消える
土曜の朝、目が覚めるとくるぶしの辺りに小さな傷があった。
いつできたのかわからないがたいした傷でもなさそうだし、靴下を履くとすっかり隠れてしまった。
私は前日にそれまで付き合っていた女性と別れたばかりで、そんなことに構っていられる心理状態ではなかった。
その日はそれでそのまま仕事に出掛けた。
家に帰ってふと見ると傷はすっかりかさぶたに覆われていた。
次の日の朝、思わず私は言葉を失った。
寝ている間に剥がれたのであろう、そのかさぶたがなくなっている。
いや、かさぶたのあった場所の肉体が無くなっているのである。
そこの部分だけが透明になり向こうが透けているのだ。
私は取り合えず靴下でその部分が隠れることを確認するとそのまま家を出た。
私はひどく動揺していた。
どこに行くでもなく私は電車に乗っていた。
空いている席を見付けると私はそこに崩れ落ちるように腰を降ろした。
こないだの彼女のことといい、この傷といいいったいどうなってるんだ。
ドアが閉まる直前に一人の若い女性が乗り込んで来て、私の目の前に座った。
電車が動き出すと彼女は鞄から雑誌を取り出し、ペラペラとページをめくりはじめた。
そしてお目当てのページを見付けたのか、彼女の動きがとまった。
私は何気なく彼女の表情を見ていたが、冷たいものが背中を流れるのを感じた。
彼女の視線は雑誌ではなく、明らかに私の足に向けられていたのである。
そして、その表情が驚きから恐怖に変わると彼女は逃げるように別の車両に移っていった。
私の靴下とズボンの裾の間からは無機質な金属の車体がはっきり見通せたのである。
私は急いで立ち上がるとドアに寄り掛かり、裾が靴にかかるように、ベルトを緩めズボンを少し下げた
---彼女から電話があったとき、私はとてもうれしくてはやる気持ちで彼女の家に出掛けた。
それなのに---
ひとつめの駅に着くと、子供を連れた家族が何組か乗ってきた。
そこで私は今日が日曜であることを思い出した。
今日は仕事はない。
それでは私はこんな状況でどこに向かっているのだろう。
しばらくすると目の前の子供がぐずりだした。
椅子に座りたいと母親のスカートを引っ張っている。
母親はすこし屈むと子供に向かって注意を始めた。
見えてはいないとわかっていながらも、低い視線に思わず緊張する。
やっと子供がおとなしくなると、母親はすいませんという表情で少し頭をさげる。
私はぎこちなく微笑をかえす。
内心はそれどころではない。
いつ見つかるかと気が気ではなかった。
今朝よりも明らかに傷が広がっている。
私はどうすればいいか分からずただ立ち尽くしていた。
カーブに差し掛かり電車が大きく揺れた。
思わずよろめいた子供が私のズボンにつかまった。
すぐに母親はすいませんと謝ると、子供を抱きかかえようとした。
その瞬間、母親はキャッと小さく悲鳴をあげた。
抱き上げた子供の手が、つかんだままの私のズボンをひざのあたりまでめくりあげていた。
私の足はひざから下がなくなっていた。
悲鳴を聞いた人たちが私達を取り囲み、ちょっとしたパニックになった。
私は急いでそこを抜け出すと、別の車両へと急いだ。
そうやって何車両かいったところで電車は停車した。
ドアが開くや否や、私はホームにおりると一目散に駅の外へ出た。
しばらく走った私は、息を整えようとビルの壁にもたれかかった。
---彼女の家につくと彼女は部屋の中からただひとこと別れましょうと言った。
理由を聞くと何も言わず彼女はドアの隙間から包帯だらけの腕を見せた---
道行く人がみんな私を見て逃げるように遠ざかるのに気付いた。
ビルのガラスに映る私は、左腕が消えかけていた。
驚いて確かめた目には、やはり私の腕は映らなかった
---彼女の友人の話しによると彼女は全身にひどいケガを負ったのだという。
それ以来、私の前に姿を見せなかった---
茫然とした私はどこへともなく走りだしていた。
気がついたときには辺りは暗くなり、私はあるマンションの一室の前にいた。
私はほとんど消えかかった手でポケットをさぐると、ひとつの鍵を取り出した。
チャイムも鳴らさず私はその鍵をドアに差し込みゆっくり左に回した。
ドアノブに手をかけると、中から来ないでという声が聞こえた。
とても悲しい声だった。
私の体はもうほとんど消えていた。
私はドアを開け中に入った。
そこには全身に包帯を巻いた彼女がいた。
私は彼女を抱き締めると、そっと包帯をほどいた。
そこに彼女の姿はなかった。
そして、私もいなくなった。
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