第1話 望まぬ再会

彼女は絵を描くことが好きだった。高校時代に本格的に絵の道に進みたくて、デザイン科の高校に入ったのはいいけれど、結局現実は残酷で、上には上がいるという事実を知り、いつの間にか進路は、現実的で、需要のある医療、看護の道に進もうと考えたのだ

 けれど、看護に興味がないということはない。人のために何かできるということは素晴らしい仕事だと思う。絵の道をあきらめるのはつらかったけれど、子供の時、絵の楽しさを教えてくれたお姉さんのことは、今でも覚えている。あの人に絵の楽しさと、ぬくもりを教わったのだ。

 いつかまた会える時がくると、信じながら、彼女は本格的に自分の進路をがんばろうと思った。

 看護学校ともなれば、机に向かって勉強することに加えて当然、現場での実習がある。いろんな分野がある中、彼女が学校側に指定された実習先は、精神科だった。

 精神科の看護でも、整形外科の看護でも、患者のバイタルチェックや生活の管理などは結局同じこと。けれど、その患者との接し方は、大きく異なる。

 見えないものが見えている人。聞こえないものが聞こえている人。存在しないものに追いつめられている人。そういう人たちに、ストレスを与えないことが第一だった。

 そして初日に彼女は、実習先の精神集中治療室の見学をした。映画やテレビで見るような、鉄格子と監視カメラで完全に管理された世界。それは、もはや心の闇が蔓延している異世界のようだった。

 淡々と施設の紹介をされるなか、彼女は鉄格子を介して、患者の顔も、簡単に確認する。うずくまりながら、見覚えがあるオレンジのパーカーを身に纏った女性がいた。顔を上げると、宝石のような瞳を自分に向ける。しかし、宝石のようなといえども、その瞳に光はなかった。

 何度も見直した。時間は立っても、その風貌や持ち合わせた雰囲気は変わらない。

 信じられなかった。信じたくなかった。自分に夢を与えてくれたあのお姉さん。お姉さんは今どこで、何をしているのかは今日まで知る由もなかった。それが、自分の実習先の精神科に入院していることなんて、誰が予想できただろうか。

「おい、どうした」

 実習の責任者となる看護師に声をかけられる。体は硬直したまま動かない。 幽霊でも見たような気分だった。

「あ、あの」

 彼女の言葉を待たずに看護師は患者の解説をはじめる。

「ああ、あの人か。この辺の住宅地にある道すべてに奇声をあげながら一晩ずっと絵を描いていたらしい。警察の声掛けにも応じなくてな。保護入院って形をとった。ほとんど会話は成立しないし、しばらくはあそこだな」

「……そうですか」

 実習初日だというのに、彼女は実習をこなすという気合よりも、自分が尊敬していた女性が入院していた事実が、ただただショックだった。

「知り合いだったのか?」

「……はい、子供のころに、何回か」

 看護師は「そうか」と納得し、それ以上の追求はしなかった。それから、しばらく実習の日々が流れる中、昼休み、彼女はあることを思いついた。

病棟を移動する際に預けられたマスターキー。それは患者の病室にも使うことができた。あの人が、本当にあの人で、あの時のことや、あの日の自分を覚えているか、確かめたかったのだ。

昼休みにマスターキーを使って、看護師の目を盗み、気づかれないよう集中治療室に入る。あの時のお姉さんは今日も変わらない。床に何度も頭をぶつけ、耳が痛くなるほどの奇声をあげている。人であることを忘れているようにも見えた。

 スタッフの目を盗んで、こっそりと鍵穴にマスターキーを差し込む。病室は音を立てず、静かに開いた。

 いけないことだとはわかっていた。下手すれば実習中止で不合格となる場合もある。けれど、確かめざるを得なかった。

 本当にあの人なら、今日用意したこれを見て反応してくれるはず。彼女はお姉さんに腰を曲げたまま近づく。お姉さんは大きな瞳を彼女に向ける。ポケットから、女性がいつも描くときに使っていたあの道具を、目の前に恐る恐る差し出す。

 映画やドラマであれば、これを受け取って、正気に戻って、といった素敵な展開が待ち受けているだろう。けれど、現実も、真実も、事実も、いつも残酷で、それは大きな引っ掻き傷となって彼女に残った。

 お姉さんは、爪を立て、彼女の腕を素早く引っ掻く。その衝撃であの時の道具は無残にも散らばり、ポキンと、切なく牢屋に響く。そして床に赤い痕を残し、灰色の床に転がった。

「おい! なに入ってるんだ! 出てこい!」

 牢屋の外から男性スタッフの声が聞こえる。反応する余裕はなかった。この人は、あのお姉さんじゃないと、思いたかった。

 腕にはしびれるような痛みがまだ残っている。目の前の事実は変わらなかった。


 それから実習中止になる覚悟はしていたが、そんなことはなく、厳重注意でことは済んだ。

「まあ、お前の気持ちはわからないでもないが、二度とするな。統合失調症の急性期は、安らぎが第一だ。そのために集中治療室があるんだから」

「……はい」

 そんなことはわかっていた。

「服薬を続ければ、症状は軽減する可能性もある。だから、いつかは落ち着いた状態のあの人に会うことはできるさ。いつかは、わからないがな」

 いつかまた会える日は、今日ではない。そのことは理解した。右腕のひりひりとした痛みを確かめるように、左手で触る。

「消毒してやる。こい」

 それからしばらく、患者とコミュニケーションをとったり、バイタルをチェックしたり、記録をしたりと忙しかったが、腕の傷は治っても、あの時の痛みの感触は忘れられなかった。

 そしてある日、彼女は実習先に行くことができなくなった。その日も、行くつもりだった。車に乗って、向かっていたのだが実習先に向かう曲がり角を曲がらず、そのまま直進することにしたのだ。どこに行くかはわからない。少なくとも、実習先に行く意志は、溶けるようになくなっていた。

 何も考えたくなかった。

 携帯の電源を切り、見たこともない田舎道をひたすら車で走り続ける。開けた窓から入る風は冬の到来を思わせるほど冷たく、小さく身震いした。

 たどり着いたところは、小さな神社だった。神様を信じているわけでもない彼女は、何を祈るかなんてことは考えず、ただ、賽銭を入れ、手を合わせる。

 次の日、彼女は看護学校を辞めた。

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