第7話
葡萄畑を見終わった辻が、「大したものだね。資金はどうしたの?」
「九人も兄と姉を持つと助かるわ。皆が出資してくれたの。早く利益を出して配当しなければ」
米国に特有の、出資者が事業の損益を個人所得と相殺できる小企業向けの優遇税制を利用しているとジェニファーが説明する。
この制度では、企業が赤字の間は出資比率に応じて配分された損を出資者は個人所得から減じることができる。利益を生むようになるとその利益は同じように出資比率に応じて配分され、出資者は個人所得に加算して確定申告をする。出資者は所得税を納める必要があるが、その税率は法人税率に比べて低く出資者には節税のメリットがある。
さらに、この制度には企業が所得税を納める必要がない恩典がある。通常の株式会社では利益に課税されるだけでなく、出資者が受取る配当にも課税される。米国の小企業制度を利用すると、そのような二重課税を回避することができるのだ。
追加投資が必要になった際には米小企業庁が提供するローンを考えているそうだ。米政府は非白人による投資を促していて、アパッチ族であることを利点として活用できる。
「ワイン造りは天候に左右されるリスクはあるけど、やり甲斐のあるリスク取りだわね。私はどうも無事平穏とは無縁の星の下に生まれてきたみたい。なにごともなく日々が過ぎるのには耐えられない質なのよ。川下りでも水飛沫を全身に浴びる急流でないとエキサイトしない。あなたが見た通りよ」
ワイナリーからジェニファーの自宅に帰りついた。出発前に仕込んであったミートローフを料理するとジェニファーが台所に立つ。挽肉に玉ねぎやピーマン、卵を混ぜたものをオーブンで焼く。
納屋の傍で辻が父親とビールを傾けていると、大きなミートローフの塊を載せた皿を手にジェニファーが現れた。そこにはアパッチとは別の普通の家庭の主婦のような穏やかな女がいた。
母親、兄嫁が加わって野外の夕食が始まった。辻は日中の太陽で陽焼けしていたがジェニファーの腕や脚もおなじようにピンク色だ。
ジェニファーが「今夜はモテルに泊まるから」と両親に告げて、辻とジェニファーは辻の車でバーに向かった。
「モテルに泊まるといってもご両親はなにもいってなかったね」
「しばらく前に私は宣言したの。昨夜、夜空を見上げながらあなたにいった、やらなければならないこと、とは、ワイン業で成功することなの。それを成し遂げるまでは、男を絶つと宣言したのよ」
「そうか。僕がベッドに誘ってもか?」
「そうよ。私にはアパッチの血が流れている。一度誓ったことを貫くのがアパッチの掟だからね」
「そんな宣言をした理由は?」
「私は一度の結婚で、男女の間にはセックスだけでなく、なにかもっと奥深い別のものが存在するはずだという悟りを得たのよ」
辻の肩に頭を載せままのジェニファーが、
「あなたみたいな国際ビジネスマンに出会うことはもう二度とないかもしれない。あなたと肉体で結ばれるのは、以前の私だったらシンデレラにでもなったような気持ちだったでしょうね」
辻の右手をジェニファーの左手が覆う。
「でも、それはセックスでしかないわ。今の私には別の大切なものを手にする資格に欠けるからよ」
「別の大切なものとはなんだ?」
「それは、男女がお互いの価値観や世界観を分かち合い、その一瞬には肉体だけでなく、精神でも一体になるという強い願望だわね。セックスではなく、私が夢見ているのは一組の男女が心も一体になるメイク・ラブなのよ」
前夜は軽快なテキサス・ツー・ステップを誘ったジェニファーがその夜はスローな曲でのダンスを求めてきた。ぴったり辻に寄り添う女体から、相克するアパッチの掟と女の心がひしひしと伝わる。
その夜も十一時過ぎまで客で賑わっていたバーは、翌朝には教会に出かけるという住民が三々五々帰途について、零時にはすべての客が姿を消した。明かりを消して辻とジェニファーはモテルの部屋にもどった。
シャワーカーテンを閉じてふたりがシャワーを浴びる。水着に覆われていた陽焼けしていないジェニファーの胸と腰は真っ白だ。その裸体にボディー・シャンプーを両手で塗った辻が、低めの温度にしたシャワーを浴びせてシャンプーを洗い落とす。こんどはジェニファーが同じように辻の全身にシャンプーを塗り始めた。
唇を合わせて抱き合うふたりの裸体に壁にもどしたシャワー・ヘッドから湯が降る。女の乳房が男の胸に広がり、密着するふたりの腰の間をぬるま湯が流れ落ちる。
それがふたりの素肌と素肌が触れ合った最後であった。
早朝にジェニファーを実家に送り届けた。
「あなたと再会するときはアパッチの誓いをはたした時だわ。その時が必ずくる」
そして、「昨夜、ベッドの上で、その時がくるまであなたが他の女性に浮気しないように、とアパッチのマジナイをしたのよ」
「呪いとは恐ろしいことを」
「冗談よ」と微笑むジェニファーが辻をハグした。しかし、その目は笑ってはいなかった。
辻の車が小さな丘を越えて姿を消すまで、バックミラーには手を振り続けるジェニファーの姿があった。アパッチのマジナイ。別れ際のジェニファーのことばが辻の耳に響き続ける。
これまでの辻は大きな組織に属してきた。そして大きな組織を率いる将来を夢見てきた。しかし、辻は米親会社やその関連企業の経営者と接するたびに、背後に組織が控えるこれまでの生き方とは別のビジネスマンの世界が存在することを垣間見てきた。組織を離れて自らの力であらたな道を切り拓くしたたかさ。
小さいながらも城の主になる起業も選択支かもしれない。数年前から脳裏を過ぎることであった。
出向期間が六年に達し、商社にもどる人事異動は明日にでも発令されるかもしれない。業績がよいことから、密かに米親会社からの移籍の誘いもある。
通常は飛行機便を利用する出張に車を選んだのも、大自然を走りながら将来への身の振り方を考える機会を持ちたかったからだ。
その大自然に身を置いた辻の前に、突然、アパッチの血が流れる天真爛漫な若い女が出現した。
四十歳を越えた今の段階で、組織の枠を取り外して自らの力を試すことに身を投じる時がきたのではないか。あの若い女の出現はそれを告げるためだったのではないか?
二時間ほどでインターステート一〇に乗ることができた。幹線道路だけあり、それまでの原野から一転して大型トラックが連続して往来する。
間もなくエルパソの町に着いた。ルート一〇はこの町を横断している。この近辺では唯一の大都市で、高層ビルもハイウェー沿いにある。
昼食を終えてエルパソを発つとすぐにニューメキシコ州に入った。ハイウェーの左右は再び岩砂漠が続く光景になった。
ジェニファーが告げた通りおよそ六時間で目的地のリゾートホテルに到着した。
この半日の運転中に辻の脳裏を離れなかったのは、その日の朝までのジェニファーと過ごした三十六時間の間に遭遇した出来事であった。
これまでのマンハッタンやダラスのような都会では辻が目にしなかったもうひとつのアメリカがあった。それは個人が豆粒のように見える雄大な大自然と、その大自然を跳ね除ける力強い個人という、相反する好対照が共存する奇妙な世界であった。
この広大な国を相手に、組織を背景にするのではなく、一介の個人として挑む。組織のビジネスマンではない、ひとりのビジネスマンとして自分はどれほどの力があるのか?
わずか三十六時間の出来事で人生の転換を考える。先ず目標を設定して、それに向かって着実に歩を進めるこれまでの辻のビジネスに対するスタンスと比べると余りにも思い付きの決断に思えた。
しかし、と辻は考えた。これまでの自らの軌跡を振り返っても、はたしてあらかじめ設けたステップ通りの人生があるのだろうかと疑問に思われてきたのだ。
高校は進学校で知られたある国立大の付属高校であった。多くのクラスメイトと同様に当然のように当時の一期校を受験した。それまでの模擬試験では合否のボーダーラインにあった辻だが、辻よりも成績の下の同級生が合格したにもかかわらず結果は不合格であった。渋々二期校に進学した。
商社に入社して知ったことは、第一志望の一期校に進んだ同級生が、総合商社ではなく希望に反して専門商社に入社したことだ。学内に設けられた丸の内の商社への推薦枠から外れたためであった。
辻は四年生のときに全国大学英語スピーチコンテストで優勝し、その様子が全国のテレビで放映された。これも大学が都内ではなく神奈川県にあったことが一要因にあった。全国大会は各地の予選を経た二十人で競われた。都内の大学であれば留学体験者も混じる熾烈な予選を通過しなければならない。その点、辻はほとんど対抗馬がいない関東圏の予選を経て決勝に出場していた。
日米合弁企業の経営に当ったことも新入社員時代には想像することもなかったことである。おかげで三十歳台で一企業の経営を体験することができた。商社の本体であれば、課長にもならない年代では企業運営の醍醐味を味わうことはできない。
結局、人の一生はその間に出現する出来事や周囲の変化にその時点では最善の対処を積み重ねていくことではないのか。
人生は一度しか訪れない。夢にとらわれずに目の前に出現した機会に身を投じて、素手で自らの人生を切り拓く。そのような人生があってもよいのではないか。
リゾートホテルにチェックインする辻はすでに決心していた。
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