第22話 あなたのものという証

 池田屋騒動以降、新選組も変わりつつあった。幕府からも世間からも見る目が変わり、一目置かれる存在となったのだ。それは時に悪い方へ傾くことだってある。そのいい例が近藤の態度が極端に変わったことだ。いわゆる、天狗様になってしまったのだ。


「土方さんよいのですか。近藤さん、永倉さんたちに訴えられていますよ」

「放っておけ。新選組の内輪揉めにいちいち会津藩主が取り合うわけねえだろう。それに近藤さんだって、少しは思い知った方がいいんだよ。まったく、どいつもこいつも」


 そうでなくても隊士が脱走し人が足りなくて大変なんだと土方は頭を抱えていた。脱走は切腹に値するのだ。しかし、あまりにも脱走者が多く、いちいち拿捕に走っていられなくなった。一躍有名になった新選組は一時的に隊士が増えた。しかし、質の悪い者たちばかりで結局は耐え切れずに脱走してしまうのだ。


「で、隊士募集をする事になった」

「募集しなくても毎日入れてくれって来ているみたいですけど」

「この辺の輩は使えねえ。江戸に募集に行く」

「江戸へ!」

「そこでだ」

「はい」

「おまえも一緒に江戸に行くんだ」

「えっ、どうして私が」

「隊士募集と長州の偵察で此処は手薄になる。そんな中、女のおまえを一人残すわけにはいかねえだろ」

「でもっ、やま」


 椿が言わんとすることを知っている土方は、空かさず椿にこう言った。


「山崎には長州に入ってもらう」

「長州に、ですか」

「大阪の鴻池こうのいけさんが長州のあちこちに金を貸しているんだ。それの取り立てについて行かせる。聞くところによると、長州は軍艦を使って異国の船を追い返したらしい」

「そんな危険な所っ」

「大丈夫だ。山崎には鴻池側の人間として行かせる。危険はねえよ」


 鴻池とは新選組に資金を提供してくれた商家だ。あの浅葱のダンダラの羽織りが作れたのも、鴻池のお陰だと聞く。


「山崎もいねえこの屯所に残る方が危険だろうが」

「でも、私が一人で残る訳ではないですよね」


 土方が言うには人手不足を補うために斎藤、原田、永倉は昼も夜も巡察に出る。椿の事を気にしている暇はない。それに近藤は局長職が忙しい。毎日どこかの偉いさんの話を聞き、酒を飲んでいるのであてにならない。


「ですが、私は土方さんのお側で仕事をしていますから」

「だからお前も江戸に行くって言ってんだ」

「と、いいますと」

「隊士募集に藤堂が一足先に立った。後を追って俺も行く」

「土方さんも行くんですか!」

「だ、か、ら。お前も連れて行くって言ってんだよ。万が一、おまえに何かあったら俺は山崎に殺されるぞ」

「殺されは、しないでしょ。たぶん」

「たぶん」


 ない、と言いきれなかったのは山崎との関係が良好だということだろう。


「では、お供いたします」

「おお。出立しゅったつは三日後だ。準備をしておけ」


 三日後とはまた急な話だ。それまでに山崎の顔を一目でも見たいが、まだ居るだろうか。

 山崎は特殊な任務の為、いつからいつまで不在にするのかは知らされない。椿は山崎を探すために、土方の部屋を後にした。





 結局、椿は行き違いになるのを避けるため、山崎の部屋の前までやってきた。声を掛けたが返事はない。


「すれ違いになるといけないから、ここで待たせてもらいます」


 風が秋の匂いを運び心地よく吹き抜けるこの廊下で、椿は柱を背にして座った。

 江戸までどれくらいかかるだろうか、そしていつ戻ってくる事が出来るだろうかと考えてみる。


ーー年内には戻れるかしら。


「はぁ……」


 つい、溜息を漏らしてしまう。考えれば山崎とは大阪で出会い、今日まで何だかんだと近くにいたのだ。顔が見られない、声も聞くことができないと思うと不安と寂しさは抑えられない。


「椿さん」


 声がした方に顔を向けると、口元を緩めた山崎が立っていた。土方が椿にしかあいつは笑わない、俺もあいつの緩んだ顔が見てみたいもんだと言っていた事を思い出す。


「どうしました。冷えますから、中へ」

「はい」


 山崎は椿が自分の部屋の前で待っていたことを嬉しく思いながら、さり気なく部屋に通した。


「何かあったのですか」

「実は……」


 椿は山崎に、自分も江戸へ行かなければならない事を告げた。本当は京で山崎の帰還を待ちたかったが、屯所が手薄だという事情から土方が決めたのだと言うことを。


「そうでしたか、そうですね。副長と一緒の方が安全かもしれません。屯所は確かに人手不足な上、外では攘夷派の動きも激しくなっていますから」

「そうですよね」


 本当は山崎と一緒に長州へ行きたい。しかし、いくら商人の身分で入るとしても自分が足手まといになるのは間違いない。遊びではなく、隊務で赴くのだから。


「山崎さんはいつ此処を立ちますか」

「明日の朝、立ちます。いつ戻れるかは正直今回は予測がつきません」

「明日、ですか」


 椿のいつもの元気な声が小さくなる。それを見た山崎は椿の手を両手で包み掬い上げた。


「椿さん。暫く会えませんが、互いにすべき事を全うしましょう。俺はいつも椿さんの事を想っています」

「はい。私も山崎さんの事を毎日想います」

「江戸までは半月以上はかかるでしょう。見たことのない景色や食べ物を十分に楽しんで来てください」

「ふふ、遊びに行く人みたいですね」

「それくらいの気持ちで行ってきてください。他は副長がなんとかしてくれます。それに江戸は幕府の御膝元ですから、京よりは安全です」


 山崎はできるだけ椿の不安を取り除いてやりたかったのだ。きっと楽しい事ばかりだよと子供に言って聞かせるように。


「椿さん?」


 椿が眉をぎゅっと歪めて山崎を見上げた。小さな唇を噛みしめて、不満げに山崎を見つめる。そして突然、倒れ掛かるように椿は山崎に抱き着いた。椿の両腕は山崎の腰に絡みついていた。


「椿、さん」

「少しの間このままでいさせてください」


 山崎はいつだったか自分が椿に似たような事を言ったのを思い出す。苦笑いしながら椿を受け止めた。山崎は椿の小さな背中をトントンと子をあやすように叩くと、椿は山崎の着物を強く握り返した。

 暫くすると、椿はゆっくりと体を起こしながら口を開いた。


「考えたくないのに我儘な言葉ばかりが頭に浮かんできます」

「それは、どんな言葉ですか」

「言ってもよいのですか」

「言うのはただですよ」


 山崎は椿が言い易いように、ほんの少しだけおどけるように言ってみる。すると、思いもよらない言葉を椿は吐いたのだ。


「本当は私も長州に行きたいです。山崎さんについて行きたい。顔も見られない、声も聞けないのは嫌なんです。長州の女性は美しいだけでなく賢くて強いと聞きました。山崎さんを取られてしまうかもしれない。それは絶対に嫌なんです。私が土方さんの次に山崎さんを見つけたんですからっ」

「土方さんの、次、ですか」

「はい。残念ながら土方さんが先でした」

「ふ、はははっ」

「山崎さん?」


 こんなに真剣なのにどうして笑うのだと、椿は思った。


「すみません。あまりにも椿さんが正直で、つい。こんなに正直で可愛らしいひとがいるのに、他の女の人を見るわけないです。それに俺は好かれる顔じゃありません。誰も寄ってきませんよ」

「……」


 椿はまだ納得していないのか、むくれた表情はなおらない。それを見た山崎は何か企んだように口角を上げた。

 山崎がこんな顔をする事は滅多にない。否、一度もなかったはずだ。口角をゆっくり上げる仕草は、なぜか沖田の顔を思い出させる。だからつい、構えてしまうのだ。


「な、なんですか」

「椿さんが俺を信用していないようなので、証を作ってもらいます。いいですか?」

「証を作る、とは?」

「俺があなたのものだという証ですよ」

「……え!」


 山崎は椿から一歩離れると、着物の合わせを自らの手でぐっと広げた。程よく鍛えられた男の胸が椿のちょうど目の高さに現れた。


「あ、あ、あか、あかしって」


 椿の心臓はどきどきを越してばくばくと鳴りはじめる。心臓が皮膚を突き破って飛び出してきやしないだろうかと思うほどだった。


「椿さん。俺に妙なムシが付かないようにしるしを付けてくれませんか」


 山崎は決して冗談で言っているのではなかった。椿といえば、顔は沸騰しきったように赤くなり、その胸から目が離せなくなっている。


「嫌、ですか」


 その聞き方は本当に狡いと椿は心の中で叫んだ。


ーー嫌ではないって、分かってるくせにっ!


 椿は山崎に一歩、近づいた。そして山崎の胸に手を添えた。山崎はそれを黙って見ている。しかし、椿はどうしたら良いのか分からずにじっとしたままだ。山崎はそんな椿を導くように自分に引き寄せた。その勢いで椿の唇が山崎の胸に触れた。


「んっ……ん?」


 椿は唇を当てたままピクリとも動かない。いや、動けなかったのだ。山崎がそっと上から様子を覗うと、恥ずかしそうに椿は顔を上げた。

 その瞳は困惑と緊張からか潤んでいた。それでも山崎はあえて何も言わなかった。椿がどうするのか見ていたかったからだ。


「あの……」

「はい」

「どうやったら、しるしがつくのですか」


ーーどうしてこの人はこんなに愛らしいのか!


 込み上げてくる愛情という名の泉が、山崎の心を溢れんばかりに満たして行く。滅茶苦茶にしてしまいたくなる衝動を、山崎烝が持ち合わせる全ての理性で押さえ込み、椿の背中をもう一度抱き寄せた。


「どうやったらつくと思いますか」

「わっ、分からないから聞いているのです」


 椿は焦った。これは完全に山崎の間合いに引き込まれていると。山崎がこんなふうに意地悪く聞き返してくることなんてなかったからだ。それは楽しそうに、しかも心なしか声が黒い。


「では、お教えします」

「へっ、やっ」


 山崎は椿の襟元を押し広げ、いつかの夜のように彼女の胸に顔を埋めた。チリっとした小さな痛みのあと、椿の胸には赤いしるしが刻まれた。


「あ、えっ。うそっ。これはどうやって」

「思い切り」

「思い切り?」

「吸ってください」

「す、すっ! 吸う!」


 山崎は真剣な顔をしてこくりと頷いた。何度見てもその真剣な眼差しに変化はない。これはやるまで逃げられないという事だ。どうしてこんな事になったのか。もう考える事を放棄した椿は意を決して、力の限り吸ってみた。


「ふっ、ふふ。ふはっ、はは」

「山崎さんっ」

「すみません。俺、はは。くすぐった、はは」


 椿が何度か試みるも、全く痕はつかなかった。山崎は悲しそうに俯く椿を見て、もう一度ぎゅっと抱きしめてから解放した。


「椿さん。此処にあなたのしるしがしっかりと刻まれました。だから大丈夫です」


 山崎は自分の胸元をトントンと突きながらそう言った。


「本当ですか」

「はい」

「でも、つかなかったのですよ」

「いいえ。ついています」


 山崎が初めてお日様のように破顔して笑った日だった。

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