第4話
バンド演奏が始まった。ジェニファーが辻の頬にキスをして、辻の手を引いたままのふたりがバーにもどった。
辻の手を握るジェニファーを目にしたカウボーイのひとりが、「ジェニファー、もうデートか。俺には耳を貸さないのに差別待遇だぜ」とジェニファーの肩に手を置く。
その手を跳ね除けたジェニファーが、「この人は兄貴の大切なお客だからね。それに、あんたと違って紳士だし」
カウンターのカウボーイたちにまた笑いが広がる。
壁の時計が十一時を指していたがバーは相変わらず盛況だ。隅に置かれた二台のビリヤード台では先ほどまでカウンターを囲んでいたカウボーイたちが球を突いている。
酒が嫌いでない辻だが、夕刻からビールやテキーラを少々飲み過ぎたようだ。カウンターのジェニファーに部屋にもどる、おやすみ、と告げて庭伝いにモテルの部屋にもどった。東の空に赤い半月が浮かぶ。
シャワーを浴びてベッドに入る。バンドの演奏が微かに聞こえる。子守唄のようなウェスタンの曲を耳に眠りに落ちた。
どれほど経っただろうか。微かにドアーをノックする音で辻は目を覚ました。
鎖の錠をかけたままドアーを開けると、そこにはジェニファーがいた。
声を落として、「今夜、泊めてくれる?。車をもどすはずの兄貴が現れないのよ」
そこまで聞いて事情を察した辻が錠を外してドアーを引き開ける。
部屋に踏み入ったジェニファーが声を落としたままで、「バーを閉めてからしばらく待ったのだけど、兄貴は酔い潰れたのかもしれない。遅くに起こしてしまいごめんね」
ベッドの傍の目覚まし時計は一時過ぎを指していた。辻の部屋にはツインのベッドが置かれていた。
「こちらで寝るから」といって空いたベッドにハンドバックを置いてバスルームに姿を消した。
バスルームからシャワーの音が聞こえてくる。
やがてバスルームの明かりを消したジェニファーが忍び足で出てきた。窓から月明かりが漏れる。素肌のままの女体がその明かりを過ぎって、そのまま隣のベッドに潜りこんだ。
数時間前には赤の他人だった女が隣のベッドに裸で横たわる。辻には夢のひとこまとしか思えなかった。
辻が目を覚ますとジェニファーはすでにベッドを離れていた。ハンドバックがそのベッドの上に置かれている。
シャワーを終えてバスルームを出ると、ジェニファーがドアーを開けて入ってくるのと同時だった。朝食用のコーヒーとジュースにパンケーキをふたり分乗せた盆を両手で捧げている。
「おはよう、朝ごはんを持ってきたわ」
「それはありがとう。昨夜は少々飲み過ぎたようだ。おかげで熟睡してしまった」
盆から小さなテーブルに皿やカップを移しながら、「まるで夫婦のようね。男の人と朝食をいっしょにするのは久しぶりのことよ」
「君には兄や姉が多いんだろう」
「そう。でも皆結婚して家を出てしまったから、いまは両親に長兄夫婦、それに私だけなのよ」
窓の外にはすでに陽が照り付けている。
「きょうはまず私の家に行って、二台の車でリオグランデに向かうことにするわ。一台を川下に置いて、もう一台に載せたフロートで川を下り、最初の車でもどることになる。お昼ごはんを持参して川下りの途中で食べて、川下りの後は葡萄園を案内するわ。夕食は私が実家で料理するわね。夕食の後はここにもどってバーで夜を過ごす。このようになるけど、どう?」
辻の車がジェニファーの実家に着いた。大家族らしくかなり広いランチ風の二階建てだ。裏に大きな納屋があり、その傍の囲いの中に馬が数頭いる。
長兄のロバートはトラックを引き揚げるためか留守にしていたが、両親とロバートの奥さんがいた。
ジェニファーが両親に、「こちらがミスター・ツジ。トラックがエンコして困っていたロバートをモテルまで送り届けてくれたのよ」
父親はアパッチとドイツ系白人の混血だった父親と白人の母の間に生まれたとかで、この父親と街ですれ違えば白人と変わりがない。息子のロバートの方がアパッチの容貌が濃い。ジェニファーの母親は白人で北欧のバイキングの末裔だそうだ。ジェニファーと同じように瞳がブルーだ。長兄の奥さんはメキシコ系アパッチの両親を持つそうで肌の色が濃い。アパッチそのものだ。
ランチを作るからとジェニファーが家の中に姿を消し、父親と辻が木陰に置かれたピクニック・テーブルを挟んで座る。
庭から目にする一帯は小高い丘陵地帯で、はるか西に標高の低い山が連なっている。
「あんたは日本人だとか。昨夜息子から聞いた」と父親が辻に語りかける。「俺たちアパッチも元をたどれば同じアジア人種だ」
「そうですね。同じ蒙古族ですからね」
「その同じ血を分かつ日本人がこの国に戦争を仕かけた。結果は別にして俺は誇りに思っているんだ」
「窮鼠猫を嚙む、ということばが日本にはありますが、無謀な戦いでしたね」
「真珠湾攻撃が日本を一方的な悪者にしてしまった。開戦後に太平洋艦隊司令官に就任したチェスター・ニミッツはテキサス生まれでね。真珠湾で捕獲した特殊潜航艇の一隻がテキサスで展示されているのはそのためなんだ」
「テキサスは第二次大戦では太平洋だけでなく欧州にももっとも多数の師団を派遣した州といわれますね」
「アラモの砦がある地だからね。いざ戦争となると血が騒ぐのさ。日本の武士道が知られている。その日本人が宣戦布告無しの急襲をした、とテキサスには反日感情が長く存在した」
「それはニューヨークからダラスに移った際にそれとなく感じました。面と向かってはないものの、背後では日本人は卑怯だ、といわれていることをなんとなく感じましたね」
「宣戦布告無しの開戦といわれるけど、日本大使館の手抜かりで暗号解読が遅れて、そのため宣戦布告も遅れた、と耳にしたことがあるが?」
「日本政府がそのような解釈を唱えてきました。しかし、米国に残された当時の記録や議会証言はそれとは異なる史実を語っています」
「そのことは米国人には広くは知られていないな」
「宣戦布告の遅れは大使館の手落ちではなく、日本の軍部と政府の思惑で日本からの発電が遅れたことが米海軍の傍聴記録から明らかです。本省が出先に責任転嫁した例ですね」
「どこにでもよくあることだ」
「私は、通告の遅れではなく、通告文に日本の非があるという見方をしています」
「それはどういうことだ?」
「暗号にされた通告文はいくつかに分割されて東京から発電されました。通告が遅れたのは、その最後の結論の部の発電が遅れた、あるいは遅らせたことから起きましたが、その結論部分を読むと、はたして宣戦布告文だったのか疑問を抱く、曖昧なものです」
「ローカル紙に掲載されたことがある。その記者はガダルカナルで日本軍の捕虜になったとかで、典型的な嫌日派のひとりだったな。余りにも一方的な記事なので、途中で読むのを止めてしまったからよく覚えていない。じっくり読むべきだったな」
「あの文を読み返すと、仮に、真珠湾攻撃前にあの文書が米政府に手渡されたとしても、米国の関係者が開戦と受け留めたか大いに疑問ですね。手渡す駐米日本大使も、同伴した日本政府が派遣した特命大使も、真珠湾攻撃の存在は知らされていませんでした。口頭で補足することもかなわなかったことになります。米国は分割された暗号文の最後の結論部分を、あの日のワシントン時間の午前十時過ぎには解読を終えていました。攻撃が始まる三時間前ですね。大統領や軍部の責任者が解読文を手にしていますが、その文章は日米和平交渉を打ち切ると通告しただけで、だれも宣戦布告とは受取っていません。日本の外務省は別電で、通告文を午後一時に米国務長官に手渡すよう駐米大使に命じていました。その外務省の電報も米国は傍受していて関係者に回送されています。米軍トップのマーシャル大将が、時刻指定は、ひょっとしたら、と各地の司令部に警告を発した走り書きのメモが残されています。米国の反応はこのマーシャル大将のものだけです。通告遅れではなく、通告文そのものを論じるべきですね。何故、開戦すると堂々と通告しなかったのか。奇襲ばかりに躍起になって、武士道の国にしては恥ずべき通告文でした。もっとも、宣戦布告と米国が認識すれば、解読は攻撃開始の三時間前ですから、真珠湾があれほど無防備ではなかったはずで、日本軍の成果は限られていたでしょうね。しかし、それが武士のたしなみというものです」
「あんたはよいことをいうね。侍の国から来ただけある。もっとも、マーシャル大将の警告は真珠湾にも打電されたはずだが、あの日は日曜日で、現地にも隙があったのだろう。解読しても活用しなければ意味がない」
「日本の外交電報が米・英両国に解読されていることをナチス・ドイツが察知した史実があります。開戦前のことで、当時の駐ベルリン日本大使に警告し、大使も本省に報告しているのですが、どうしたことか日本の外務省は暗号を改めていません。この間の秘密電も米英に傍聴されていました。なにをか言わんやですね」
「日本は暗号保持に劣っていたようだな。日米戦争には多くのアメリカン・インディアンも投入された。部族しか理解しない言語を暗号代わりに伝令に利用したんだ。ここから西に住むナバホ族やチョクトー族の例がよく知られている」
「広く知られる硫黄島のすり鉢山の頂上に星条旗を掲揚するシーンにもアメリカン・インディアンがひとり混じっていますね。確か、アパッチのひとりといわれていますが」
「そうだ。軍功が顕彰されたが、後にアル中に陥って気の毒な余生だった。俺は朝鮮戦争に引っ張られて幸い帰還したけど、同じ部隊の仲間の多くがやられた。あれは中国の背後にソ連が控える冷戦時代の産物だが、惨めな戦いで、結果は引き分けだった。息子が従軍したベトナム戦争も冷戦時代の代理戦争といわれるけど、あれは米国が勝手に引き起こした戦争だ。日米戦争に勝ったことから奢ったこの国はアジアのあちこちに手を出したが、国のトップの白人たちは分かっちゃいない。これに懲りずにまたノコノコちょっかいを出すようなことがあると、必ず泥沼に陥る」
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