第20話 局長の怒りを鎮めよ

 池田屋での騒動が落ち着いた矢先、長州にこの事件が報告され十日も経たない内に挙兵されたと知らせが入った。

 今回のこの情報は会津藩の隠密が突き止め、挙兵後半月も過ぎてから新選組に知らされた。


「なんでこう会津藩の隠密は遅いんだ!」


 土方はかなり苛立った様子で机を叩き宙を睨みつけていた。聞けば新選組の監察隊は動いていなかったらしい。その様子に椿は、ふと今回の情報収集の遅れは自分のせいではないかと不安になった。先日まで感冒で床に伏せっており、その間は山崎が付ききりだったからだ。


「土方さん、申し訳ございません! 私のせいで」

「なんだ、お前は何かしたのか」

「私が体調を崩さなかったら、山崎さんも諜報活動が出来たのに。新選組の邪魔をしたのは私です」


 椿は自分が山崎の足枷になってしまったと後悔していた。


「お前の病は関係ねえよ。あれ以降、会津藩が仕切ると言って聞かねえ。指示が来ない限り新選組は動けない」

「そう、ですか」

「それにお前が倒れたって、必要であれば山崎は任務に出すさ。お前が泣いて頼んでも聞いてやれねえ」

「なっ、泣いて頼んだりしません」

「だから、気に病むな」


 土方の言葉を聞いて少し安心したものの、以降はあのような事が無いように気をつけようと椿は心に誓う。


「にしても遅いっ!」


 土方の苛立ちは治まらなかった。何かを待っているのか、書物かきものの手を止めたままだ。


「副長、宜しいでしょうか」

「入れっ!」


 そこへ山崎が入って来た。


「局長がお呼びです」

「分かった、直ぐに行く」


 またたく間もなく、山崎は部屋を出ていった。隊務中の山崎はお面を被ったように表情が堅い。堅いというよりも無いに等しい。それは椿が側に居ようとそれは変わらない。椿もそれをよく理解しているため、敢えて山崎を見ないようにしている。


「椿、悪いが此処を頼む」

「承知しました」


 局長が副長を部屋に呼ぶという事は、なにか面倒な事が起きるに違いない。椿は土方が勘定した物を整理し、新しい紙を出し、筆を馴らして置いた。墨はまだ十分にあるようだ。こうしておけば戻って来てすぐ、作業ができる。いても会議が終わると、書面での申請や申告は土方が行っているからだ。



 一刻ほどして土方が戻って来た。表情は堅いように見える。黙って文机に向かうと眉間に皺をぐっと寄せ、一気に何かを書きはじめた。書きながら、土方は言う。


「椿、暫く忙しくなる」

「はい」

「今回は隊を率いて、一番遠くて伏見か大阪まで出る。おまえは屯所で待機だ」

「待機」

「ああ、新選組に正式な出動要請がなかなか来ないから押し掛けることになった。動きが読めねえからおまえは連れて行けない」

「分かりました」


 幕府は今回、薩摩藩が加勢するとの申し出を受けた。扱いの難しい新選組は蚊帳の外なのだ。しかし、それを黙って見ている近藤と土方ではない。


「山崎も伝令で連れて行く。お前は屯所で不測の事態に備えて、救護班を取りまとめるんだ。分かったな」

「はい!」


 長州は池田屋で同胞が殺されたことに激昂し、僅か十日程で兵を挙げ京に向かっていると言う。もしかしたら銃が使われるかもしれない。刀しか知らない新選組は大丈夫なのか。

 椿は仕事を終え部屋に戻ろうとして、ふと足止める。『山崎も伝令で連れて行く』と言う土方の言葉が蘇った。伝令は時に刀を振るう事よりも危険な任務だ。銃弾の飛び交う中でも、命令とあらばその中を駆けるだろう。


 大きな不安に椿は呑み込まれそうだった。




 

 土方の申請のお陰か、会津藩預かりの身の上である新選組は、会津藩の兵の一部として出兵する事が許された。近藤と土方の粘り勝ちとなったようだ。


「新選組、長州征伐に出陣致す!」


 そう、張り切って出て行ったのを見送ったのが半月前。その後、特に嫌な知らせはなかった。あくまで椿にとってはと言っておいた方が良いだろう。因みに、池田屋からそう日も経っていないにも関わらず沖田と藤堂は勇んで出陣していった。


 屯所待機組は今日も平穏に過ごそうとしていた。


「尾方さん、皆さんは今頃どうしているのでしょうか。怪我など無ければよいのですが」


 椿は池田屋で共に救護に当たった尾形と部屋の掃除をしていた。


「話によると、後処理ばかりでなかなか思うように動けていないとか」

「そうですか。土方さん苛々しているかもしれません」

「ああ、確かに」


 二人で顔を見合わせて、微妙な笑みを交わした。帰ってきたら大変だなと同じように思っているのだ。


ーー山崎さん、どうしているかしら。ご飯は食べられていますか。


 口には出せない山崎の事で頭の中はいっぱいだった。


「椿さん!」


 そんな時、太い声が屯所内に響いた。振り返ると其処には島田が立っていた。


「あっ島田さん。お疲れ様です」

「はい。先だって知らせがあります」


 島田が伝令で来たとなると、山崎はいったいどうしたのか。一瞬、冷や汗が流れる。


「はい」


 背の高い島田の顔を見るには、首をかなり上げなければならない。胸のざわつきを押さえながら椿は言葉の先を待った。


「二、三日で全部隊が帰隊しますので、心づもりを」

「承知しました。怪我人の数や状態は」

「それが……」

「はい」


 島田は眉をハの字に下げ、とても困った顔をしていた。それが更に椿の緊張と不安を煽ると島田は知らない。


「おりません」

「え……、今なんと」

「はい、怪我人はおりません」

「居ない! 怪我人なし。では、殉職者は!」

「それも、おりません」

「え」

「皆、無傷なんです」

「そ、そうですか。医者としてはとても喜ばしい事ですが……」


 島田のハの字の眉を見て椿は思った。恐らく、新選組は満足に動く事が出来なかったのだと。思わず尾形と顔を見合わせた。尾形も同じ事を考えていたのだろう、困ったように笑い返された。


「島田さん、違う意味で心の準備が必要の様ですけど」

「さすが椿さん。かなり苛立った方がいらっしゃいまして」

「それって……(土方さん)」

「ええ、局長がかなり」

「ええ! 副長ではなく局長ですかっ」


 島田は黙って頷いた。

 椿にとってそれは予想外であった。いつも温厚で大きく構える近藤が一番苛立っていると。


「どうしましょう。私、局長の扱い方は分からないのですよ」

「椿さん、そこを何とか」

「なんとかと申しましても」

「副長からの伝言で、椿に局長を任せると」

「ええっ……」


 もう仰け反る他に感情の表し方は無かった。

「椿さんなら大丈夫ですよ!」と、尾形は無責任な励ましをよこしてくる。どうしよう、どうしようと椿は唸った。

 負傷者は居ないとのことで大量の医療道具は一旦片付けた。尾形は淡々と広間や隊士の部屋を掃除する。椿は一人、頭を抱えていた。局長をどう励まし、どう宥めるのかということに。


「椿さん、大丈夫ですか」

「尾形さん!」

「はい!」

「全く大丈夫じゃないですよ!」


 屯所待機組と島田と話し合った結果、宴を設けて酒で労うしかないのではないかと言う結論に至った。


「お酒で局長の気持ちは治まるのですか?」

「局長はあまりお酒は強くありません。しかし、酒の席の雰囲気は大好きですよ!」

「島田さん、信じていいのですよね」

「勿論です」


 どうもいまいち信用できない。局長も副長も酒が強くないのは知っていた。


ーー宴は好き? ほんとうに?


 全ては副長からの任務に応えるため、局長の気持ちを宥めるために。それは新選組のためになると意気込む椿。だが、これが山崎の嫉妬の火に油を注ぐはめになるとは思いつかない。椿は人一倍男女のソレに疎いのだ。どちらの気持ちも削がずに立ち振る舞うなど無理だろう。



 二日後、大阪付近まで進軍していた新選組が帰ってきた。島田からの報告の通り、怪我人も殉職者もおらず皆無事だった。一般隊士達は中庭に通し、そこで足を清め各部屋へと戻した。その役目は椿以外の者たちが担った。

 椿には近藤を宥めるという重要な任務があったからだ。

 

 玄関からは続々と幹部の面々が上がってくる。椿は彼らに会釈しながら「お疲れ様でした」と言葉を掛けていった。まだ、土方や近藤の姿は見えない。


「おっ、椿。元気にしてたか」


 原田がいつもの調子で椿や頭をひど撫でして上がって来た。椿はにこやかに返事をするが、どことなく頬が引きつる。


「椿さん、何だかいつもと顔が違いますね。強張っていませんか」

「沖田さんお帰りなさい。はい、緊張しているんです」

「何に」

「局長のご帰還に」

「近藤さんに……へぇ」


 沖田は不思議そうに首をかしげたまま部屋に戻って行った。それから、斎藤、永倉、藤堂、武田と顔を合わせたが、いつもと変わりのない様子だった。


「皆さんはお変わりないですね」


 ほっと胸をなでおろした時、外から土方の声がした。


「椿、今戻った。近藤さんは直ぐに来る。頼んだぞ」

「はい」


 局長が間もなく帰ってくる。椿にはどんな表情をしているのか想像がつかない。池田屋へ出陣した時のような形相だったどうしようと、考えただけで気持ちが萎える。土方とはまた違う鬼の顔を持っているからだ。

 いつも怒っている人より、普段温厚な人ほど怖いものはない。


「椿さん」

「はいっ!」


 思わず直立不動で返事をすると、苦笑いしながら山崎が入ってきた。椿は山崎を見て、強張っていた神経が一瞬にして解れていくのを感じた。


「山崎さぁん」


 思わず情けない声を出てしまったのだ。


「椿さん。何ですかその声は」


 ぷっと軽く吹き出して笑う山崎がまるで天使のように見えた。実際、天使などというものは見た事はないが、異国の書物に書いてあった。天使を見たものは、みな幸せになると。

 まさに今がそんな感じであった。


「こ、近藤さんのお世話を託されたので……緊張していて」

「局長の?」

「はい」


 珍しく椿が眉を下げて困っている。いつもなら何とかなりますと、元気に何事にも対処するのに。


「椿さんにも難しい事がありましたか」

「そのようです」

「では、上手くできたら俺が労いますよ」

「本当に」

「はい」

「では、がんばります!」


 上手くやれたら山崎が労ってくれるらしい。単純に気分が上昇した椿は意気揚揚としながら気合を入れた。


 そしていよいよ、近藤の登場だ。

 体格の良い近藤が前に立っただけで、大きな影に覆われてしまう。椿は手を付き頭を下げた。


「ご無事の帰還何よりでございます。お待ちしておりました」

「うむ」

「こちらへお掛け下さい。足を清めますので」


 近藤を上がり口に座らせ、桶と手拭いを持ち椿自ら清めようと近藤の足元に腰を落とした。


「椿くんがやってくれるのか」

「はい。あ、御御足おみあしを触られるのは嫌でしょうか」

「否、私は構わんが。椿くんが嫌であろう」

「いえ、どうぞ。少し按摩もしますので」

「では頼もうか」


 少し熱めのお湯で足を洗い、ツボに沿って指圧をした。足にはたくさんのツボかあると山崎から聞いた覚えがある。


「ああ、風呂に浸かっている気分だな」


 近藤の気持ちは、かなり落ち着いているように見える。


ーーよし、第一関門突破ね。


 清めが終わると、近藤は自室へ戻って行った。その後、近藤を追うように茶を手に近藤の部屋を訪れた。今夜の夕餉には、皆を労いたいので酒を出しても良いかと許可を求めたのだ。


「少しくらいなら良いだろう」

「ありがとうございます」


 近藤は医者である椿が、自分たちの為に心を尽くしてくれている事にひどく感動していた。同時にあどけなかった椿の、自分に尽くすその所作に、女の顔を見た気がして心が落ち着かない。


「椿くんはいつの間にか女になったな。まずいな」


 何がまずいと言うのか。近藤の悪い癖が顔を出し始めたのではないのか。京に上がってからは妾を二人ほど娶った。その度に土方はため息をついていたそうだ。



 夜になると、夕餉の膳と一緒に酒が出された。幹部たちは一般隊士たちとは別に膳を囲むのでそれほど人数は多くない。

 椿は近藤の右側に腰を下ろした。


「下手で申し訳ないのですが、お酌をしても良いでしょうか」

「ああ構わんよ。椿くんの酌なら安い酒でも美味くなる」


 近藤はご機嫌だった。近藤のような自尊心の強い男は自分が初めてである事、しかも不器用だかその自分のために一生懸命な態度にとにかく弱い。仕方がない、俺が育ててやろうじゃないかと、気分が上がるのだろう。


「皆も遠慮なく飲んでくれたまえ!」


 わははと笑い、今回は不甲斐なかったが皆の働きは褒めるに値するとまで言ったのだ。

 椿はちらりと隣に座る土方の顔を見た。


「おまえ、なかなかヤルじゃねえか。助かった」


 土方は小声で椿に礼を言った。


「土方さん。この後はどうしたらよいですか」

「それは、その。近藤さん次第だろ」


 土方はもごもごと歯切れの悪い言い方をする。


「局長しだい、と申しますと」


 土方が更に声を潜めて、椿に耳打ちをする。


「もしもだ。もしも近藤さんが部屋に来いって言ってきたら」

「言って、来たら……」

「行くしかねえだろな」

「それで私は何を?」

「おまっ、相変わらずだな。お前の事を偉く気に入っちまってるからな、あれだ……喰われちまうかもしれねえな」

「喰われる……。ええっ!」


 土方の「冗談だ」の言葉を聞く前に椿の叫び声が部屋に響いた。当然皆が椿に注目する。土方は何事も無かったように魚をつついていた。


「椿くんどうした」


 近藤が心配そうに椿の顔を覗き込む。思わず椿は仰け反った。椿の隣にいた土方に後頭部で頭突きをしてしまう。


ーー ゴッ!


 不意を突かれた土方は驚きながら姿勢を崩した。一瞬、支えを無くした椿は、当然そのまま後ろに倒れていく。それを防ごうと近藤が椿の腕を掴んだ。椿は更に焦って近藤から体を離そうとし、土方の上に乗り上げる。


「おい、ちょっと、待てっ」


 幹部たちは箸を持ったまま、または猪口ちょこを口に付けたまま、その光景をただただ見ているだけだ。三人が折り重なって行くのを何事かと見ていた。


ーーバタッ、ドタッ……


 下から順に、土方、椿、近藤が重なって倒れている。その光景に驚きで幹部は誰も動く事が出来なかった。


「お待たせしました。追加の酒を……」


 障子を開けて山崎が入ってきた。山崎の視線は迷うことな折り重なった三人へ向けられた。


 原田は見た。

 沖田も見た。

 藤堂も見た。

 山崎の右の眉がぎゅっとしなり、眉間に皺が激しく寄って行くのを。


ーーまずい! 山崎が怒っている!


 山崎がスッと無言で三人に近づいた。


 三人は思った。これは、マ・ズ・イ! と。

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