤の言葉を聞いて、チラリと土方にめくばせをした。『お部屋に行かなくて済みました。土方さんありがとうございます』とでも心の中で言っているのだろう。土方はただ頷く事しか出来なかった。『いや、悪いのは全部俺だ。すまん! 椿』と心の中で謝っただろうか。

 椿が席を立つと、山崎も後を追うように部屋を出た。


「椿さん、大丈夫でしたか」

「はい、ちょっと驚きましたけど」


 すると山崎は椿の手首を取り、優しく撫でる。先ほどまで近藤が強く握りしてめいた左の手首だ。


「山崎、さん?」

「部屋まで送ります」


 有無を言わせない雰囲気に椿は黙って従った。なぜか空気が重い。鈍感と言われる椿でも分かるくらいに重いのだ。横目で山崎の表情を見るが、いまいち分からない。部屋の前まで来ても山崎は繋いだ手を放そうとはしなかった。やはり何かおかしい。椿は何か言わなければと焦った。


「あのっ、山崎さんも休んで行きますか。お疲れでしょう?」

「えっ」


 何を言うかと思えば、椿は山崎に部屋で休んで行けと誘っているではないか。椿は首を傾げて山崎の返事を待っている。


「俺が、椿さんの部屋に入ってもいいのですか」

「はい、勿論です」


 先ほどまで嫉妬という怒りの炎が宿っていた山崎だか、今度は男の本能を刺激され戸惑っていた。怒りから嫉妬へ。その嫉妬が甘い誘惑に侵され始めている。椿は決してそういうつもりで言った訳ではない。いつもの山崎なら気づいただろう。しかし、今日の山崎は急激な己の感情の変化に付いていくのに苦労していた。今の山崎にとって目の前にいる椿は、自分を妖艶に誘っているようにしか受け取れなかったのだ。


「では、お邪魔します」


 山崎は椿の部屋に足を踏み入れた。


「何もありませんけどお座りください。隣の部屋で着替えてきます」


 山崎は言われるがままに正座をし、じっと自分の手元だけを見つめていた。椿と限られた空間で二人きりになったことは何度もある。少し前には体を繋げたではないか。なのに、ここは椿の部屋なのだと思うだけで心臓が煩く鳴る。


「お待たせしました」


 椿は山崎の様子が気になって仕方がなかった。廊下を歩く時に感じた重苦しい空気はなんだったのか。椿は山崎の正面に腰を下すと、言葉に気を付けながら尋ねた。


「山崎さん。私、何か怒らせるような事をしてしまったのでしょうか」

「え」

「その、少し怒っているように見えたので。あっ、先ほど局長と土方さんにご迷惑をかけてしまいたした。隊士の皆さんが一生懸命に隊務をして帰って来たというのに、私があんな失態をしてしまったから。すみません」


 椿は山崎に頭を下げた。山崎や隊士の皆に申し訳ないと思ったのだ。


「俺はそんなことで怒っているのではありません」

「やっぱり怒っていたのですね」

「いや。その......」

「言ってください。私、きちんと直しますから」


 やっぱり山崎は怒っていたのだ。しかしあの失態に対してではないと言う。ではいったい何に対してなのだろうか。椿には考えても分からない。


「山崎さん、お願いします。教えてください」


 今にも泣きそうにな椿は山崎に教えを請うた。ただ山崎に嫌われたくない一心で。


「椿さん。俺は貴女に怒っているわけでは」

「え、では誰に? 何に怒ったのですか」

「ですから、俺は器量の小さい自分に怒っているんです」

「あの、よく分かりません」


 山崎は拳を握りしめ息を短めに吐くとこう言った。


「椿さんは新選組の為に昼夜問わず医者として、いや。今はそれ以上の事をしています。俺はそんな貴女を誇りに思っています。誰からも頼りにされ、誰もがあなたを好いています。貴女が笑うと皆が笑う。貴女が病に倒れると皆が心配し世話をしたがります。いつの間にかあなた無しでは、新選組は回らなくなってしまった」

「そんな事はないです。大袈裟です」

「椿さんは自分の価値を低く見積もり過ぎています。あなたは誰からも必要とされる素晴らしい人です。なのにあなたは俺を選んだ。どうしてですか」


 山崎は捲し立てるように椿に話した。山崎の握りしめた拳が色を変えるほどに力を入れて。


「でも、それは山崎さんと出逢ったからだと思うのですが」

「俺と出逢ったから……」

「はい。山崎さんが居なければ私はここに居ませんし、皆さんに頼りにされる事もなかったのですけど。どうでしょうか」

「それはっ」


 山崎は熱くなっていたが、椿は不思議と冷静だった。


「私は山崎さんのひたむきな眼差しに惚れたのです。何事にも目を背けず、自分にできる事は厭わない姿勢に。だから私は山崎さんが居る新選組を支えたいと思ったのです。山崎さんが居なかったら私は此処に居ません。こうして皆さんから認めてもらえる存在にはなれなかったのです」

「椿さん......」

「誰かと比べたことはありません。私には山崎さんしか見えてないのです。山崎さんこそ、自分を低く見積もり過ぎです」


 山崎に椿の想いは届いただろうか。もしかしたら山崎は不安だったのかもしれない。この新選組には優秀な隊士たちがたくさんいる。土方だって斎藤だって容姿端麗な上に、剣の腕も確かだ。椿の一人や二人、不逞浪士が何人掛かろうと簡単に払ってやれるだろう。


「椿さん!」

「はい」

「俺は確かに自信がなかった。行先も任務内容も、帰る日も告げる事ができず、貴女の傍を離れます。もしかしたらそのまま死んでしまうかもしれない。それを思うと、椿さんを俺の存在に縛る事がいけない事のように思えて」

「そんなっ」

「俺は椿さんを、幸せにできないかもしれないんです」


 山崎の瞳は震えていた。本当に俺で良いのかと言っているようだった。椿は山崎の握りしめた拳に手を重ねる。


「私は山崎さんを想うだけで幸せになれます。姿を見ただけで、こうして言葉を交わすだけで幸せです。何日も会えなくとも、こういう時間が支えになってくれます。山崎さんは私を幸せにしてくれていますよ?」

「椿さん」

「でも、死ぬのだけは許しません! 絶対に這ってでも帰ってきてください。私が絶対に死なせません!」

「這って来れない場所かもしれません」

「その時は私が、這ってでも迎えに行きます!」


 椿は山崎を睨んだ。山崎の氷のように冷え切っていた精神が、椿の言葉で溶かされて、ぽたぽたと雫が落ちていく。


「俺、なんだか心がぐちゃぐちゃです」

「山崎さっ」


 山崎は重ねられた椿の手を払いのけ、自ら両腕で椿を引き寄せた。ぎゅうと抱きしめ、椿の首元に顔を埋めた。椿は両手を山崎の背に回し、私も同じ気持ちだと訴えるように抱きしめ返す。


「椿さんはっ、俺のものです。誰にも渡しませんっ!」


 山崎の双眸は、焔が立ったようにギラついていた。

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