――マーメイドラプソディ――
あの日の後悔
ひとりきりのミュージアムは、なにが変わったわけでもないのに、とても広く感じた。
いたるところに、空白があるみたいだった。
「……」
ホールに立てこもり、オルゴールの音をきいて、しばらく。
突然ホールの扉がバタンと開いて、よく晴れた夜の光が中へと差し込んできた。
「よっ」
コンビニ袋を掲げた杉原が立っていた。
「何発殴られた?」
「……三発、くらい。四発だったかも」
「絆創膏、買ってきてやったぜ」
「消毒液は?」
「ローションでいいだろ」
ヒリヒリする傷口に投げ渡されたローションを塗り込んでみる。
貼ろうとした絆創膏がヌメリと落ちた。
「まあ、そうなるわな」
ケラケラと笑って、杉原は冷めたソーセージパンを差し出してきた。
人間、生きていれば腹は減るもので。オレはパンにかじりついた。
「渡来さん、ちゃんと入院したってさ」
「……そっか」
「……コウ」
「オレ、まちがえたのかな?」
ユキの両親に居場所を教えたのは杉原だ。
そして杉原にそうするよう伝えたのはオレだ。
それがユキにとっての最善だと思った。
でも、連れていかれるユキの表情を目にしたとき、心が揺らいだ。
一緒に山頂へいきたいと思ってしまった。どんどん弱っていくユキにムリをさせてでも。
「コウは渡来さんがよろこぶと思って両親を呼んだのか?」
「いや……」
「ならいいじゃないか。ひとりの人間が尊重できるものには限りがある。おまえは渡来さんの心よりも命を大切にした。そういうことだろ」
「……」
できることならユキの願いだって叶えてやりたかった。
もし今日雨があがるとわかっていたら、オレはユキと一緒に山を登ったかもしれない。きっと、登っただろう。
だけど、雨がいつあがるのか、わからなかったから。
オレには“その日”を待てなかった。
「……おまえならどうした?」
「え?」
「杉原なら、あいつと山頂にいくことを選んだか? いつやむのかわからない雨を待って」
「俺は一度断られてる」
「そういうことじゃなくて」
「コウの立場ならって話か?」
「ああ」
「……登っただろうな。雨がやむのをいつまでも待ち続けて」
杉原ならそう答えるとわかっていた。
杉原太一はそういうやつだ。
「まあ、当事者でもないやつの勝手な言い分さ。俺はコウを責めたりしないよ。コウはコウで、きっと正しい。まちがってるのは、勝手に家を出た渡来さんだ」
「……それを言えるおまえが、オレにはすごいと思うよ」
オレが選んだ行動も、選ばなかった行動も、仮にどちらも正しいとして。どちらを選べる人間でありたかったかは、オレの心が既に答えを出していた。
「……なあ、杉原。どうしておまえはこんなオレと友達でいてくれるんだ?」
「急な質問だなー」
「だって、接点なんてなかったじゃないか。精々クラスが一緒だったくらいだ。オレがここに立てこもるまでほとんど話したこともなかったし。オレとおまえじゃ人間としての気質がちがいすぎてる」
「今日は卑屈な日なのか?」
「ずっと思ってたことだよ」
突き放した言い方をすれば、オレにとって杉原はとても都合のいい相手だ。
食料は調達してきてくれるし、読みたい本を言えば買って貸してくれる。話し相手や遊び相手にもなってくれる。
そんな杉原の存在が、オレが拒絶した外界とのつながりをギリギリのところで繋ぎとめてくれていた。
でも、杉原にとってのオレはそれだけの価値を持たない。
「じゃあ俺もコウに、ずっと思ってたこと、きいてもいいか?」
「なんだよ?」
「コウはどうしてこのミュージアムに引きこもったんだ?」
「引きこもりじゃなくて……いや、引きこもりか」
結局オレがやっていたことなんて、現実から逃げていた――それだけのことだ。
「妹がな、死んだんだ。ちょっと前に。それでちょっと、生きづらくて」
「やっぱりそうか」
「やっぱり?」
早希のことはまだユキにしか話していない。
だから杉原がそれを知っているのはおかしかった。
「俺、おまえの妹に一度会ってるんだ」
「どこで?」
「駅で」
早希が学校とは反対の駅に向かった日――それは、早希が踏切の中へと飛び込んで死んだ日だ。
そういえばあの日、たしか杉原もめずらしく学校にきていなかった。
「……どうして?」
「すこし、話した。駅を下りてから」
「なにか言ってなかったか⁉」
オレは――オレだけじゃない。家族のだれも知らなかった。どうして早希が自ら命を絶ったのか。
もしなにか理由があるのなら、それを知っているのなら、教えてほしかった。
「コウが知りたいと思ってるようなことはきいてないよ。今日も空がきれいだとか、因数分解をしたがるやつの気持ちがわからんとか、あとはちょっとニッチなマンガや小説のことくらい。いつもコウと話してるのと同じようなことさ」
「……そうか」
「でも、どうして死んだのか……なんとなく思い当たることはある」
オレは俯きかけた顔を上げる。
それから、すこし迷った。
そこから先をきいてしまえば、早希の件が完全に過去のことになってしまう気がした。
だからちょっと前までのオレなら、たぶんきくことができなかった。
早希の喪失は、オレの居場所の喪失を意味していたから。
ミュージアムを出て、生きていける気がしなかったから。
けれど、ユキの言葉が背中を押してくれた。
早希が生きていた事実はちゃんとオレの胸の中にある。
そう思えるようになっていたから、オレは杉原に尋ねることができた。
「……どうして早希は死んだんだ?」
そして杉原は答えた。
「コウと一緒だと思うぞ」
「……オレと?」
「このミュージアムにこもってるときのコウは、なんていうか……生きるのに向いてないって感じの顔をしてた。しばらくひとりになろうとするのはべつにいいと思うけど、その先の展望がなにもなかっただろ?」
杉原の言うとおりだった。
現実から逃げ出すようにこのミュージアムにこもったけれど。いつかは出ていかなければいけないと思っていたけれど。いつ出ていくか。どこにいくか。そんなこと、決められる段階にオレはいなかった。
オレはずっと早希の死に囚われ続けていた。
「ふつうに笑って話してた早希ちゃんがどうして死んだのか。俺もずっと考えてた。でも、コウと一緒にいてなんとなくわかったよ」
「……」
「あの子も、だれか大切な人をなくしたんじゃないのか?」
すこし、思い当たることがあった。
早希が死ぬ半年前にじいさんが死んだ。
早希にとっての大切な人がじいさんだったのかはわからない。
けれど、早希もオレと同じように喪失に囚われて、なんでもないフリをしながら生活を続けていたのだとしたら。
早希の死後も「いつもどおり」でいることに没頭して息切れを起こしたオレみたいに、ふと限界に達して現実から逃げ出そうとしたとしても、理解できない話ではなかった。
「学校が終わったあと、たまにこのミュージアムにきてたらしいぞ」
「早希が?」
「ああ」
そんなこと、オレはちっとも知らなかった。
たまに帰りが遅いときも、きっとテキトーに遊んでいるのだろうくらいに思っていた。
「……だから、学校にこなくなったオレを心配してくれてたのか? オレと早希を重ねて」
「まあ、それもあるんだけどさ……」
杉原の歯切れが急に悪くなる。
「……言われたんだよな。早希ちゃんに」
「なにを?」
「おまえのこと、頼むって」
「……」
早希は、わかっていたのかもしれない。
自分が死ぬことで、オレがこうなってしまうくらいに弱い人間であることを。
もうオレは早希の死に囚われたりはしないから、それをわかったうえで死んだ早希について怒ったり悲しんだりはしない。すくなくとも今は、そんな早希の勝手を笑ってさえやれる。
でも、杉原に対しては、べつの気持ちを抱いていた。
「……なあ、杉原」
「ああ」
「おまえ、もしかしてわかってたんじゃないのか? 早希が死のうとしてるってこと」
感が良くて気も遣える杉原のことだ。
オレのことを頼む早希の顔を見て、それが単なる社交辞令の意味合いではないことくらい、気づいていたんじゃないだろうか。
ふつうは気づけないかもしれない。
でもオレは杉原のことをふつうだと思っていない。
杉原は、ユキのことを特別扱いする学校の連中を俯瞰して見れるやつだ。
オレは杉原のそういうところを認めている。
だからこそ、杉原なら早希の変化に気づけたはずだった。オレにも、家族のだれにも気づけなかった感情の機微を。
「ああ、気づいてたよ」
そう、杉原は言った。
「早希ちゃんが線路に飛び込む――その瞬間まで、俺は彼女と一緒にいた。早希ちゃんが最後に口にしたのがコウのことだ。俺には彼女が死のうとしてるのがわかってた。わかって、止めなかった」
一息に事実を並べて、杉原は肩を竦めた。
「それは、まちがってるか?」
まちがっている――なんて、言えるわけがない。
オレにはなにがまちがっているかなんてわかっていないんだから。
オレはユキの気持ちよりも命を大事にしようとした。だから、ユキにあんな顔をされるとわかっていてもユキの両親に居場所を教えた。
逆に杉原は早希の心を大事にしようとした。線路に飛び込もうとする早希の気持ちを推し量って、杉原はそれを止めようとしなかった。
どちらが正しいかなんてオレにはわからない。
だからオレに杉原を責める資格なんてない。
それでも、気づいたときにはもうオレは、杉原の顔を力いっぱいぶん殴っていた。
「ふっざけんなよッ‼」
たおれた杉原の胸ぐらを掴んで立たせる。
「おまえの行動は正しかったなんて、オレが言うわけないだろッ‼」
早希には早希なりの理由があったのかもしれない。
生きるだけが正しい選択じゃないのかもしれない。
それでもオレはあいつに――生きていてほしかった。
「コウが俺の立場だったら、止めたか?」
「あたりまえだ!」
オレは馬乗りになって杉原に感情任せの拳を振るおうとする。
そのとき、目の前で透明な雫が流れ落ちた。
杉原の涙だった。
「…………やっぱり、そうか……」
噛みしめるような声がホールに零れる。
「俺はあのとき、止めるべきだったのか……」
いつも飄々としている杉原が泣いているところなんて見たことなかった。
だからオレは、振り上げた拳を振り下ろすだけの力をなくしてしまった。
「……ずっと、考えてたんだ。あのとき俺はどうするべきだったんだろうって。俺があのとき選んだのは〝なにもしない〟ことだったから」
「……」
「…………あの日の後悔が……ずっと、消えないんだ……!」
杉原は泣いていた。
いつかのオレのように。みっともない声を漏らしながら、ポロポロと涙を流して。
「…………」
早希はオレの中にしかいないのだと勝手に思っていた。
でも、ちがう。
どうやら杉原の中にも早希はいたらしい。
だからこうして、今でも苛まれている。
「……杉原……」
オレははじめて杉原に共感を覚えた。
やっとすこし、杉原のことがわかった気がした。
「おまえは早希が口にした最後の願いを叶えてやるためにオレの相手をしてくれてたんだな」
「…………ちがう」
「べつに気を遣わなくていい。おまえとオレが友達だなんて、変な気がしたんだ」
「最初は、そうだった」
喉をひくつかせながら杉原は言う。
「でも、話してるうちに、だんだん、おもしろいやつだなって、思うようになって……」
「もういいよ」
きいているこっちが恥ずかしくなってきたので、オレは早めに話を遮ろうとした。
それでも杉原は最後まで言いたいことを口にした。
「こいつと友達になれたら、きっとたのしいだろうなって」
「…………わかったって」
オレは杉原の気持ちが落ちつくのを待って尋ねた。
「なあ、杉原。おまえ、自転車通学だったよな」
「……ああ」
「どうして学校サボって電車になんか乗ったんだ?」
その質問に杉原が答えることはなかった。
けれど、今ならなんとなくわかる気がした。
すくなくとも杉原は能天気なだけの人間じゃない。
オレも、早希も、ユキも、きっとそうだ。
みんな、生きている感覚が薄らいでいるんだ。
「……もう、いいよ」
オレは杉原に手を差し伸べる。
その手をとって杉原は立ち上がった。
それはたぶん、オレたちが本当の意味で「友達」になった瞬間だった。
「……ありがとう」
そういって、杉原はようやくいつもの明るさを取りもどした。
「ききたかったこと、あとひとつ」
コンビニ袋から取り出した菓子パンをかじりながら、杉原は言った。
「コウ、渡来さんのこと、好きだろ?」
なんてことをきいてくるんだと思った。
「べつに……」
否定しようとして、言葉を呑む。
「……オレの気持ちなんて関係ないよ。オレはユキを裏切ったんだ」
「もうずっと、会いにいかないつもりなのか?」
「……ああ。むこうだって会いたくないだろうし」
そう、言い終わるが早いか。
杉原の拳がオレに向かって振り下ろされた。
視界がぐるんと回って、ローションがピシャリと床に跳ねた。
「へへっ。さっきのお返しだ」
ベタベタになった手を服で拭きながら杉原が言う。
「会いたくないかどうかは、会ってきいてみないとわからないじゃないか」
「オレはユキを騙したんだぞ⁉」
「謝ればいいじゃないか、そんなこと。騙したっていうなら俺だって一緒だ」
「どこに入院してるかも知らない」
「俺だってそこまでは教えられてない。でも調べればいいだろ、そんなこと」
杉原は会いにいくつもりらしい。たとえユキになにを言われたとしても。
「会いにいかないとまた、コウの知らないうちに大事な相手がいなくなっちまうかもしれないんだぞ」
「……」
それは、嫌だった。
「……だけど、いつか死ぬから会えるうちに会っておくなんて……慰めの色が強すぎる」
「だったら自分の中に納得できる理由を作ればいい。でも、そうやっているうちに俺が先に渡来さんのいる病院をみつけるかもしれないけどな」
杉原がオレのほうに小指を差し出してくる。
「なんだよ?」
「約束」
と、杉原は言った。
「先に渡来さんを見つけたほうが、告白すること」
「おまえはどうせ後でも先でもするんだろ?」
「よくわかってるじゃん。さすが杉原太一の友達だ」
「だったらそんな約束、する意味あるのかよ?」
「コウが踏み出すきっかけのひとつにはなるだろ」
「…………わかったよ」
オレは杉原と小指を交わして約束をした。
「なら、決まりだ」
踵を返して杉原はミュージアムを出ていく。
さっそく今からユキのことを探しにいくらしい。
「……なあ、杉原」
「なにさ?」
「ありがとう」
杉原はなにも言わずに手を振った。
漠然とだけど、杉原とはずっとこういう関係でいたいと思った。
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