友達の家って初めて行くと緊張するよね

 6階に辿り着き、リーネアさんは603とだけ書かれた扉の鍵を開ける。

「入れ」

 他人の家に入るとなんとなく緊張する。それが女子の家ともなれば当然である。

「お、お邪魔します」

「ん」

 途中に『けい』とひらがなで書かれたネームプレートがかけられた部屋があり、『あの中が三崎さんの部屋か』とふと思う。

 こちらを見てもいないリーネアさんが無言で拳銃を出していたので、両手を挙げる。この人背面にも目がついているのか?

 背を向けたままなのに照準が一切ぶれない。

 俺にとっては永遠ともいえる死への緊張感を味わいながら、リビングに辿り着いた。リーネアさんは舌打ちとともに拳銃をしまい、それから――俺の家においてあるはずの翰川先生作:寛光大学過去問集を引っ張り出してテーブルに置いた。

「はぁ!?」

 彼の能力は武器にのみ通用するのではなかったのか!?

 俺が恐れおののいていると、呆れ顔で解説してくれた。

「……テキストの端っこ、マークがあるだろ」

 分厚い紙束から一つ引き抜き、背面に小さく印刷された弾丸のマークを指さす。

「これがついたのは“武器庫”にあるのと同じ。だからいまここで引っ張り出せるんだよ」

「へ、へえ……翰川先生も、データで送ればいいのに」

「勉強は紙に手書きするからこそ身につくんだよ」

「もう1組印刷すれば……」

「資源を大切にしろ」

 戦争の擬人化と評される人のセリフとは思えない。なかなかシュールである。

「じゃあ、家庭教師やるか。高校レベルなら大抵出来るぞ。国語以外」

「国語苦手なんですか?」

「著者の見解とか主人公の気持ちとか聞かれてもわかんねえから嫌いだ」

「……」

 それは、共感能力が低いのでは?

「余計なこと考えるごとにノルマ追加する予定だから」

「ようし勉強頑張るぞう‼」

 俺の宣言を鼻で笑い、問題集から一束引っ張り出して手渡す。

 なんかさらっと酷いなこの人。

「これは去年の数学な。とりあえず、大問1を読め」

 俺は反射で答える。

「わかりません」


 どすっ。

 俺の右手の人差し指と中指の間に、シャーペンが勢いよく突き刺された。


 物凄い怖い。

 昔も俺はそういうのやったけど、他人にやられるとめっちゃ怖い。

「意見を許可するまで『はい』か『いいえ』だけで応答しろ」

「ハイ!」

「いい返事だ。……因数分解とかは出来るんだよな?」

「はー、い……」

 視界に見える数式はなかなか意味が分からない。

 xとyだけならわかるが、なんでaとかbとか使ってるんだ?

「…………。まあそうだよな」

 リーネアさんはペン回しが地味に器用だ。

「あれだろ。内心で『こんなことやって何の役に立つんだ』って思ってるだろ」

「……はい」

「数学全般の意義じゃなくて、単純な計算問題とかも」

「はい」

「素直だな。そういう意見は数学者の前では言わない方がいいぞ」

「へっ? ……あ、はい」

「技能を身につける方が先みたいだから、練習問題から地道にいこう」

 テーブル脇にあった本棚から教科書と参考書を出して、俺の前に置く。

「わからなかったらすぐ言えよ」

 彼の教え方は翰川先生と変わらぬスパルタ式だったが、わからないと言えば丁寧に解説してくれてわかりやすかった。

「大体、教科書やら読んだだけですぐ問題解けるわけもねえ。お前は猶更だ。例題の計算手順をよく見て考えろ。最初はもう書き写すくらいの気持ちでいい」

「……」

 言われた通り、参考書から因数分解の手順を書き写す。

「自分で気づいたことがあったらノートの端にでも書き込んどけ。どうせすぐ忘れるんだから」

「う、いまは気づけるほどでは……」

「わかってるよ。これからだろ」

「……はい」

「じゃ、自分が書いた解説を見ながら隣のページの練習問題をやれ」

 その練習問題は別冊に解答がまとめられているタイプで、解説はくっついていない。例題から数字を変えただけの基本形から、少し複雑なものまで多様である。

 ……50問ほど。

「全部ですか?」

「あ?」

「すみませんやります」

 それからも、他の分野に入れば例題を書き写し、練習問題を解く繰り返し。

 例題の解説で追いつかなくなったときはリーネアさんが問題の要点を示してくれて、それをヒントになんとか解けた。

「……2次関数って因数分解したらどうなんですかね?」

「じゃあしてみろ」

 俺の適当な呟きを否定することもなく、色々と試させてくれる。そして、意外な分野同士につながりを発見するのだ。数学力が中学レベルの俺の質問には的外れなものも多いだろうに、鷹揚な対応である。

 翰川先生の言う通り、ふざけた態度や敵意さえ見せなければ彼は攻撃してこなかった。

 練習問題を繰り返していると、リーネアさんが口を開いた。

「……ひぞれが教えるんなら物理なんだろうな」

「他の理系も教えてくれましたけど……物理が多いですね。物理教授だから?」

「単に物理が一番厄介だからってのもある。……でも、成り行きとはいえ物理選んでてくれて嬉しいんだと思うぞ」

「…………。翰川先生可愛いなあ」

 それはともかく、『物理が一番厄介』って何。

「コードが関わってるからだよ。5、6割はアーカイブ抜きでも解けるんだけど……残る4、5割がやたらむずいんだ」

「何で関わってきちゃうんでしょうね……」

「最初は神秘なんてなしの学問だったんだよ。でも、神秘を導入しようってなった時、アーカイブを扱うやつらが天才ぞろいで。『神秘を主軸に教えた方が生徒にわかりやすい』ってなったから、理系科目はそんな感じなんだ」

「でも、それなら、神秘抜きに教えてくれれば……」

「いまの学校教諭だって、神秘入りの理系で習ってきてるんだよ。お前、スポーツ生理学を導入する前の陸上やれ……って言われてスタミナ配分できるか?」

「『水分は摂らない方がいい』だとかの? 難しいってより無理っすね」

「同じだ。逆に言えば、神秘抜きで教えるなんて思いもしないってことだな」

「……俺の苦労は……」

 寝落ちしまくることが判明した当時の俺は、図書館の中で必死であらゆる本を試そうとした。……開いただけで寝落ちしたので、司書さんから出禁を喰らってしまったが。

「…………。気の毒だとは思うけどさ。化学と物理で選べるわけだからまだ焦らなくていいはずだ。頑張れ」

「いま夏休みなんですよね……」

「国社ならいけるんだろ。それを活かせる学部希望すればいい」

「……じゃあなんで理数やってんでしょう、俺」

「…………。一旦計算止めていいぞ」

「え?」

 シャーペンをするりと取られたかと思うと、リーネアさんが寛光大学の受験制度について解説を書きだした。


・文系学部を選んだからとは言え、さらには傾斜が極端だとは言え、総合点的には理数が占める割合は決して少なくないということ。

・文系学部を選ぶからこそ、他の受験生を追い抜くには『みんなが苦手』な理数で点数が必要であること。

・寛光大学では、推薦受験以外は高校時の成績などが一切加味されず、入試一本の総合点で合格判定がなされること。


「…………」

 理系学部と文系学部それぞれでの点数傾斜と合格平均点も――残酷なほど――わかりやすく書いてくれたので、現実がばっちり見えた。

 え、これ無理じゃね? と。

「……ほぼ一芸入試のAOと推薦は常人には不可能だ。入りたいんなら真正面しかない」

「マジですか……」

「でもまあ、救済策っつーか……逆転がないわけでもない」


・それぞれの受験科目の最終問題には『これが解けたらうちの学部に無条件で入れてやる』と意気込んで作る問題があり、その5点満点が取れれば無条件で合格。

・また、その科目で満点が取れたら優先的に学科選択が可能。


「おお! ……これで逆転とか無理ですから‼」

 光が見えた気がして感動しかけたが、無理なものは無理だ。

「最終問題の難易度は?」

「その道の専門家なら解けるくらい」

「無理ゲーが甚だしい! どこら辺が逆転要素!?」

「文句はひぞれに言え」

「結局あの人かよ‼」

 頭を抱えていると、間の悪いことに俺のスマホが着メロを鳴らした。

 数秒の沈黙。

「すみません……」

 マナーモードにしたつもりだったのに、なっていなかったようだ。

「いいよ。そろそろ2時間経つ。休憩してろ」

「……。ありがとうございます」

 8ビット音楽のピコピコ音は佳奈子からのメール着信だ。昨日はよくわからんメールが来ていたから、おもしろコピペを貼って返信した。

 なぜか今日もよくわからなかった。

「…………」

 『コウ。ここ覚えてる?』との一行メールののち、暗くぼやけた風景写真のようなものが貼られていた。

「……」

 なんて返そうか、少し迷う。

 『いやいや、見えないしw』?

 『画質が悪い』?

 『覚えてまてーん』?

「うーん……」

 とりあえず、『暗くてわからん』で返信。

 電源を落として画面を消した。



  ――*――

「……おはよう、ございます。シュレミア先生」

「おはようございます」

 面倒だったので、電撃で叩き起こした。

 紫織の特性は“契約”。

 好きな異性を相手に強く思い詰めたからとて、通常、永続するほどの呪いはかけられない。初心者のスペルは感情で威力が左右されがちだと言っても、限度はある。

 人間の持つ魔力の量などたかが知れている。得体の知れない何かと無意識で契約して、無意識に呪いをかけたのだろう。

 才能に満ちているが、現代社会で生きるには不向きな体質もあいまってとても面倒だ。

「……あの、えっと。隣のひとは……」

「娘です」

「ルピネという。初めまして」

「……………………」

 あからさまに『信じられない』という顔をするのを見て、もう一発喰らわせてやろうかと思ったら、ルピネに止められた。

「沸点の低い……大人げないぞ父上」

「これでも譲歩しています」

 1週間も優しく配慮してやったのに、紫織はつけ込むように眠り続けていた。

 眠っていた間に8年もの月日が流れたことを受け入れられないのはわかるが、起きてもらわなければ困る。

「そうだな。とりあえず隣の部屋にいてくれ」

「…………」

「安心して任せてください。では」

 ルピネに部屋を追い出された。

「……」

 紫織の教導役は俺というより、俺の一族付けのものだ。ルピネが主な担当をすることになっている。顔合わせにはちょうどいい。ついでに、初対面の空気を解きほぐすという点で、人当たりが全く良くない俺よりはるかに適任だ。

 暇なのでリーネアに打つメールを下書きする。

(光太の方にも問題が起こっていそうだな)

 メールに一文追加しておこう。



  ――*――

 コウ。森山光太。あたしの幼馴染で、唯一“ともだち”と言える男子。

 4歳であたしのおばあちゃんのアパートに引っ越してきた。

 コウの両親は共働きで留守がち。だから、小学校に上がってお迎えがなくなり、寂しくなっていたコウは、おばあちゃんとまとめてあたしと一緒に育てられたようなもの。

 泣き虫だったくせに、怖い番組を見てあたしの影に隠れてたくせに。小学校3、4年になるといきなり元気いっぱいになりやがって、インドアなあたしとは生活リズムが合わなくなった。

 かと思えばあたしを外に誘ったり、あたしが決して誘いに乗らないことを見るや否やゲームに誘ったりして。

 ……良い奴だと思う。おまけにメンタルが頑丈。

 あんなふうな病気……呪いだっけ。はた迷惑なもの背負わされて人生ぐっちゃぐちゃになっても、なんだかんだで学校に通い続けたし。

 学校に在籍しても在校していないようなあたしとは真逆。


 あたしは藍沢佳奈子。

 この世で最も卑怯な女だ。



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