第10話 森田さん、抵抗する
「うーん、微妙だ」
少女になって数日が経つが、黒髪であること以外全くの別人であるこの容姿に僕は未だ慣れていない。
今朝、珍しくも早起きをしてしまった僕は、そんな自分に少しでも慣れようと、鏡の前で笑顔の練習をしていた。
練習といえばお手本が必要になる。
お手本と聞いて僕の頭にはリリェルの顔が浮かんだ。やるならばこれしかない。
たとえ外見が彼女には到底及ばないものだとしても、オーラぐらいは真似られるはず。謎の確信に後押しされ、僕は鏡の前でにっこり微笑んだ。
しかしそこには、頬のひきつった童顔で生意気そうなつり目の少女が映っていた。
――こりゃあ由宇さんを馬鹿に出来ないな。
彼女のことを普段から『気の抜けたようなヘラヘラ顔』と表現している僕としては十分反省に値すべき事案だ。
笑顔って難しい。
口角を指で押さえつけながら、無理にでも可愛い笑顔を作ろうと試みたが、やはりその表情は酷いものだった。
「何をやっておられるのです?」
「ひっ、ふぇ、フェルミー」
「おはようございます」
軽くぺこりと頭を下げたその執事は、息をするぐらい当然のことのように扉の前に構えていた。
「ノ、ノックもせずに入るなんて失礼だ……ですわ」
「何度も呼びましたよ」
起伏の無い淡々とした答えが返ってくる。僕は壁にかけてある時計を確認した。8時5分。いつもなら朝食をとっている時間だ。
「あまりにも返事が無いので、私はてっきりまた寝坊かと思いましたが」
執事はまじまじと僕の顔を覗いた。
今朝起きてすぐ顔は洗った。目ヤニはついていないはずだ。
「どうやらそうではないようですね」
疑いは晴れたようだ。
「……」
「えっ、まだ何か?」
これで終わりかと思いきや、フェルミーの感情の読み取れない視線がまだ僕を捉えている。一体何が……
「あっ」
僕は頬に当てていた両手を慌ててほどいた。無理な笑顔を作っていた表情筋が慣れ親しんだ位置へと帰っていく。
「……」
相変わらず彼の反応に変化はない。
おい、そこはせめて笑え。笑ってくれ。何やってるんだと軽く言葉を浴びせてくれ。
「……あーもう! 私は起きてる、起きてます!」
沈黙に我慢出来なかったのは僕の方。
「分かったでしょ、ならさっさと部屋を出なさいよ」
しっしと手を払い退出を促した。しかし、フェルミーはというと、尚もその場で突っ立っている。
「……?」
――お嬢様の命令ならなんでも素直に聞くんじゃないのか?
「ちょっと、フェルミー聞い……」
「昨日のことで気に病んでるのではないかと思いましたが、気のせいだったようですね」
「え?」
「それでは朝食の用意は出来ておりますのでお待ちしております」
「あ、ちょっ」
執事は一礼すると何事も無かったかのようにスッと部屋を出て行った。
「……そんなの」
気に病んでるけどさ。
徹夜明けのテンションなんてものがある。徹夜すると疲労を通り越して徐々にハイになり、思いもよらない発言や行動をとってしまうアレだ。でもそれは通常に戻るといたたまれない気持ちで死にたくなるものだ。
昨日の放課後の発言も同じ。朝になって急に自分の発言の恥ずかしさを知るのである。なんであんな事言っちゃったかな。
取り消せるものなら取り消したい。誰もいなくなった部屋の中で、僕は一人ため息をついた。
===
「昨日うちのペットのアリスちゃんが三歳になったのよ」
「じゃあ今度是非、お祝いも兼ねてピクニックに行きましょう!」
朝から彼女たちの話のネタは尽きない。
今日も教室の少年少女たちは、きゃっきゃうふふと楽しそうな話題に花を咲かせていた。悩みが無さそうなその姿が少しだけ羨ましい。
「いやいや、そんなこと言ってる場合じゃない」
左右に振った頭を止め、僕はしっかりと前の席を確認した。教室の最前列、リリェルの席だ。
――よし、大丈夫いないな。
彼女に目撃されるわけにはいかないのだ。
会話を楽しむクラスメートたちの隙間を縫って、僕は慎重にその席へと向かった。途中、抱えていたカバンの中に手を入れた。
――これだ。
A4サイズほどの滑らかな布包み。汗ばむ手でしっかりとそれを握り僕は目だけでもう一度周囲を確認した。幸いなことに会話に夢中なクラスメート達はこちらのことなど気にも留めない。
――これなら何の問題もないでしょ。
僕はタイミングを見計らって、サッと手にしていた包みを取り出した。
題して、リリェルにこっそりプレゼントを送ろう作戦。
上の人間が下の人間に恵んではいけないというルールは確かにある。でももし誰にも『恵んだ』という光景を目撃されなければどうだろう。誰も見ていないんだからルール違反も何もない。なんてシンプルな解決策だろう。ズルい? いやいや、僕は別に物語の主人公じゃないんだから綺麗な展開を求めなくてもいいだろう。
さて、後はこの包みを誰にも見られないように机の上に置けば――
「痛っ」
静電気に触れたような鋭い痛みが全身に走った。それだけではない、自身の一部であるはずの左手が、見えない壁に弾かれたように無造作に飛び跳ねたのだ。
――しまった。
そう思った時には遅かった。体がバランスを崩し腰をつく。手元からは包みが離れていた。
乾いたようなばさっという音。解けた結び目からは、ノートやペンが滑り落ちていた。
「森田さん、大丈夫?」
「お怪我はない?」
文房具を拾おうと慌てて伸ばした手元に、声に重なるようにしてすうっと黒い影が落ちてきた。
「え、ええ」
反射的に頷いた僕は、ゆっくりと声の主を見上げた。
そこには、さっきまで談笑していたはずのクラスメートの姿があった。二人とも心配そうにこちらを見下ろしている。
――流石に今の行動は目立ったか。
彼女たちだけじゃない。よく見ると隣で盛り上がっていたグループやちょっと離れてお茶を飲んでいた子達もみんな僕を見ている。
ちょっとしたアクシデントだと思っていたのに、十分すぎるくらい注目を浴びていたらしい。
「……大丈夫、心配かけましたわ」
作戦はまた別の機会にするべきだろう。
軽く返答すると、僕は手前に落ちたノートを拾いあげた。
「ああ、ところで――」
立ち上がろうとした矢先、先ほどの少女の声が再び耳に届いた。
「今、何か拾ったみたいだけど、それは文房具ではなくて?」
何気ない一言。その一言になんとなく僕は嫌な予感がした。
「え、と。これは」
「それにその包み、まるで誰かに贈るプレゼントのようだわ」
なんだその勘の鋭さは。君はなにか? 名探偵か?
しかし名探偵に追及されている場合ではない。大丈夫、まだ乗り切れる。まだ僕がリリェルにプレゼントをあげようとしていたとバレたわけではない。
「プ、プレゼントだなんてそんな、自分用ですのよ」
声が上ずってしまった。さりげなく微笑みも交えたつもりだけど、果たして上手く出来ていただろうか。
「自分用? でも、森田さんの文房具は既にご自分の机に置いてあるように見えるけど」
「あー……それは」
「それよりも私には森田さんがそれをこの机に置こうとしたように思えたのだけど」
そう言って、目の前の少女はすうっと手のひらを机に乗せた。ここに名探偵爆誕である。っていうか、全部バレバレやないかーい。何がまだ乗り切れる(キリッ)だ。何がこっそりプレゼントだ。全然こっそり出来てないじゃないか。ここはあれだろ、物語的には誰にも見られてないって展開だろ、普通。そもそも目撃されていた戦犯の僕が言うのもなんだけどさ。
「ねぇここって、リリェルさんの席ではなくって?」
優しい優しい少女の問いかけ。
けれど何故だろう。僕の心は冷凍庫にでも入れられたように冷たく冷たくなっていく。返答を間違えたら死んでしまいそうな、突然地雷原に立たされたような、生きた心地のしない謎の恐怖。
もしここで、自分がルールを破ろうとしていた事を正直に告げたらどうなってしまうのだろう。
「森田さん」
おっとりとした世間知らずのお嬢様のような声が僕の名前を口にした。
分かっている。別にこんなの上流階級のお嬢ちゃんやお坊ちゃんが決めた自分が優位に立つための単なる口約束のルール。だから破ったところできっと何も起こらない。せいぜいルール違反を窘められる程度だろう。
「こ、これは」
だから、大丈夫な、はずだ。
『これはリリェルへのプレゼント。それの何が悪いのかしら』
僕はそう言って……あれ?
「……?」
声が出なかった。口はパクパクと動いているのに、音だけが空白になっていた。それだけじゃない。周りみんなが静止画のように止まっている。
この感じどこかで見た気が。これは確か、初日の――
「あーあ、止まっちゃったねぇ」
背後から聞こえたゆるゆるとしたマイペースな声。僕ではない。この声は。
「由宇さん」
「やあ、森田さん。おはよう」
ぽろっと飛び出たその名前に彼女の言葉が呼応する。教室の後方に立っていたのはやはりあの幼馴染だった。
「おはようございま……っじゃなくて、この状況、前と同じですよ! あの、この世界に来た初日、フェルミーに話しかけて発生した、あの現象なんです」
あの日もこんな風に世界が静止し、話しかけても一切反応は返ってこなかった。
「確かにそうだねぇ」
由宇さんはそう言って、石像のように動かない生徒の合間を縫ってゆっくりとこちらへ向かってくる。相変わらずのヘラヘラとした笑顔からは何を考えているかは読み取れない。
「でも今回は女の子の口調で、高慢な態度で、悪役令嬢としておかしな所は何も」
「うんうん」
「今だって『リリェルにプレゼントして何が悪いの?』みたいなことを言おうとしただけで」
「うん、なら犯人はそれだ」
「これ?」
「森田さん。君は大切なことを分かってないねぇ」
転がり落ちていたペンをつまみ上げ、由宇さんは軽やかにそれを僕の抱えていた包みの上に乗せた。
「悪役令嬢がプレゼント? 一体誰に何の利益があって?」
「いや、利益とか別に。ただあげたいからあげるでいいんじゃ」
「駄目ですねぇ~ぜーんぜん駄目! 森田さんはレベルMAXの悪役令嬢じゃなくて、レベル2のひよっこ悪役令嬢なんですよ?」
馬鹿みたいにオーバーに両腕でバツ印を作った彼女はそれを僕の眼前へと向けた。実に鬱陶しい。大体何なんだ、ひよっこ悪役令嬢って。
「はいはい、そんな可愛いジト目で睨んでも、私のご褒美にしかならないからね!」
「変人ですか」
「いやいやいいでしょ~黒髪でツンデレなジト目のお嬢様」
「中身が僕じゃなかったら確実に通報されてますからね……で、要するに何が悪かったんです?」
これで分からないとか言ったら許さないからな。
いぶかしげに睨む僕に視線を合わせ、にっこりと笑い返したかと思うと、彼女は声高らかにこう言った。
「森田さんは悪役令嬢なのです! 悪役は善意のプレゼントなど致しません!」
舞台役者さながら。くるりとスカートを舞わせた彼女を僕はただただ目で追った。
悪役は善意でプレゼントを贈らない。それは僕が馬鹿正直にリリェルにプレゼントしようとしていたことを意味するのだろうか。役割にそぐわない行動は受け入れられない。だからこうして世界が止まる。
「という訳で」
ピタリと止まった彼女の視線が再び僕と交差した。
「悪役令嬢になりましょう」
それはまるで悪魔の囁き。
「さあ、こんな時なんて言えばいい? 思い出して。森田さんが嫌悪したのは一体いつ、どこで、どんな時だったか」
僕が嫌悪した。それは――
「これはゴミに決まってるじゃない。いらないから捨ててもらおうと思って。それ以外の何物でもありませんわ」
今朝がた何度も繰り返した意地の悪そうな笑顔を浮かべ、僕は力強く手にしたノートを机に置いた。
その瞬間、カチリと時計の秒針が動くような音が聞こえた気がした。
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