第3話 沖田が仕掛けた罠

 悩んだ末に、おとなしく沖田の部屋に来た椿は言われるがままに腰を下ろした。何度見てもここは本当に殺風景な部屋であった。椿は改めて部屋の中を見渡して、これは生花だけでは足りないかもしれないと考えた。


「椿さん、僕の部屋はこのままでいいですから」

「だって寂しいじゃないですか。花でなくとも何か華やかなものを飾りませんか」

「この部屋の主が不要と言っているのですよ。椿さんが気にすることではないでしょう。それに僕は寝る以外は他所に居ますから、飾っても誰も見やしませんよ」


 そう言って、にこりと笑う沖田の顔は時に女よりも色気があるように思えた。一流の剣士でありながら色は白く、体の線は細い。悪戯好きで口が達者で、まるで狡賢い少年のようだ。そのうえ気配にも敏感で、察する能力も高い。どこか人の心を見透かしているような予感さえもする。

 椿は一度だけ見たことがある。沖田が真剣を握った時の眼を。いつも何を考えているか分からない、飄々と振る舞う沖田が、その時ばかりは獣のように見えた。気配の読めない椿でさえ、あの時の殺気は凄まじかったと記憶している。


「椿さん聞いていますか? 僕の話」

「あ、すみません。違う事を考えていました」

「ひどいなぁ。僕の部屋に居るのに誰の事を考えていたんです?」

「いえ、沖田さんの事を考えていました。見た目と中身の相違などを」

「なんですか、それ」


 こてんと首を傾げた沖田は、やがてくくくっと小さな声で笑い始めた。着物の袖で軽く口元を隠して笑っている。それを見た椿は愕然とした。ああ、なぜ自分はその仕草を持ち合わせていないのか。柔らかで色気のある仕草を自然に出してくる沖田には一生敵う気がしない。


「沖田さんは、好いた人はいないのですか」

「どうしたんですか、急に」

「沖田さんのような容姿で背も高く、一流の剣士であれば、若い女の人は放っておかないでしょう? 気に入った女の人の一人や二人……」

「はははっ。椿さんは本当に面白いですね」


 椿は真面目に話をしたつもりだった。しかし沖田から軽く揶揄られてムッとした。


「怒らないでください。褒めいているんですから」

「それのどこが褒めているんですか」

「良く考えてみて下さい。僕たちは新選組です。壬生の人斬り集団と恐れられている存在ですよ。そんな男の所に好んで来る女子おなごなんて、椿さん以外にいやしませんよ」

「そうでしょうか」

「僕たちは女子おなごに好かれたくて此処に居るわけではありません。近藤さんや土方さんの手足となって、幕府のために戦うために居るんです」


 沖田はつい今しがたまで、ヘラヘラ笑っていたにも関わらず、新選組の話となると眉に力が入り凛とした顔になった。この温度差が乙女心を刺激させるのだと椿は思う。それは沖田だけではない。此処にいる組長たちは皆そうだ。人斬りと恐れられているのは間違いないが、彼らの懐に入ってみて分かった。沖田が言うように、みな近藤や土方の手足となり、武士としての誇りを胸に、明日がどうなるか分からないこの時勢を力いっぱい生きている。椿は彼らのそういう姿を心から尊敬していたし、惚れていた。


「なんとなく、理解できます」


 その中に山崎も居るのだ。彼の冷淡な表情の中にある、柔らかい眼差しを椿は知っている。知ってしまったら、もう他の誰かを知りたいとは思わなくなっていた。


「椿さんにも分かりますか」

「はい。私は皆さんと戦うことはできませんが、医者として最後まで共に務めたいと思っています」

「どんなに悲惨な現場でも?」

「はい。私は新選組の医者ですからっ」


 椿は沖田の瞳を正面から見つめ、力強くそう誓った。沖田は目を細めて見つめ返す。椿の心意気があまりにも眩しすぎたからだ。沖田は椿なら、この新選組と共にあってもいいと思った。そして、彼女の事はなんとしても護ってやらねばと心で誓うのであった。


「羨ましいですね」

「何がですか?」

「山崎くんがです」

「どういう意味ですか?」

「山崎くんが椿さんを、一番最初に見つけたからです」

「へ?」

「こんな面白い女子おなごはそうは居ませんよ。僕だったらいつも側に置いて、こんな男所帯の所に野放しにしたりはしませんけどね」


 沖田は真剣な面持ちで、椿との距離を詰めた。沖田を纏う空気が急に研ぎ澄まされて、椿は動くことかできなかった。沖田は椿の顎を人差し指でそっと上向かせ、その黒い瞳を上から覗き込む。沖田は知っている。この瞳にいつも映っているのはたった一人の男。


ーーそれは僕じゃない。土方さんでもない。彼は気づいているのかな……


「お、沖田さん?」

「なんでしょう」

「近い、のですけど……」

「何が?」

「顔が、近いですっ」


 そう言って椿は目を瞑って瞼に力を込めた。あんなに気が強いのに、こんな肝心な場面ではまるで子猫のように挙動不審だ。沖田は顔をゆっくりと椿の肩まで落とし、耳元でこう囁いた。


「早く山崎くんに気持ちを告げないと、誰かに取られてしまいますよ」

「ええっーー!」


 椿は驚きのあまりに肩を揺らしてしまう。そのせいで、沖田の唇が自分の耳たぶにかすかに触れた。


ーーひやっ……!


 辛うじて、声に出すのを逃れることができた。


「もし手遅れだった場合は、僕が椿さんを貰ってあげます。他の人に移ってはいけませんよ? いいですね」


 言い終わるやいなや、ゆっくりと顔を離した沖田の笑みには、これまで見たこともない妖艶さがあった。


ーーやっぱり沖田さんには敵わない……


 椿は何か言い返してやりたいと思ったが、術にでもかかってしまったのか、うまく言葉が出て来ない。沖田は椿の内心慌てふためく様子を思いながら、静かに視線を障子の外に向けた。


 何かに気付いた沖田は「ふっ」と笑う。


 次の瞬間。

 ザザー、パシッ!

 勢いよく障子は開かれた。


 こんな乱暴な開け方をするのは誰なのかと、椿は腰をひねって振り向いた。そこには殺気立ち、今にも刀を抜きそうな、怒りに打ち震えた山崎が立っていたのだ。



 沖田は相変わらずな表情で障子に目をやっていた。振り向いて山崎を確認した椿は、驚きすぎて口が開いたままだ。

 そこには怒りを露わにした山崎が、怒気を孕んだまなこを沖田に向けていた。


「えっ、や、山崎さん。沖田さんっ」


 椿は山崎と沖田を交互に見てはおろおろした。いったい何がどうなったのか。なぜ、山崎は怒っているのか椿には皆目検討が付かない。すると山崎が先に口を開いた。


「沖田さん! あなた、椿さんに何をしたのですか!」

「僕は何もしていませんよ。ねえ椿さん」


 沖田は椿にこれ以上はない優しい笑みを向けた。椿は困惑した。なぜ沖田はこんな表情で私に話を振るのだろうか。


「沖田さんが組長でなければ、俺はあなたを斬っていたかもしれないっ」


 拳を固く握りしめた山崎が恐ろしいことを言い放ったのだ。もしそんな事になったら、山崎は切腹ではすまされない。


「駄目です! 山崎さん、落ち着いてくださいっ」

「椿さん、あなたもです! どうして沖田さんの部屋に居るのですかっ!」

「え、きゃっ」


 山崎は椿の腕を強く掴んで引き起こすと、振り返ることもせずに沖田の部屋を出ていった。残された沖田は、ほんの少しだけ椿に申し訳なく思う。


「少しやりすぎましたね。椿さん大丈夫かな」



 山崎は無言のまま、足早に廊下を進んだ。椿は躓きそうになりながらも必死で着物の裾をさばいた。なぜか不思議と誰ともすれ違うことはなかった。丁度、休憩時間なのかもしれない。

 それはさておき、椿の手首は悲鳴をあげていた。これほどまで誰かに強く握られた記憶はない。三日ぶりにようやく会えた山崎は、何故かとても怒っている。


 屯所の一番奥の角の部屋。そこが山崎の部屋である。一日のほとんどを外で過ごすせいか、沖田に次ぐ殺風景とした部屋であった。部屋の片隅に、山崎の仕事道具である鍼灸の往診箱がぽつりと置かれてあるくらいだ。

 あんなに怒っていた山崎は口を閉ざしたまま何も言ってこない。椿は無造作に放された手首を、山崎に気づかれない様に後ろに回してからさすった。

 相変わらず何も言わない山崎の顔を恐る恐る見ると、未だ怒りからか瞳の奥が揺れているではないか。


ーーわたしってば、いったいどんな失礼を山崎さんにしたのよ!


 何か気に障る事をしてしまったのだろうか。椿はこの三日間の事を振り返ったが、何も思い当たる節がない。あえて言うならば、今日勝手に屯所に上がりこんで、山崎探しで副長に迷惑をかけてしまった事だ。きっとそれを怒っているのだろうと思った。


「ごめんなさい」

「……」

「勝手に屯所に上がりこんで、副長に迷惑をかけてしまいました。大人しく診療所に居るべきでした。お仕事の邪魔をしてしまって、ごめんなさい」


 俯いた椿の目から涙が落ち、畳にシミを作って行く。それを見た山崎はようやく我に返った。


「椿さんっ、違うのです。あなたは悪くない」

「どうしてですか。悪いのは私です」

「だから俺が勝手に怒って、そのっ……単なる悋気りんきです」

「りんき……?」

「椿さんは沖田さんの事が好きですか」

「えっ! どうして」

「先ほど、沖田さんと、その……」

「私が、沖田さんと?」

「くっ、口づけをしているのを見てしまいました」

「……ええっ!」


 山崎はとても悲しそうな顔をして椿を見つめている。椿は山崎が言ったとんでもない勘違いを、なんとか消そうと気を取り直した。


「私は沖田さんと、口づけなんてしていません」

「嘘です。沖田さんの唇が椿さんの此処に触れていた」


 山崎は切ない瞳で椿を見つめ、彼女の首筋を指先で触れるか触れないかの距離でなぞり、そして椿の小さな唇まで辿って動きを止めた。


ーーあ……、見えたんだ。山崎さんには、沖田さんが私に口づけをしている様に見えたんだわ。


「してませんからっ! 本当にしていません。沖田さんは私に耳元で教えてくれたんです。早く、山崎さんに想いを伝えないと、他の女の人に取られてしまうと」

「……え!」


 今度は山崎が驚いている。椿は沖田と口づけをしていないと言い、それどころか自分が他の女に取られると椿は言った。

 椿は必死だった。こんなことで誤解されては堪らない。どうにかして自分の気持ちを伝え、山崎に信じてもらわなければならない。切羽詰まった椿は、何を思っのか山崎の襟元を掴んで、自分にぐいと引き寄せた。突然のことに山崎はされるがままだ。


「椿さんっ」

「私がお慕いしているのは、あなたです! 三日も姿を消し、何の任務かも知らず安否が気になり居ても立ってもいられなくなって、副長の部屋に押し掛けたのです!」

「……え」

「あのまま副長の部屋に居たら邪魔になるからと、沖田さんが部屋を貸してくださったんです。悪いのは全部、私なのです」


 言い終わった椿は山崎の襟元から手を放し、深々と頭を下げた。


「私は迷惑ばかりかけています。もう追い掛けたりしませんからっ。怒らないで、くだ、さいっ」


 再び、畳に椿の涙が雨漏りのように音をたてて落ち始めた。それを見た山崎は、トンと胸のつかえが取れた事に気が付く。自分が何故こんなに怒ったのか、どうしてこんなに取り乱してしまったのか。副長から何故あんな事を言われたのか。

 それは、自分が椿に惚れているからだと。


 山崎は今にも泣き崩れそうな椿の肩をそっと自分に引き寄せた。涙で濡れた愛らしい女の顔が山崎の胸にあたった。山崎は椿の体を壊れ物を扱うように、誰かから隠すようにそっと両の腕で包み込む。


「え……山崎っ、さん?」


 山崎の突然の抱擁に椿の心臓は煩く打ち始めた。

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