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「本当、ミホって勉強好きだよねー」


 向かいの席に座っている女の子が英単語帳を見ている私を見て話しかける。


 この子は黄瀬友里恵。私の数少ない友人の一人だ。彼女によれば私はどうも近寄りがたい雰囲気を醸し出しているらしく、実際彼女から目つきが悪いと直接言われたこともある。余計なお世話だと思ったが、高校に入ってから一年以上経って、クラスが変わってもそれほど友達が増えなかったことを考えると案外的確な意見だったということなのだろう。


 そんな彼女は私とは違って普通に見ず知らずの他人に話しかけるし、逆に話しかけられやすい雰囲気を出しているらしく、休み時間になれば常に誰かが彼女の席の近くにいる。私もその内の一人だ。彼女との付き合いの始まりは一年の頃からで偶然席が近くて向こうが話しかけてきてから。特にクラブ活動しているわけではない私の高校生活がそれほど退屈に感じていないのは、主に彼女のおかげだ。そしてあの岸花栄子と同じバスケ部でもある。


 私たち二人は時々こうして放課後、駅近のマックで時間を潰していた。この時間が、私が女子高生らしいことをしていると自覚できる唯一の時間だった。


「逆になんでユリは勉強しないの?」

「だって勉強したくないんだもん。学校はクラブしに来てる感じだしー」


 ちなみにうちの学校は一応進学校である。公立高校だから推薦入試もないので、目の前のバスケ少女も一応中学までは好成績を取っていたことになるはず。しかし、今は成績は常に低空飛行、提出物も自分一人では出来ず、ほとんどいつも一足先に終わらせた私の物を丸写しして提出している。テストの点は赤点かスレスレで一年の三学期には進級できないかもと絶望していた。


「正直、なんで勉強なんてしてんのかわかんないんだよねー。だって、今やってるサインとかコサインとか、どこで使うんだよって思っちゃってさ。なんか身が入んないっていうか」


 勉強をサボる人間の常套句を口走る友里恵を見て私はため息を吐く。


「それでいつも私のこと頼られても困るんだけどね。この前の提出物もユリが写すの遅れて私まで遅れそうになったんだから」

「そ、それはマック奢って許してって言ったじゃん」

「別にマック奢ってくれれば毎回許すって言ったわけじゃないからね」

「ええ、お願いしますよ神様仏様ミホノ様ー」


 机に突っ伏したまま合掌して私にお祈りする友里恵。とても神様や仏様に対する態度ではない。私は神様でも仏様でもないが。


「てかなんでそんなに勉強すんの? 今も遊んでるのに単語帳開いてるし」


 確かに友里恵の指摘通り、英単語帳を開いている私の行動は場違いで空気が読めていないかもしれない。一対一で向かい合って座っているこの状況で勉強していると、相手と話す気が全くないと思われてもおかしくない。こういう状況であれば相手は怒って帰るかもしれないが、友里恵はそういうことはあまり気にしない性分で、また私と友里恵が気心知れた仲だからこうやって今も会話を続けていられる。友里恵のこのいい意味で大雑把なところは、人付き合いが特別得意ではない、むしろ苦手な方であるわたしにとってはかなりありがたかった。


「いい点取りたいから」

「うわ、なんか身も蓋もない言い方」

「普通それ以外に理由ある?」

「いや、なんかやりたいことあって、そのために勉強してるとかってのはないわけ? いい大学行って、大企業入って、とかさあ」

「そういうの考えたことないかも」

「ええ……」


 信じられないという目で私を見る友里恵。その目は少し呆れ気味にも見える。


 今まで、自分は将来何かがしたいと思ったことは一度もない。


 テレビも見ないし、ネットも少し情報収集をする程度。本も読書感想文を書かなければいけなかった時以外に読んだ覚えはほとんどないし、ゲームや映画などの娯楽はもってのほか。唯一の例外として音楽は勉強をする時によく聴くのだが、聴くのは大抵ジャズなどのインスト物ばかりで周りと全く趣味が合わない。それにそういうのを聴くとはいっても、じゃあジャズ奏者になりたいのかといえばそうではなく、聴くだけで十分と思ってしまう。


 そんな私の日々の生活で一番優先順位が高いものが勉強だった。


 私は人付き合いは苦手だが、人の話を何も考えず黙って聞くことはむしろ得意だった。小学生の時も周りが昨日のテレビに出ていた誰々が面白かったなどと話をしている中で私一人だけ黙ってノートを取っていたこともある。


 そうしてクラスでトップの点数を取った時、必ず誰かが褒めてくれた。それが嬉しかった。


 私が勉強ばかりしているのはきっとそれがきっかけだ。褒められるのが嬉しかった。ちょろいと思われるかもしれない。自分でもそう思う。今はもうトップクラスの点を取っても、それが当たり前だと思われているみたいで、親も誰も褒めてくれない。そんな今でも私は自分が満足したいからという理由で勉強を続けている。


 勉強はきちんとやった分が自分に返ってくる物、だと思っている。スポーツや芸術では努力をしても報われない人は多い。プロで活躍している一流の人は特別な才能を持っているのであり、自分以下の才能の人間を蹴散らして今の地位にいると言ってもいい。


 でも勉強は違う。努力をしても報われないかもしれないスポーツや芸術と違い、自分の努力が明文化されやすい。つまり努力をすれば点数が上がり、サボればその分点数は下がる。目の前のバスケ少女を見ればそれが明らかだ。


「私はいい点取れればそれで満足」

「なんかストイックだなー。栄子は全然違うのに」

「なんでそこで岸花さんが出てくるのよ」

「いやだって栄子ってバスケ部でレギュラー取って、それで成績もトップじゃん? 持ってる奴は違うんだなあって思うのよ」


 友里恵の言葉に内心イライラする。確かに岸花栄子はすごい。それは私も認めるところだ。バスケ部のレギュラーでクラス委員を務め、その流れで文化祭の実行委員にも選ばれている。だからといって友達付き合いも蔑ろにせず、クラスの中で流れてくる話では休日平日問わず、友達が遊ぼうと誘ってくればなんとか時間を作っていつでも付き合ってくれるらしい。クラス内では冗談交じりに『岸花栄子複数人説』が出るほどだ。そして彼女の『超人さ』は勉強においてもぬかりない。やはり思い返しているだけでも『天は二物を与えず』ということわざは嘘だと思わされる。


 だからこそだ。私が彼女を見返したくなるのは。


「なんか、そういうのが気に食わないっていうか……」


 そんなことを思っているとつい口から漏れてしまった。そしてそれを友里恵は聞き逃さない。


「ん? どういうこと?」

「え、いや、ええっと……」


 一度言ってしまったことで引っ込みがつかなくなってしまい、私は仕方なく思ったことを包み隠さず言おうと決める。


「なんか、そうやって岸花さんのことを天才で、誰も敵いっこないみたいな言い方してるのが納得いかないっていうか……」


 私はいつも本気で勉強してきた。そしてずっと一番になってきた。そんな私がいろいろなことを掛け持ちしながら、片手間に勉強してるような人間に負けているという事実に納得できなかった。努力が必ず返ってくるのが勉強なら、私が一番でもおかしくないはずだ。なのに、私は岸花栄子に一度として勝てたことはない。


 でも、それがどうした。それは今だけを見た結果に過ぎない。

 私はまだ折れていない。私は一番だ。必ず私はそれを証明する。


 結局私の言葉はつながらず私は黙り込んでしまった。ただ友里恵はなんとなく私の

言わんとしていることは察しているようだった。友里恵は大雑把ではあるが、人の機敏には人一番敏感だった。こういうところが他人から好かれる要因なのだろうか。自分勝手だが、自分には到底真似できないことだ。私には私のことだけで精一杯だ。他人のことを見ている余裕なんてない。


「なんかさ……」


 私の代わりに友里恵が口を開く。


「ミホって肩に力入り過ぎって感じする」


 思わず「へっ?」と言ってしまった。この話を深掘りしていけば空気が悪くなるのが当たり前だ。普通は別の話題に切り替えて今の話はなかったことにしようとするところだろう。あまりこの手の会話をしたことがない私でもそれはわかるし、人付き合いの得意な友里恵ならもっとわかっているはずだ。


 なのに、友里恵は真正面から私に意見してきた。


「自分しか見えてないっていうか、周りが見えてないっていうか、なんか上手く言えないんだけど……」


 遠慮のない言葉だ。正直むっとする。でもきちんと聞いておいたほうがいいような気がする。そんな自制心が働いて、私は反論の言葉を紡げない。


「あたしは別に誰かと競ったり、争ったりするじゃなくて、自分のやりたいこと、自分の好きなことをやりたいだけやれればそれで満足かなって思う」


 でもこの言葉には納得がいかなかった。

 それはつまり、負けを認めていることじゃないか。


 確かに自分のやりたいことをやれればそれで幸せという人もいる。よくクリエイターが口にすることだ。好きなことを好きなだけしていれば今の地位に至ったと。


 でもその影で淘汰された人間がいる。理由は簡単だ。淘汰される程度の力しかないからだ。


 友里恵の言葉はただの逃げでしかない。


 どんな道でも戦わなければならない。そして私は今、岸花栄子に戦いを挑んでいる。


 私は淘汰される側の人間にはなりたくない。


「まあこんな湿っぽい話はここで終わりにしよ。ちょっとゲーセン寄って帰ろうよ」


 私の気持ちを知ってか知らずか、この話題を切り上げてテーブルの上を片付け始める友里恵。私も立ち上がってさっさとトレイの上に乗ったハンバーガーの包み紙などを屑箱の中に押し込み、友里恵についてマックを出ていく。

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