第8話
辻がビッグベンド・ワイナリーの電話番号を押して要件を告げると、若い女の声が、「社長に取り次ぎます。どちらさまでしょうか?」
「七年ほど前にリオグランデの川下りをいっしょにしたケン・ツジとお伝えください」
しばらく待つと別の女性の声に代わった。「ケン? あのダラスから出張の途中で立ち寄ったミスター・ツジ?」
忘れもしないジェニファーの声だ。
「そうだよ。雑誌で君のワイナリーの記事を目にしたんだ。それで電話したのだが」
「ケン、電話を待っていたのよ。声は変わっていないわね。あの時のことが昨日のように蘇るわ」
「ジェニファー、僕はいま商用でデトロイトにいるんだ」
「ケン、あなたは相変わらず国際ビジネスマンなの?」
「いや、君に遇ってからしばらくして会社員を辞めたんだ。今はケンタッキー州で公認会計士を務めている」
「公認会計士か。品評会で入賞したことが記事になったら、エルパソだけでなくダラスやヒューストン、中には西海岸やニューヨークの会計事務所から電話や手紙が舞い込むようになって。それまではだれも見向きもしなかったのに。ケンに頼めるのなら皆断ることにするわ」
「よろこんで協力するよ」
「あなた自身がボスなの?」
「そうだよ。ワイナリーの女社長に触発されたからね。他人に仕えるのではなく、小さいながらも砦の主になる夢を選択したんだ」
「ケン、あなたはまだ独身だわよね? いつエルパソに来れるの?」
「うん、独身だよ。今からでもエルパソに向かいたいが、約束した仕事があってね。明日の夕刻には終わる。明後日にエルパソに向かうことにする」
「エルパソ空港で出迎えるわ。あのモテルは四番目の兄が買い取って、最近改装したの。今回はベッドはツインではなくキング・サイズの部屋を予約して置くわね」
デトロイトからの直行便がないために、辻は長年住み慣れたダラスでフライトを乗り換えてエルパソに向かった。
銅鉱山での会議を終え退任希望を双方の親会社に伝えた辻がダラスを離れてから六年余になる。退任届けを受取った米国側の親会社から、二年間に限って同社のアジアでの販売網の改編に協力するように懇請された。そのため、辻は香港、台湾、バンコックやシンガポールなどの東南アジアへ頻繁に出張する二年間を過ごした。
長距離のフライトはかねてよりの構想であった公認会計士試験の受験準備に好都合であった。二年後に受験したところ、幸い初回で合格することができた。こうして背後の看板を取り除いた個人のビジネスマンとしての辻のあらたな挑戦が始まったのである。独身寮の風呂では頭の片隅にも抱いたことのなかったビジネスマンの生き方であった。
日本の自動車メーカーは最初にオハイオ州に組立工場を設けたH社に続いて各社が中西部に進出していた。その結果、関連する日本の部品メーカーの多くも中西部や米自動車労連の影響力が薄い南部に拠点を設けつつあった。辻は会計事務所の拠点を中西部と南部の境界にあるケンタッキー州に設けた。
エルパソ空港のゲートに女が佇む。同時テロが起きる前のことで、搭乗口の傍で出迎えることができた。髪をアップにして、深紅のワインカラーのワンピースに身を包んでいる。そのスカートのフロントに深く切り込まれたスリットから、片方の脚の小さな膝頭とそれに続くふくよかな太腿が覗く。七年前にはその片鱗しか見ることがなかった艶やかな女性がそこにいる。
急ぎ足で歩み寄った辻が女を抱きしめた。
「ジェニファー、バックミラーに映る、手を振って見送る君の姿が今でも瞼に浮かぶ。別れたのは昨日のことのようだ。だけど、あれから七年が過ぎたんだね」
「長かった。でも、あの誓いを今夜にははたすことができるのよ」
ジェニファーの弾んだ声は、激流にオールを繰るあのアパッチの女の声であった。
「ケンタッキー州の公認会計士はテキサス州でも資格が認められるの?」
「会計士試験は全米共通だから合格が他の州でも、その州に登録さえすれば資格は認められるのだ」
「昨日、兄や姉たちにあなたのことを話したら、早速知り合いの数社の会社から会計や税務の委託の依頼があったわ。どれもアパッチ族がオーナーだけど、エルパソに出向かなくて済むと大歓迎よ」
「それは楽しみだね。ところでジェニファー、一昨日、電話した時に、どうして僕が再婚していないと分かったのかね?」
「ケン、記憶力に長けたあなただから、よもや忘れることはないと信じていたのよ」
「なにを?」
「ふたりでシャワーを浴びた土曜日の夜、私がベッドの上で念じたことよ」
「あれは冗談ではなかったのか?」
「実はね、あの夕方、モテルに向かう直前に父が耳打ちしたの。あなたはサムライの末裔に違いない。再婚の相手はあなただ、と」
「お父さんがそんなことを?」
「だから、ベッドの上でなん度もなん度も念じたのよ。その甲斐があったわ。アパッチの魔力も見捨てたものではないわね」
辻の腕に腕を絡ませたジェニファーの目が微笑んでいた。
アパッチの呪文 ジム・ツカゴシ @JimTsukagoshi
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