2013年【行人】喪失することが必ずしも成熟へ繋がると私は思わない。

 そうして私は十数年もの間、雨と子供たちと住んだ部屋を出て、晴と共に暮らしはじめた。

 晴は日に日に衰弱していった。

 死の足音が私たちの後ろから聞こえてくるような日々だった。

 それでも私と晴の生活は幸せだった。

 

 雨と過ごすのとは違う幸せが、そこにはあった。


 晴は私と一緒に暮らしはじめて、一年もの間、持ちこたえてくれた。

 呼吸しなくなった晴を目の前にした時、私は私の中にあった確かなものが欠けてしまったのを感じた。

 喪失することが必ずしも成熟へ繋がると私は思わない。


 ただ人を変えてしまう衝撃だけは、そこにあった。

 にも関わらず、私は友人が言うように今も「詰まらない奴」として、

 ここにいる。


 私は晴の死によって確かなものが欠けたのを感じたし、雨の言う自由の中へ身を沈めもした。それでも私は変わらなかった。


――――――


「いや、それは正確ではないね」

 と田中さんは言った。


「私は私という存在が深く削れているのが分かる。

 これから私の中が豊かになることはないだろう。そのくせ、私は以前と変わらない私として人と接することができる。

 多分、雨のもとに戻り、前と同じような生活を繰り返すことも出来る。けれど、それは以前の模倣でしかない。新しいものは何も作ることができない。まるで貯金だけで生活をするような、必ず袋小路にたどり着く生活を私は雨に強いて良いのか、と迷わずにはいられないんだ」


 僕は残りのジン・トニックを全て飲み干してから手をあげ

「良いですか? 田中さん」

 と尋ねた。

 ついでに圭太におかわりをお願いした。


「はい、何ですか? 行人くん」


「よくぞまぁ、そんな経験しといて、自分は詰まらない人間とか言いますね。水曜十時のドラマの主人公とかになれるんじゃないですか?」


「いや、ホント、その通りですよ」

 と圭太が同意した。


「そんな大層なものじゃないよ。今になって思うことだけどね、私は単純に『可哀相な人』に弱かっただけなんだよ」


「可哀相な人?」


「私が高校卒業と共に結婚したことに同級生たちは同情したけれど。結局は私も、可哀相な人を助けてあげなくちゃ、と同情していただけのようにも感じるんだ」


「けど、実際に田中さんは全てを投げ打つように、彼女たちを助けたんじゃないですか?」


 僕の言葉に田中さんは苦笑いを浮かべた。


「それが自己満足じゃなかった、と胸を張って言えないことが情けないんだよ」


 圭太が二杯目のジン・トニックを僕の前に置いてから、言った。


「自己満足じゃいけない理由はないでしょう」


 その台詞に僕は疑いの気持ちを抱いた。

 自己満足とは、自分のことしか考えていない、ということじゃないのか?


 いや、その二つは似ているようで違う。

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