1 がむしゃら

少女はその現実から逃げることにした。学校に行くことは結局検討せず、高校時代にひたすら貯めていたバイト代で、旅に出ることにしたのだ。あの時のお姉さんのように。

 カバンには、いくつかの着替えと、チョークといくつかの画材道具を持ち、あのお姉さんとは色違いの青いジャケットを着ることにした。

 電車でいろんな町に行った。町の路地裏でちょうどよさそうな場所を見つけると、あの時のお姉さんのようにしゃがみ込み、地面にチョークを走らせる。描いてはこすり、描いてはこすりを繰り返し、手は粉だらけになる。それは別に不快ではなかった。描く内容はいろいろだ。その路地で見つけた猫がいれば、それを描き、特に何もなければ、昔の芸術家の描いた絵の本をもとに、それを模写した。

 あの時のお姉さんほどではないが、チョークで絵の具の感じを再現させることには、随分と慣れていた。

「うわ、すごい」

 道行く人に声をかけられるときもあった。

「芸術家の方かなにかですか?」

 細身の男性が前のめりになりそう尋ねる。

「いや、別に。ただの趣味です」

淡々とそう答える。別に誰かに注目されたくて描いていたわけではないから。しかし、多くを語らないそのミステリアスさが大衆には受けた。

「チョークでここまでできるんですねー、がんばってください」

 それでも、応援の言葉はありがたかった。がむしゃらになって描き続けられたのは、それが理由かもしれない。

 ある日のことだ。都会のほうに近づくにつれ、見物人も増えてきた。インターネットを介して、少女の存在は広まっていったらしい。お金を置いていく人もいた。趣味でやっているとはいえ、もらえるものはもらっておくのが礼儀だろうと思い、貯金箱を設置することにした。気が付けば、アルバイトをしなくても食事には困らないほどの額がたまっていたこともあった。

 好きなものが評価され、お金が入る。胸が熱くなり、にんまりと笑みがこぼれる。それは快感にも近かった。お金をもらったからには、期待に応えるため、絵の規模はさらに大きくなっていった。脚立を使い、廃屋の建物にある壁一面に描いたこともあった。

「すいません、ちょっといいですか?」

 一瞬警察の職務質問かと思い、鳥肌が立つ。不快な心臓の高鳴りを抑えながら振り向くと、そこにはスーツ姿の細身の男性で、片手には小さなメモを持っていた。

「はい、なんですか?」

 脚立に乗ったまま少女は尋ねる。

「○○雑誌の編集でございます。初めまして。今お時間は大丈夫ですか?」

「あ、はい」

 職務質問でないことを知り、胸をなでおろす。怪しい人ではなさそうだ。チョークをポケットにしまい、脚立を降りる。

「きれいな絵ですねえ、どこかで勉強なされたのですか?」

 降りてきた少女の横に立ち、手を後ろで組みながら絵を眺める男。

「いえ、別に」

「なるほど。ということは独学で」

「まあ、そうなりますかね」

「そうですか。それはすごい。あの、失礼ですがお名前は」

 少女は自分の名前をフルネームで告げる。

「ほう、いいお名前ですね。では、今日来た理由なんですけど、ちょっとあなたの記事を書かせていただきたいのです。今インターネット上で話題となっている、チョークアートをしながら全国を回る女性。その女性はなぜ絵を描いて回り、何も語らず去っていくのか」

 別に何も語らなかったわけではないのだが、生まれつき口下手なのもあり、人見知りしてしまっていたのだ。

 質問に答えるのは正直面倒だった。なぜ絵を描くのかとか、言葉じゃうまく説明できない部分なのもあるけれど、一番はあのお姉さんへの思いや恩義になっているように感じていた。だから、大体のことをお姉さんの話を盛り込んで語ることにした。けれどあまり興味を持っていなかったようで、大体は少女の話に切り替わった。

 自分のことを語る上で、お姉さんという存在は欠かすことができない要素のはずなのに、軽はずみに扱われるのがひどく不満だった。

 その雑誌の取材から始まり、その数は少しずつ増えていった。週の半分訪れてくることもあり、なかなか絵が進まない時もあった。苛立ちよりも、胸の奥から湧き上がる不快感が際立つ。近所で騒音を立てる工事現場のほうが、まだましだった。そのため、最初のうちは受けていたが、気分が乗らない時は拒否することも珍しくなくなった。

 テレビの取材も来た時があった。その時は少し気分がよかったが、その分、落ち着いて絵を描くことが、次第に難しくなっていった。

「君、うち来ない?」

 そんな時にかけられた言葉が。それだった。

「はい?」

「うちの大学。日本じゃないんだけどね。どうかな?」

 少女は一度あきらめた道を、もう一度歩む選択肢を目の前にした。その切符は魅力的だ。独学でやってきたことを、専門的な学問として学ぶ。今までその勇気はなかった。しかし、今目の前にあるチャンスを、捨てる理由はない。

「行きます」

 そう答えた。今度こそ、うまくやってやる。少女は不安を押し殺すように、強くそう自分に言い聞かせた。

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