追いかけて、寄り添って

ろくなみの

彼女にとってのプロローグ

将来の夢という言葉が、少女は嫌いだった。学校の授業、親戚の人、友達、誰かに尋ねられるたびに、唇を強くかんだ。

「あなたの好きなことをやればいいのよ」

 夕食の席で母にそういわれる。下手な『大きくなったらなにになりたい?』より性質が悪い言葉だ。そんなこと言われてもどうしたらいいのよ、と思い少女はそのたびに泣きそうになった。

 お花屋さん。歌手。はたまたサッカー選手を目指すクラスメイトがいる現実に、少女は嫌気がさしていた。いつも思う。みんなそんなものどうして思いつくのだろう。自分が花を売っている場面なんて想像できないし、たくさんの人の前で歌うのも、恥ずかしくて駄目だ。サッカー選手なんて問題外だ。体育の時間は端っこで特に積極的に参加しているわけじゃない。自分になれるものが、漠然としたものですら浮かぶことがない。少女にとって、学校に行って、しずかに勉強して、静かに遊んで、家で晩御飯を食べて、テレビを見て、眠ることだけがすべてであり、それより先のものなんて、思いつかなかった。

 九月。日曜日の昼下がり。青空の下、海の近くの大きな公園で小石を無造作に蹴る。白い運動靴の先には、乾いた土がこびりついていた。夢を思いつかなかった少女は、小石を蹴った先に答えを求めだしたのだ。小石の向かう先に、何でもいい。とりあえず、何かあればいい。小さく跳ねながら飛んで行ったそれは、鬱蒼と木が生い茂る公園の外れへ向いていた。そんなに怪しい場所ではないのだが、少女からすれば、光が差し込む場所から外れたその林に入るのには抵抗があった。

 夢がその先にある保証もない。けれど、小石が飛んだことに何か意味があるように感じた少女は、その先に向かった。

 林の奥に小石を蹴り続ける。ほかの子供が遊んでいる声は、進むたびに遠ざかり、辺りは薄暗くなっていく。まるで魔女のいる森に迷い込んだ気分になった。一人でいることが、なおのこと胸の奥を切なくする。

 次に、三回蹴って、何もなければ戻ろう。そう思って少女はうつむきながら小石を蹴った。

 一回。二回。三回。

 少女が顔を上げる。そこにあったのは、体育館の壇上を思い出す、コンクリートでできた広いステージだった。おそらくこの公園で何か催し物をするときに使うだろうと設計したのかもしれないが、少女はそんなことを考える暇もなく、その上にいる一人の女性に注意をひかれる。

 眩しいくらいのオレンジ色のパーカーを纏った女性が、そこにはいた。女性は前かがみになりながら、必死でステージを手のひらでこすっていた。こすっているというより、やさしく猫をなでるような慈悲深さが伝わる。少女はその人の仕草や、全体の雰囲気から奇妙な安らぎを感じた。

「どれどれ」

 女性そう呟きながら、前かがみの姿勢からなおり、立ち上がる。慌てて少女は木陰に隠れた。そのステージに女性がなにをしているのかはわからないが、彼女の時間を邪魔したくなかったのだ。女性は立ち上がった後、ステージを見下ろしている。まるでステージの上に何かを描いているようにも見えた。

 そのまま木陰で少女は、女性が座っては何かをステージ上に描き、こすり、また立ち上がるという繰り返しを、木陰から視界に入らないように見ていた。

 三十分ほど、その穏やかな時は続き、あたりの木々が橙色に染まるころ、女性は近くに置いてあったブルーシートを自分がこすっていたところの上にかけ、そのまま林の奥へと姿を消した。あたりに誰もいないことを少女はきょろきょろと確認した後、立ちっぱなしで棒のようになった足を動かし、恐る恐るステージの上を覗き見た。

 そこには、まるで図工の本に載っているような絵画が描かれていた。白いフードをかぶった女性が、赤ん坊を抱いているというものだ。しかも、驚いたのは、その素材だった。

 粉っぽい感触に、教室でいつも嗅いでいる、鼻につく臭い。それは、信じ硬いけれどチョークで描かれたものだった。

 翌日、学校が終わると少女は小走りで公園に向かう。今までのんびりとランドセルを背負い、帰宅していた少女の姿からは、あまり考えられない行動だった。体育の時間以外に、あまり走ったりしない少女は、公園にたどり着く前に、ぜえぜえと息があがってしまう。昨日見つけた林の奥のステージ。疲れはあるが、足は昨日よりいくらか軽い。怖さはもう微塵も感じてはいなかった。

 木陰に隠れながら、忍び足でステージに近づく。心臓の鼓動は早くなり、足はすくむ。ここに来るまでは軽かったのに、どうしてだろうと少女は思った。

 今日もオレンジ色のパーカーの女性はいた。背中を丸めて、小刻みに手を動かしたり、撫でたりと忙しい。砂遊びをしている幼稚園児を思い出す。

 そのまま時間は昨日の繰り返しのように流れる。日は傾き、あたりに闇が差し込むあたりで、女性はまたシートをかけ、また同じように林の奥へ帰っていった。

 絵の変化は、少しずつ起きていた。肌の色から、背景の家具の細やかさなど。まるでステージの上に一つの部屋ができあがっているようだった。

 身近にある道具でこのような非現実が作れることに、少女の心は震えた。

 次の日、少女は学校のチョークを数本、スカートのポケットに忍ばせた。緑色と茶色、青色と、あまり授業では使わない三本を選んだ。ほとんど主に使うのが、白と赤と黄色だからだ。

 公園に向かいながらポケットの中のチョークの感触を右手で転がしながら確かめる。あの人の、真似をしてみたい。そう思い始めていた。

 ステージにたどり着くと、女性はもう来ていた。来てみたはいいが、どこで描こう。手始めに、近くにあった腰かけられそうな大きさの岩に、花を描いてみることにした。何も考えずに、ポケットのチョークを取り出す。青で花の輪郭を描く。そんなものはすぐに描ける。けれどあの人のように絵画を再現するような描き方はわからなかった。女性の動きを頭に浮かべる。確かステージをこすっていた。もしかしたら、それが重要なのかもしれない。

 出来上がった花の輪郭をこする。青い花が汚く広がっただけで、とても絵画とは呼べなかった。

「きれいだね」

 背後からの言葉に少女は飛び上がるように立ち上がり、すぐさま振り向く。ガラス球のような茶色い瞳に、オレンジのパーカー。ここ三日間観察していた女性が、今、目の前にいた。

「難しいよね、チョークって」

 女性はそう語りかけながら体を曲げて、少女の目線に顔を合わせた。近くで見ると、モデルのように整った顔をしている。そのまっすぐな瞳は、太陽のようで少しまぶしかった。

「あの、か、勝手にみっちゃって、ご、ごめんなさい」

 少女は慌てて、たどたどしく女性に頭を下げる。女性はそんなことかと言わんばかりに微笑んだ。

「ううん。見てくれてうれしいよ。絵、好きなの?」

 別に特別好きというわけじゃなかったが、不得意というわけでもない。どちらかというと好きだった。

「は、はい」

「そっかー、楽しいよね」

 そういうと女性は「またね」と言って自分の絵の作業に戻っていく。少女は、彼女の笑みで自分のこの場所での所在を許されたような気分になった。そこから少女は、来るたびに女性と話す機会を持つようになった。

「チョークってね、不思議なんだ。なんか、絵の具とかじゃできないことができて」

 女性が作業しながら語りかける。

「お姉さんの絵、なんかふわふわしててきれい」

 作業の手を止め、女性の絵を少女はちらりと覗き見た。

「色を伸ばしたり、重ねたりしてね」

「お姉さんは画家になるの?」

「ううん。どうだろ。なりたいのは別のお仕事かな。あんまり知っている人は多くないけど。でも、ずっと描いていたい、とは思うな」

 誰かに見せたいとか、絵を売ってお金にしたいとか、そういった目標ではなかった。女性は、やりたいことをやっていただけだったのだ。それが少女にとっては憧れだった。

「あなたは、画家になりたいの?」

「……わかんない。けど、これは楽しい」

 そして夢がないという少女の空白を、今はチョークの絵にすることで、満たされていた。

 日に日に、少女の絵も、女性の絵も大きくなっていく。しかし、ある日の夜のこと。家でテレビを母とみているとき、サアアっと雨音が窓の外から聞こえてきた。最初は気にもとどめなかった。しかし、時間がたつにつれ、ふと今日の絵の出来を思い出す。今日はお姉さんの作品もだいぶ進んでいた。もうあと数回くらいで完成するらしい。少女も、自分の絵の完成図を空想していると、ぞわりと悪寒が走った。今、雨が降っている。ということは、チョークの絵なんてひとたまりもない。消えてしまうじゃないか。女性がブルーシートを毎日かけていた理由は、それだったのだ。どうして気が付かなかったのだろう。天気予報をきちんと見ていなかったことを、少女は悔やんだ。

 全身の鳥肌が立つほどの焦りをおぼえた少女は、母親に一言かける暇もなく、傘も持たずに飛び出した。靴のかかとをなおすことも億劫で、それを直すことなく公園を目指す。水たまりを踏むたびに水しぶきが上がり、ぴちゃぴちゃと水のはねる音が、より一層に焦燥感を助長した。転びそうになっては体制をなんとか立て直し、足を動かす。

 街灯に照らされた夜道を抜け、いつもの公園にたどり着く。急がなければいけないことはわかっているけれど、少女の体力にも限界はあった。息は切れ、膝に手をつき体を休めた。早くいかなければ。鉄のような味が口に広がりながら、なんとか足を動かす。明かりのない林の奥は、夜の底を思わせるほどの完全なる闇だった。その闇を目の前にして、少女は小さく震える。しかし、道はわかる。このまままっすぐ進めば、たどり着くことはわかっていた。だから、進んだ。ここまで完成に近づいた作品を、無駄にしたくなかった。しかし、少女は気づく。

 雨を防げるシートがなければ、来ても何の意味もないことを。進んでいる途中でその事実が浮かんだことによって、少女の足取りは再び重くなった。体に打ち付ける大粒の雨が、少女の心を蝕んでいく。だが、ここまで来たのだ。行かなくちゃいけない。

 ステージに近づくにつれ、一つだけある街灯の明かりが見え、辺りの視界は開けた。少女はステージの前に、自分の作品を描いていた岩のところに向かった。そこには、雨が激しく打ち付けながら輝きを放つ、青いブルーシートがかけられていた。

 その事実に少女は胸をなでおろす。よかった。お姉さんがかけてくれていたのか。安心したが、次の瞬間、少女の顔はみるみる青ざめていった。

 ステージの上のお姉さんの絵があるところには、いつものブルーシートがかかっていなかったのである。すべてを理解した少女は膝をつき、泣く暇もなく、雨が少女の絵にかかったブルーシートにしたたり落ちる様子を呆然と見ることしかできなかった。


その夜少女は、ずぶ濡れのまま帰宅した。時刻は十時が来ようとしていた。そんな時間に一人で出たことは初めてだった。

「なにしてたの! こんな時間まで! そんなずぶ濡れになってもう、風邪ひいたらどうするの!」

 などと母親の小言を聞き終わった後、熱い風呂に入った。そのままベッドに入るも、お姉さんが自分の絵を犠牲にしてまでブルーシートを少女の絵にかけた事実が、脳内で駆け巡る。そのことを何度も考える間に、次第に目頭が熱くなり、枕は濡れた。

 なかなか寝付けないまま日付は変わる。雨が降っていたのは夜だけだったようで、空は雲一つない晴天だった。いつもなら気持ちのいい朝だと思うのだろうけど、むしろ今日はそのさわやかさにうんざりした。

 今日、公園に行ってみようか。お姉さんになんて言おう。そんなことを悩んでいると、いつのまにか授業は終わっていた。時間の経過というのは残酷で、いくら自分が悩んでいようと、過ぎてしまうものは過ぎてしまう。いつもの放課後も、変わりなくやってくるのだ。どの人にも、平等に。

 時が来てもこのまま家に帰れば、自分は一生もやもやしたままになることを、少女は危惧した。逃げることはしたくなかった。公園に行く足取りは重い。どうせなら雨でも降ってくれれば、明日にしようという気持ちにもなったかもしれないが。残酷にも天気は快晴のままだった。

 ランドセルも靴も、身に付けるのが気怠い。お姉さんに、なんて謝ろう。自分が絵なんて描き始めなければ、いつも通りお姉さんは自分の絵にシートをかけて、自分の絵を守っていただろうに。

 今更後悔してもしょうがないのはわかっているが、それでも湧いてくるのが後悔というもの。小学校も折り返しにすら入っていない少女にとっては、それを止められるほどの年齢には達していなかった。

 いつもの場所には、今日も変わらず彼女は来ていた。しかし、ぼんやりと空を眺め、手にチョークは持っていない。ステージに腰かけ、両足を子供のようにぶらぶらと振っていた。

「あ、やっほー」

 気楽にそう手を挙げる女性。その明るさが少女の胸を締め付けた。

「あの、お姉さんの絵」

 言葉を言い終わる前に、女性は口を開いた。

「あー、いいのいいの。あれでもう完成みたいなもんだったし」

 あっけらかんと女性は言う。よく見ると近くに、修学旅行に行くようなピンク色のカバンが置いてある。なんとなく嫌な予感がした。

「どこかに、行っちゃうんですか?」

「うん。今度は別の町で、別の絵を描きに行くことにしたんだよね。旅の途中みたいなもんだし」

 この現代でそんな夢のようなセリフを言ってはいたが、違和感がないのはその女性の持ち合わせている才能かもしれない。

 女性の回答に、疑問は感じなかった。一つの場所にとどまっているようなひとではなかったから。

 けれど、女性といるだけで、将来の夢を持っていない自分への劣等感は、いくらかましになっていた。

 いつかどこかに行っちゃうような人だったけれど、どこにも行かないでほしかった。

「……が、んばって、くだ」

 そこまで言うと少女は玉のような涙をぽろぽろと零した。口に入ってしょっぱくなり、そのまま頬を伝って、地面を濡らす。袖で拭っても、拭っても、涙の量は変わらない。袖が洗濯したみたいに、びしょびしょになるだけだった。

「ごめんね、またいつか会えるよ。その時はまたよろしくね」

 女性は申し訳なさそうにステージから降り、少女の頭をやさしくなでる。その感触が暖かくて、少女はより一層泣いた。

 その日から、女性が公園に現れることはなかった。

 そして、少女にはその日から、毎日ノートに絵を描く習慣がついた。

 将来の夢、なんて大層なものではないけれど、ただ、将来の夢は? と聞かれることは、そこまで嫌ではなくなった。

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