第5話

 ジェニファーがサンドイッチと飲み物を入れたアイスボックスを提げて現れた。ゴム製のフロートはふたりが横に並んで座れる幅があり、オールを支えるフックが付いている。兄や姉たちが幼少の頃には頻繁に川下りをしたそうで、ジェニファーは手馴れた仕種だ。

 辻は以前から毎週末のジョギングを欠かさない。車のトランクからジョギング用の短パンと運動靴を引き出してそれに着替えた。

 辻の車をそこに残し、二台の軽トラックで出発する。フロートを載せたジェニファーのトラックを辻のトラックが追う。

 人家のない草原を十五分ほど進むと、緑色の国境警備隊の二台のSUVが駐車した仮設の検問所があった。

 ふたりの隊員と顔見知りのジェニファーは、「きょうはお客さんを案内して川下りよ」と告げる。

 「流れが浅いから密入国者がいるかもしれない。注意するように」

 中年の隊員が辻に尋ねる。「あんたは日本人かね?」

 「そうです」

 「東京の米国大使館にしばらく駐在したことがある。オリンピックが開かれた年で、大使館の警備を強化するために臨時に派遣されたんだ。あの頃は学生運動が盛んだったからね。あんたはビザ滞在者かね?」

 「永住権保持者です」

 「グリーンカードか。パスポートは携帯しているかね?」

 辻が財布からグリーンカードを引き抜いて示しながら、「パスポートは紛失すると厄介ですので自宅に保管していますが」

 「ジェニファーの客だから見逃すが、永住権保持者も外国人には変わりがない。パスポート不携帯で拘束されることもあるから注意するように」

 若い方の隊員が、「米国市民といわれると、私らもそれ以上は追求できないのだが」と片目を瞑ってみせる。

 戸籍や住民票が存在しない米国では、米国籍を証明するのは生誕証明書だが、それを常時携帯する米国人はいない。運転免許書を確認してそれでおしまいとなる。若い隊員が辻に向かって手を挙げる。同じように手を挙げて応じた辻がジェニファーを追う。

 南に向かって進むとビッグベンド国立公園の入口に着いた。入園は無料で入口の小屋に公園を警備するパーク・レンジャーが詰めているだけだ。傍の案内板に公園内に生息する動植物が写真入りで掲載されている。ピューマがそれに含まれる。日中に人に近付くことはないが、夜間は警戒を要すると女性のレンジャーが解説してくれた。

 半時間でリオグランデ河の河畔に達した。いわれていたように川はそのまま歩いて対岸に渡れるほどの水量でしかない。辻の運転する軽トラックをそこに置いて、辻はジェニファーの横の助手席に座った。

 河沿いの砂利道を小一時間進む。途中にもうひとつの検問所があった。こちらは石造りの建物でその前に星条旗が掲揚されている。その傍には前夜に渡河して検束された数人のメキシコ人の男たちが地面に座らされていた。身柄を収容する護送車を待っているのだ。

 ここでも顔なじみのジェニファーが目的を告げるとそのまま通過が許された。もし辻が乗用車で独りであったなら、ふたつの検問所を通過するのは容易ではなかったであろう。ジェニファーの兄のアドバイスは当っていた。


 やがて、小石が広がる川岸に着いた。ここが川下りの起点になる。

 トラックの後部座席に積んであった救命胴具のベスト、ヘルメット、そしてカウボーイが使用する皮のグラブをジェニファーが辻にも手渡す。

 ふたりでトラックの荷台から降ろしたフロートには転覆したときにつかまるロープが備わっている。目の前の川面は静かなものであったが、ジェニファーがいうには、川下りの途中にはフロートが転覆するかもしれない急流が待っていて、投げ出されて岩に激突するとヘルメットなしでは命を落とすこともあるそうだ。ロープにアイスボックスを固定してふたりはフロートを川に押し出した。

 ジェニファーが両手で裾をつかんでTシャツをたくし上げた。頭を抜くと、双方の乳房がはみ出すのではと思われるほどのビキニのトップが現れた。次に腰を揺すってジーンズを脱ぐと、その下は両側を結んだボトムであった。部屋に射しこんだ月明かりを一瞬遮った幻影が目の前に露になった。陽を浴びた半裸が眩しい。

 ジェニファーが両腕や太腿に陽焼け止めのローションを塗る。辻が女の背中にもローションを塗り、お互いにベストを着けて準備ができた。 

 中央に横に並んだふたりがオールを漕いで流れの中央にフロートを進めると、穏やかな流れがフロートを押し流しオールを漕ぐ必要がなくなった。両側の岸は砂岩か粘土の土質のようで、水に削がれた爪痕が露出している。

 川沿いに鉄砲水注意というサインと、白黒の縞模様に塗られた水位を示す物差しのような標識が時折立っている。そこに印された洪水時の水位は人の倍の高さだ。リオ・グランデとはスペイン語で大きな川を意味するが、この数年の雨不足のために川のあちこちには草が茂る中洲ができていた。水が流れる川幅は五十メートルにも満たないが、洪水時には百メートルを超えるのだろう。


 「二十歳台の半ばでワイナリーのオーナーか。どんな経緯があったのかね?」

 「それを語る前に、結婚と離婚を話さなければならないわ」

 ジェニファーがオールを引き上げるとフロートの前部に移り、背をフロートの壁にもたせかけて辻の正面に膝を立てて座った。

 「高校を卒業すると兄や姉は資金援助をするから大学へ進学するように薦めたの。高校では優等生で成績がよかったこともあったからだわ。でも、兄や姉はだれもが高校だけだったから、資金援助を受けるのは気が引けてね。それでなくても末っ子ということで子供扱いを受けてきたから、自力でなにかをしたかったのよ。それでこの近辺では大都会のエルパソの会社に就職したの」

 辻の前には腿の太さに比べて不釣合いなほど小さな膝頭がある。腿から膝頭にかけての体毛が陽に照らされて黄金色に輝く。高い頬骨を持つ丸顔がアジア系の面影を醸し出していることを除くと白人と変わりがない。アパッチの血が八分の一に過ぎないからだろう。

 「そのエルパソで知り合ったのが前の亭主だったの。両親はその昔に密入国したメキシコ人夫婦で苦労しながら金を貯めて、私が結婚した時にはメキシコ料理のレストランに食材を卸す業者としてはエルパソでも大手の一社だったわ。その二代目でハンサムだし金も持っていたので、しつこく追い回された挙句に結婚したのよ。お前といっしょになれないなら自殺するとか、この世は闇だ、とかの殺し文句に、私もコロリとなってしまって。若かったのね」

 「若かったというけど、いまでもまだ二十五歳だろう」

 「再来月には二十六歳になる。もう峠を越えたわ。これからは下り坂ばっかりよ」

 「僕は四十三歳だから君とは二十歳近く離れているが、まだ坂を上りつめていない気分だよ」

 「四十三歳か。二番目の姉と同じね。ジョギングを続けているそうだけど、歳よりも若く見えるわよ」

 「そうか? ありがとうよ。今までの話では、金持ちの息子でハンサム。離婚する理由が見当たらないが?」

 「結婚する前にはお前がいない世界はあり得ない、などといい続けていたのに、結婚するや他の女の尻を追いかけ始めて。お坊ちゃん育ちの上に、容貌が人並み以上だったから、周りの女たちから甘いことばをかけ続けられて育ったのね。女たらしを事前に見抜けなかったのは私としては一生の痛恨事よ」

 「この世には女たらしの男も多いが、それでも奥さんがしっかり背後から操縦する手もあるが」

 「その背後からの操縦に、私が向いていなかったのね。離婚してから冷静に考えれば、私がなにごとにもきつ過ぎて、追いつめられたアイツはいたたまれなかったのね。風の便りでは、再婚したメキシコ人の女性との間に子供も生まれて、今では父親を手伝って商売も繁盛しているとか。勝負は残念ながら私の負けだったことになるわ」

 ジェニファーがアイスボックスからビールの小瓶を取り出して辻にも手渡す。陽がきつくなり汗ばんできた。辻もベストの下のTシャツを脱いで上半身を裸にして川の水をかける。ジェニファーも同じように腕や脚に水をかけている。


 左側の川べりに一台の国境警備隊のジープが姿を現した。運転席から顔を出した隊員が、「ジェニファーじゃないか。デートか?」と大声で叫ぶ。

 「きょうはダラスからのお客さんを案内しているのよ」

 「ボンネットを開けたロバートのトラックがハイウェー沿いに停まっていた。どうしたんだ?」

 「アラ、もう部品を交換して家にもどっていると思っていたのだけど」

 辻を指して、「この人が昨日の夕方偶々通り合わせて兄貴をバーに連れもどしてくれたの。そのお礼に案内役を務めているというわけ」

 「越境者を見かけなかったかね?」

 「さっき検問所で数人を見た以外はいないわ」

 「注意していてくれ。このところ数が増える一方で油断ができない。今晩はバーの勤めは?」

 「この人とバーにいるわよ」

 「そうか。ジャー、そのときにまた」といって手を挙げてジープが姿を消した。 

 「さっきの話の続きだけど、そういうわけでエルパソにしばらく住んだの。レストランに食材を卸すアルコール類も扱う業者と顔見知りになってね。ここのバーに納める業者から私の名を聞いたとか。その人から、米国で最初にワインが作られたのがエルパソだったことを知らされたのよ」

 ジェニファーがその業者から知った史実はこのようになる。


 メキシコを征服したスペイン人は十七世紀後半に現在のアリゾナやニューメキシコ、テキサスなどの米国南西部への入植を試み始めた。しかし乾燥地帯で荒涼たる岩砂漠の地のために試みが頓挫し続けた。

 このスペイン人たちが北アフリカが原産で乾燥地帯に向いたスペイン産の馬を持ち込んだ。馬は南北米大陸には原生していなかったが、入植が失敗する都度置き去られたこれらのスペイン原産の馬が野生化して、現在のようにどこにでも馬を見るようになったのだ。カリフォルニアに定住した最初の白人もそのようなスペイン人たちで、スペイン語の地名がカリフォルニア州に多いのはそのためだ。

 やがて入植者たちを追って宣教師が北上してエルパソに教会を建てるまでになり、教会の儀式に欠かせない赤ワイン用の葡萄をエルパソの地で栽培してワインを造るようになった。こうしてカリフォルニアに先んじてテキサスに米国では最初のワイナリーが誕生したのだ。

 このエルパソのワイナリーはやがて姿を消してしまったが、今でもテキサス州中央部でアラモの砦で知られるサンアントニオ市の周辺で、ヒル・カントリーと呼ばれる地方でワインが造られている。カリフォルニアなど西海岸の三州に次いでワインの産出量ではテキサス州は米国では四番目にランクされている。


 「そういうわけで、離婚して実家にもどってから、その食材業者に紹介されたワイナリーをいくつか訪問して、それではと始めたわけ」

 「そうか。テキサスに住んで六年になるが、州内にそれほどのワイナリーが存在することは知らなかったな」

 「午後に現場を案内するけど、この秋に数ケースのカベルネ・ソーヴィニヨンの瓶を出荷する予定なの。市販するほどの量ではないので、あのバーでお客さんに提供するつもりなのよ」

 「バーがあって好都合だな」

 「カウボーイたちにワインを味わう者は見当たらないけど、時には観光客が泊まるからワイン好きもいるんじゃないかな」

 川下から流れがぶつかり合う大きな音が聞こえてきた。カーブを曲がりきると、両岸から張り出した崖に挟まれて川幅が狭くなり、流れが突然急になった。流れがぶつかり合う。

 ジェニファーが辻の横にもどりヘルメットを着けたふたりはオールでフロートを流れにしたがうように操作する。最初は心地よかった水の飛沫がフロート全体を覆うほどになり、フロートの底に水が大量にたまるまでになった。

 激流がぶつかる岩を巧妙にすり抜けてフロートを操るジェニファーの横顔には、それまでは目にしなかった精悍な面持ちが溢れている。隠されていた芯の強いアパッチの女がそこにいる。


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