第3話

 やがて食堂からも夕食を終えた数組の男女がバーに移ってきた。金曜日だからだろう、バーは半分ほど埋まった。だれもが顔見知りのようだ。

 ギターを抱えたふたりと、ドラマー、それに電気オルガンの四人からなるバンドが演奏を始めた。四人とも地元のカウボーイか農夫のようだが、技量は田舎にしてはたしかだ。

 最初に“ハイウェイマン”が演奏された。この曲はカントリーミュージック界の大御所だったジョニー・キャッシュ、作詞作曲家でも知られたクリス・クリストファーソン、日本でも名が知られているウイリー・ネルソン、そして渋いウェイロン・ジェニングス、のベテラン歌手の四人が顔を揃えた公演中に演じた珍しい作品で、全米で人気を博していた。続いてジョニー・キャッシュの代表作である“サンデー・モーニング・カミング・ダウン”などが演じられると数組のカップルがフロアーでダンスを始める。

 周囲に人家が見当たらない地にしては多くの人が集まっている。メキシコ系と思しき者やインディアン、その混血に、白人も少なくない。黒人が皆無なのが米国の他の地とは異なる。

 ジェニファーに辻が尋ねる。「この人たちは土地の住民かね?」

 「そうよ。いつもの顔ぶれだわね。今夜は金曜の夜だから、一時間ほど先の村の人たちも混じるわ。楽しみが少ない地だからここが憩いの場になっているのよ」

 客が増えたからかモテルのオーナーがカウンターの内側に加わる。六十歳台のカウボーイ・ハットをかぶった白人だ。


 曲がテンポの早いテキサス・ツー・ステップに変わった。カウンターの端を持ち上げて出てきたジェニファーが辻の腕を引っ張って床に引き出すとステップを踏み始めた。

 辻の住むダラスの西隣にフォート・ワースの町がある。すぐ近くのダラスの名が海外にも知られるようになってフォート・ワースの名は昔ほどではない。世界的に知られるピアノ・コンクールが開催されることから音楽界で知られる程度だ。

 そのフォート・ワースは二十世紀はじめまでは全米では有数の肉牛の集散地であった。この地を訪れた大恐慌時代の大統領だったフランクリン・ルーズベルトが、“ここから西部がはじまる”という語を残している。

 当時のストック・ヤードがそのまま保存され、周りにはバーやレストラン、ウェスタン・グーズの店が軒を連ねる。

 その一角に世界最大の広さとテキサス人が呼ぶダンスホールがある。テキサス人は世界一が大好きでなににでもそれを冠するが、そのダンスホールは文字通り世界最大かもしれない。別居の末に離婚をして独身の身の辻は、職場の若い社員たちに誘われていくどか足を運んだ。おかげでテキサス・ツー・ステップをこなすことができる。

 「あなたはダンスが上手ね」と辻の肩に片手を置いたジェニファーが耳元で囁く。

 辻の右手は肉付きのよいジェニファーの背中に置かれている。カウボーイたちの話からジェニファーは乗馬が得意だそうだ。背中の筋肉はそのためであろう。ふたつのポケットの下の胸が躍り、ふくよかな腰が辻の下腹にぶつかる。


 曲が終わってバンドが休憩に入った。ジェニファーが手を引いてドアーの外に辻を連れ出す。ネオンを除くと漆黒の世界が広がる。これほどあったのかと驚くほどの満天の星だ。西の空を真横に稲光が走る。

 「チノに行くんだってね」

 「日曜日の午後に着かねばならない」

 「あそこまではここから六時間はみておいた方がよいわね。日曜日の早朝にここを発てば間に合うわ」

 辻は土曜日の夜はここから西に数時間でルート一〇沿いにある、メキシコとの国境の町、エルパソに泊まる予定にしていた。エルパソは人口が六十万人に達するこの近辺では大都会でホテルやモテルが多いことから、宿泊先の予約はしていなかった。この快活な女性となら嬉しい予定変更だ。

 「明日はビッグベンドの公園を案内するようにとの兄貴の指示だったわね。せっかくだから公園に沿って流れるリオ・グランデで川下りをしようよ。今年は雨不足で川の流量が少ないけど、その分安全だわ。ゴム製のフロートで流れを下るのだけど体験したことがある?」

 「ないな。あの映画に登場するリオ・グランデをフロートで下るのか。それは楽しみだ」

 「それから、公園からの帰りに私の葡萄園に寄ってよ」

 「ぜひ見たいね」

 「昨年最初の収穫があってワインに仕込んだの。出荷はまだだけど試飲できるわよ」   

 「それは大したものだね。お兄さんによればまだ二十五歳だそうだね」

 「十人兄弟姉妹の末っ子なの。だからいつまでも子供扱いされるのよ」

 「でも結婚したとさっき聞いたが」

 「そうなのよ。明日は時間がたっぷりあるから追々事情を話すわ」といって辻の手を握ったまま星空を仰ぎ見る。


 テキサス州の西の端でアパッチの女と手を取り合って夜空を仰ぐ。同じアジアの血が流れる男女だが、数時間前まではお互いの存在さえ知らなかった。手の平を通して女の温かい息遣いが伝わる。

 「ジェニファー、雑誌で読んだことがあるんだけど、この近くに東海岸のロードアイランド州よりも広い牧場があるそうだね」

 「その牧場はドイツからの移民が拓いた牧場で、今は八代目がオーナーよ。私の父はその家族から分家した家系だから私にも遠縁に当るわね」

 ジェニファーによれば、その広大な牧場の面積はメートル法に換算すればおよそ二千七百平方キロ強だそうだ。日本の都道府県では最大の面積を持つ北海道の三十分の一で、四十一番目の鳥取県に次ぐ。佐賀県や東京都を凌ぐ広さだ。

 一辺が五十キロの正方形を上回る面積に肉牛が放し飼いになっている。五十キロは辻が通勤に利用していた東海道線では東京駅から藤沢近辺に達する距離だ。自宅を横断するには通勤電車で一時間を要することになる。

 これが一家族が私有する牧場なのだ。草原に放し飼いの牛たちを毎年二度集めて、健康度を確かめ、無印の牛に鏝で焼印を押す。この作業には十六人のカウボーイたちがあたり、バーにいるカウボーイたちもその際には駆り出されるそうだ。カウボーイたちは三ないし四週間の毎日を野宿で過ごす。これが自宅の敷地内での出来事なのだ。

 チマチマした些細なことに気を遣うことが馬鹿らしく感じられる次元の異なる世界が広がる。隣に立つジェニファーが生まれて育った地とはこのような世界なのだ。

 「あなたの指にはリングがないけど独身なの?」

 「しばらく前に離婚したんだ」

 「じゃあ、おあいこだわね」

 「そうなるね」

 「この近辺の大都会は国境の町のエルパソくらい。ダラスも知らないし、この州から外に出たのは、西隣のニューメキシコ州に出かけたことがあるだけ。国際ビジネスマンの奥さんは外国にも行けるのだろうな。でも、私にはその前にしなければならないことがあるの。明日、お話しするわ」

 初対面からまだ数時間にもかかわらず、辻には昔から知る女性のように思われる。不思議な雰囲気をジェニファーは漂わせていた。 


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