Vol. 3

プロローグ

そうだ 小樽、行こう。

 ひぞれはお行儀よく、ソファで料理が出来上がるのを待っている。

 妻は俺の手伝いを申し出てくれたけれど、やっと歩けるようになったばかりの彼女に無理をさせられない。

 代わりに、ひぞれの生徒である森山光太くんが手伝ってくれていた。

「すまないね、光太」

 長年一人暮らしをしていたこともあって、食材を次々さばいていく手つきに淀みはない。手早くも丁寧な仕事ぶりに感心する。

「いえ! ミズリさんにも先生にも、相場の半額以下で家庭教師してもらっちゃってますから、せめてものお返しに」

 くしゃりと苦笑する顔には、苦難に満ちた人生で培われた人柄がにじみ出ている。

「まさか俺ん家の真下に越して来るとは思いませんでしたよ。……言ってくれたら手伝いもしたのに」

 ひぞれの大学出禁が解けるまでの約束で、俺たち夫婦は光太の住む部屋の真下の部屋をお借りしている。

「ははは、ひぞれの瞬間移動は物体にも通じるんだよ。むしろそちらが本式の使い方だね」

 現在、瞬間移動で一括りにされた技術は、貨物輸送など重たいものを運ぶ場面で活かされているし、長距離旅行にも活かされている。ひぞれはそれを個人で使えるというだけだ。

 俺の奥さんが可愛い上に有能な働き者で辛い。運命がこの世に遣わした天使であり女神だと思う。

「心配してくれてありがとう。サプライズにしたかったんだ」

 ひぞれが『光太をびっくりさせたい』と言ったので、俺も黙っていた。

「あなた方のサプライズはシャレにならないんですけども……」

 ひぞれと光太が出会ってから2週間。彼は早くもひぞれの特性をわかってきたみたいだ。

 それはさておき、ひぞれが可愛い。

 俺の奥さん可愛すぎじゃないか? こんなに可愛くていいのか?

「あの、ミズリさん」

 遠目にもわかるほど肌が白くてもちもちだ。俺の目は彼女を見るためについていることを確信する。

「ミズリさん? ちょっと」

 ひぞれの美貌だけで世界の上限を超えているんじゃないか?

 ……あ、それだとグラフィックが崩れるから嫌だ。ひぞれの美しさを表現しきれない程度の世界は要らない。

「ミズリ⁉」

 俺を呼ぶ声さえも天上の調べ。

「どんだけキャベツ刻むんすか!?」

「光太、遠い方のキャベツ取り上げろっ。包丁は危ないから触らなくていい!」



 今日の夕飯は、刺身とお好み焼き。俺が山盛りに作ってしまった刻みキャベツを、光太がお好み焼きに使って一気に消費してくれた。

 その節は本当にすみませんでした。

「関西に行ったような気分だ!」

 炙ったお刺身をお好み焼きにのせたことで、ひぞれがご機嫌だ。

 ああ、俺の奥さんがいつも通り最高に愛くるしい。

 どんな表情であろうと美しい罪な女性ではあるけれど、やっぱり幸せそうに笑ってくれる姿が最高に愛おしい。

「本場の人に申し訳ないですって。関西行ったことあるんすか?」

 光太は謙虚だ。

 生地はソースとともに香ばしく焼き上がり、パリッとしたキャベツの歯ごたえが美味しい。料理人の腕前が感じられる美味しい出来上がりなのに。

「僕は大学の出張だとか開発の打ち合わせだとかで、日本各地を巡っているぞ」

「光太も、修学旅行で行ってないかな?」

 光太は北海道育ちだから、てっきり関西方面に行っているものかと。もしや九州方面かな?

 彼は少し言い辛そうにする。

「俺……そもそも、旅行したことないんすよ」

「ごっ、ごめん。そうだったね」

 ひぞれやシェルから彼の”呪い”を聞いていたのに、そこまで考えが及ばなかった。申し訳ない。

「大丈夫ですよ」

 光太はさほど気にしていない様子で手を振ってみせる。

「これからっつーか、大学合格したらあちこち行く予定なんで」

「その意気だ。全力で応援しよう」

 調理に入る前の光太は、ひぞれにみっちりと勉強を教えられていた。

「ちょっとはお手柔らかに……」

「キミが本格的な受験体制に入ってから16日しか経っていないんだぞ。適度な緊張感を維持しつつ、ペースをあげていかなければ」

 『まだ中学3年で止まっているからな』。

 付け足されたセリフに光太が落ち込んだ。

「……頑張ります……」

 ひぞれの顔の端にソースが飛んでいたので、ティッシュで拭いてやる。

「んむ」

 ああ可愛い。

「ミズリさんデレデレだなあ」

 なんたって俺の奥さんはこんなに可愛いんだ。多少デレデレするのも仕方がないというものだよ。

 拭き終えたティッシュを吸いたい衝動にかられたけど我慢我慢。

 ごみはごみ箱。

「……」


 ひぞれの皮脂と汗あわよくば唾液が染みたソースはごみじゃない。


 取っておいて後で食べようかな? ……ううん……でも、光太もいるからなあ。

「なんか、葛藤してますよ……?」

「ミズリはたまにああなるな。僕にはよくわからない」

「あれって先生の顔拭いたティッシュですよね?」

「ティッシュを再利用するかを迷っているんだろう。エコだな」

「えええええ」

「僕の夫は地球にも気づかいをする優しい人なんだぞ」

「いやあのあれあのいやあれだってあれは」

「人に使ったティッシュには雑菌も多いのだし、気にしなくていいのに」

 かなり迷った末にごみ箱に捨てることにした。

 なぜか光太は俺を見て盛大にドン引きしていたけど、ひぞれは変わらぬ笑顔を向けてくれた。

「ミズリも、光太も。美味しい料理をありがとう。手伝えなくて済まない」

「いいんだよ。ひぞれのためならなんだってできるから」

「……た、足りない給金分ってことで」

 光太が俺から距離を取っている。失礼な。

「2人とも本当に優しいなあ……」

「そんなに優しい優しいって言ったって何にも……」

「ふふふ」

 ひぞれは本当に幸せそうだ。

 俺からアイコンタクトを送れば、彼女が頷いた。

「光太。キミが行ったことのある場所で、一番遠くはどこかな?」

「へ? 遠くって?」

「道内旅行も少ないのではと思ってな」

 言われた彼は、しばらく考え込んでから答えた。

「一番遠くは……江別までですね。小学校のスキーで」

「……うん……札幌の隣だな」

 背負っていた“呪い”はかなりキツいもののようだ。

 座敷童の佳奈子ちゃんの加護によって“幸運”が分け与えられていたものの、それにも距離に限界があり、札幌近郊しか駄目だったとのこと。

「しかし、小5以前に旅行は行かなかったのか?」

「俺の両親共働きで、佳奈子のばあちゃんとこに預けられて育ったようなもんでして。ばあちゃんも病気とか……佳奈子は引っ込み思案だし」

 ため息をついて、少し悲しそうにする。本当に苦労してきた子だなあ。

「3歳くらいまでは本州にいたんですけど、それももう遠い記憶……あ、でも今は平気で。たぶん、どこにだって行けます」

「そうか。良かったな」

 良かった。神秘が原因で若者の道が遮られるのは悲しいことだ。

「で、どうしてそんな質問に?」

「うん。旅行に行こうと思ってな」

「旅行! ……って、俺受験生っすよ」

「今までこうして息抜きしているんだ。心配しなくとも、旅行先でも勉強するぞ」

「あ、はい」

 ひぞれは可愛い顔でスパルタだ。

 相手が理解するまで根気よく付き合うけれど、その根気を相手にも求めるから、生徒の性格次第では相性も良し悪しになる。

 以前、医学部志望の高校生は30分で根を上げたんだけど……体育会系の光太は案外と大丈夫みたいだ。

 ツッコミを入れながらも、適度な距離感で師弟関係を築いている。

「行き先は?」

「小樽だ」

「小樽って、あれですか。……札樽さつたるの樽の方っすよね」

 札樽というのは札樽自動車道のことかな。

 名前の通りに札幌市と小樽市を結ぶ高速道路で、北海道の主要道路の1つ。

「認識が愉快だな」

「どうせ行けないって思ってたから、地図なんて久しく見てないんです」

「わ、わ……ごめん、光太……」

 わたわたするひぞれに、光太が言う。

「いいっすよ。小樽について解説お願いします」

「うむ……」

 気を取り直してか、びしっと姿勢を正して口を開く。

「小樽は街並みや運河にノスタルジックな異国情緒を持つ観光都市なんだ」

「おお。小樽運河! テレビで見ました!」

 彼はテレビで見たというだけで感動できてしまう。

 これからいろいろなものを見て、楽しんでくれればいいなあ。

「まさに街の名を背負う観光名所だな。港からの荷物を倉庫近くまで直接届けるために建設された。いまでは一部が埋め立てられて道路が通っているが、歴史を感じさせる外観は未だ健在だ」

「埋め立てって、なんか勿体ないような」

「自動車が発達したからな。海から直で陸地に荷物を運ぶには船が便利だったんだが……車が普及するとそちらの方がお手軽だし、運河に遮られていたままでは車には不便だったんだ。実際、埋め立ては交通渋滞の緩和を目的としているぞ」

 ひぞれは日本どころか世界中の観光名所の本を読み漁り、歴史を調べてその超記憶に刻んでいる。

「レンガ造りの建物と種々の工芸品も相まって、個人的にはどことなくイタリア:ヴェネツィアを想起させる」

「……ガラス! ガラスですね!」

「その通り。ガラス工芸とオルゴールは小樽土産の鉄板だぞ」

「いいなあ……読んだ本の舞台に小樽出てきたんすけど、悲しくなって読めなくて。あ、でも! いっつもお天気カメラで小樽見てましたよ!」

「……行ったときは、思う存分楽しんでくれ……」

 俺とひぞれは目じりを指でおさえた。

 ひぞれが体勢を立て直し、解説を続ける。

「他にもあちこち探してみれば工芸品は多い。美味しい食べ物も多いし、新鮮な海産物とそれに裏打ちされた寿司も有名だな。実は市内に百店舗以上を構えているから、寿司の街とも――」

「先生、食べれないですね」

 光太は素直な性格でたまに人の心を串刺しにする。

 ひぞれはナマモノを食べられない。

「う……でも、回転寿司ならサイドメニューがあるから……」

 萎んでいたものの、やがて復活して言葉をつづけた。

「酒蔵なんて大人なものもある。ワインや日本酒など。……未成年は禁止だがな」

「ですねー」

 ひぞれが小さく咳払いして話を締めくくり、旅行のお誘いへと戻る。

「ということで、非常に魅力あふれた都市なわけだが。どうだろうか」

「どうっても。旅行代が出せません」

「俺たちで払うよ?」

「いやいやいや。お世話になり続けた挙句、そんな大きな額出してもらっちゃ人として……」

「そうか。光太は人間だったな」

「忘れてたよ」

 そういえばそうだった。

「何で忘れるんすか!?」

「物怖じせずツッコミ役を買って出るから、馴染んで見えてしまってね。今度異種族の会合にも来てみない?」

 名誉のために言っておくが、異種族全員が非常識なわけじゃないし、人に歩み寄れない弩級の天才なわけじゃない。

 彼が出会った面子がドギツい面子だっただけだ。

「馴染みたくないし買って出てないし、嫌な予感しかしないんですが」

 光太は些細なボケもきっちり拾う逸材だ。

「まあまあ、光太。これは家庭教師としての命令だ。従ってくれ」

「だって、宿代とか交通費とか!」

 ひぞれはにやりと笑って、光太の鼻先を指でつんとつつく。

「では。大学に合格してどこぞに就職した暁にはステーキでも奢ってくれたまえ」

「う……じゃあ。必ず」

「ふふ。僕は忘れないよ」

 ひぞれは、学ぼうとする若者の背を押すのを生きがいにしている。

 家の事情や災害など、様々な事情で学費が捻出できないような人々。つまり、光太のような苦学生に向けた支援は惜しまない。

 妻が自分の輝ける場所を見つけてくれて、とても嬉しい。

「じゃあ……お願いします。嬉しいです」

「こちらこそ。せっかく北海道にいるんだ。名所を楽しもう」

 小樽は札幌から近い。それこそ札樽自動車道を通ればすぐだ。

「京や佳奈子、紫織なども誘う予定だぞ」

「えっ……?」

 光太にとっては、気になる女の子と恩人の幼馴染、そしてかつて恋心によって“呪い”をかけた犯人という面子。

 どぎまぎすること請け合いだけど、そのことにひぞれが気付くことはまずないだろう。

 鈍感なひぞれも可愛い。

「運転手はリーネア。付き添いは僕とミズリ他、ルピネやシェルも来る」

 恩人ながら過保護な暴虐が止まらない京ちゃんの保護者。

 恩人の家庭教師とその夫。

 同じく恩人ながら不穏さMAXの異種族2人。

「えっ、あの」

 様々なトラウマと複雑な感情が沸き起こっているだろう光太に気付かず、ひぞれが腕を突き上げる。

「れっつごー小樽っ☆」

「ひぞれは可愛いなあ」

「ツッコミ役をくれ‼」

 三者三様の声が響いた。

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