十、龍侍司、いにしへの術を知りて、その使ひ手をあなぐらむとしけること

十の一

「花祝。話をする間、そなたに触れていてもよいか?」


 常ならば断りもなく花祝に触れまくる陛下が、この時に限っては遠慮がちにお尋ねになる。


 許可を求められるとかえって気恥しくなるが、常に凛然としておられる陛下が藍鉄の瞳を悲しげに揺らめかせているのを見ると、首を横に振ることなどできない。


 花祝がおずおずと陛下のお膝に手を置くと、陛下はご自身のすべらかな御手を重ねてお話を始めた。


「そなたは俺が彩辻宮を快く思わぬことで邪気を呼び寄せるのではないかと思ったのだろう。だが、そなたも見たとおり、宮はとても純粋な人間だ。龍や妖術といった人智を超えた存在にひたすら心惹かれるような、まだいとけない少年なのだ。そんな弟であるから、国政にもう少し関心を持ってほしいと思うこそすれ、俺の方で敵意を抱くようなことはない」


 彩辻宮の母である大后おおきさきは、さきの左大臣の娘であり、現左大臣豊原元頼とよはらもとよりの妹である。

 実家の権力の高さから、先帝の正室、つまり中宮ちゅうぐうとなったが、久しく子を生すことがなかった。

 そうこうしているうちに、三代前に左大臣の座を豊原家に明け渡した三条家の姫、紅藤女御べにふじのにょうごが皇子を生んだ。

 女としての嫉妬や焦り、そして次の御世にも帝の外戚として絶大な権力を握らんと画策する実家の圧から、大后は紅藤女御と生まれた皇子を様々な手をつかって追い落とそうとした。

 しかし、三年経っても大后や他の女御更衣からは皇子が生まれず、先帝は紅藤女御の生んだ皇子を春宮とうぐうすなわち次の帝に決めたのだ。その御方が彗舜帝となる。


 彗舜帝が春宮に立てられた二年後、大后にようやく待望の皇子が生まれた。

 しかし、桜津国のきまりとして、いくら中宮の生んだ皇子であっても、先に生まれた皇子が春宮に立てられている時は、その座を奪い取ることはできない。

 しかし、春宮が逝去すればその座は必然的に回ってくる。

 権力欲の強い左大臣からの後押しもあり、大后からの彗舜帝母子への攻撃はますます陰湿かつ過激になっていった。

 しかし、鬼女のごとき大后もようやく生まれた一人息子のことは溺愛していたようで、我が子にはそうした帝位継承争いの醜さを見せることはしなかった。

 彩辻宮あやつじのみやの名を賜った皇子は、優秀な乳母、多くの侍女にかしずかれたおかげで純真さを失うことなく、素直で優しい性格に育った。

 ただ、宮が成長してもまつりごとに興味を示さず、龍や妖術の研究に没頭するようになったことは、周囲の大人たちにとって想定外であったけれど。


「俺は世継ぎをもうけるつもりがなかったから、ゆくゆくは弟に後を任せられればと思っていた。左大臣や大后への恨みはあれど、俺が宮本人に負の感情を抱くことはなかった。ただし、弟に譲位するとしてもあやつはまだ幼く純真すぎる。あやつが成長し、左大臣の言いなりになることなく己自身で政の局面を判断できるようになるまで待つつもりだったのだ」


 そのお言葉を聞きながら、花祝は出会ったばかりの頃の陛下のお言葉を思い出した。


“俺の身などどうなろうが構わん”


 あれは帝位を弟宮にお譲りになるおつもりがあったからであった、と。


(でも……いにしえからの国の決まりごととして、嫡子の春宮がいらっしゃらない帝は、逝去なさらねば他の親族に帝位をお譲りすることはできないはず。譲位をお考えだとすれば、陛下は御身をどうなさるおつもりなのかしら)


 花祝の心がにわかにざわつき出すが、陛下はなおも滔々とうとうとお話を続けなさる。


「……しかし、この春に宮が加冠かかんの儀をもって成人し、独立して居を構えて以降、あやつの俺に対する態度が少し変わってきたような気がしていた。敵意の欠片も見せていなかった弟が、よもや邪気を呼び寄せるほどの憎悪をこの俺に抱いていたとは……」


 そう仰った陛下が、お膝の上で重ねられた手に視線を落とす。

 陛下の御心の痛みが自分の胸にも伝わってきて、花祝のまなじりが熱く滲んだ。


「私が見た限りでも、宮様は腹違いのお兄様である陛下を尊敬し、慕ってらっしゃるご様子でした。宮様が呼び寄せたのは、赤白橡あかしろつるばみの邪気と、青橡あおつるばみの邪気。陛下とお話をされている中で、宮様に落胆や怒りの感情が湧いてこられたのだと思います」


 陛下にそう伝えつつ、花祝は先ほどの陛下と宮様のやり取りを思い返す。


 龍侍司である花祝が近侍していることに興味を示された彩辻宮に、陛下は花祝がご自分の恋人であると嘘を伝えた。

 それを聞いた宮が、兄帝に後宮を設ける気になったのかとお尋ねになった時点では、邪気はまだ現れてはいなかった。


 邪気が現れたのはその後。

 陛下が “後宮をつくる気はない、宮が帝位を継いで左大臣の姫を娶ればよい” と返答した際のことだ。


“ 兄上は、何もわかっておられない……っ”


 そう仰って唇を噛み締めた彩辻宮の表情がありありと思い出され、花祝は独り言のように呟いた。


「宮様は……陛下がお世継ぎをもうけるおつもりがないことに失望してらっしゃるのかも」


「うん? そうなのか? ……そう言えば、あの月見の宴で会った時も、左大臣が姫を執拗に俺と引き合わせようとしていたのを拒んでいたら、急に宮が不機嫌になったように覚えている。あやつはそれほど俺に后妃を娶らせたいのであろうか。俺が世継ぎをもうけることで、己が後継の座から解放されるのを望んでいるのだろうか」


「宮様のご本心はわかりません。けれど、少なくとも陛下を憎んでいらっしゃるということではないような気がします」


「そうか……。敵ばかりの環境に慣れているとは言え、純朴な弟にまで憎まれたとなれば、さすがの俺でも心が痛む。花祝に話を聞いてもらえて本当によかった」


 重なる指先をきゅ、と握りしめた陛下が微笑まれる。

 とくん、と心臓が跳ねるけれど、花祝の心はまだ重しが下げられているように息苦しい。


「でも、私が今日陛下のお傍に侍らねば……。龍侍司の同席を知られ、私が陛下の恋人だなんて嘘を吐かねば、後宮の話題が出ることもなく、宮様が邪気を呼び寄せることもなかったんじゃないでしょうか」


 握られた指先を引き抜くことも握り返すこともできずに花祝が俯くと、陛下はその手をお取りになり、ご自分の唇にそっとあてられた。


「花祝に傍にいてもらわねば、俺が困る。後宮をもつつもりはないという俺の意向ははっきりと伝えておきたいし、宮を通じて左大臣にも改めて知らしめることになるからな。それに、俺は宮の前で嘘を吐いたつもりはない」


「え……っ?」


「“恋人" というのは嘘ではなかろう。そなたは俺の “恋ふる人” であるからな」


「…………っ」


 そのお言葉を聞いた途端、花祝の指先の敏感さが増し、触れられた唇のやわらかな感触が背筋を撫で上げるように伝わってきた。

 ぞくり、と何かに突き上げられるが、体は冷えるどころかみるみる火照っていく。


「富と権力を得るために差し出される姫をめとるつもりはない。華やかな暮らしの裏で女達が争い傷つけあう後宮など、つくる気にもならぬ。だが、こんな俺でも心を寄せ合える “家族” は欲しい。純粋な愛情で結び合える伴侶は欲しい。これは俺のわがままであろうか」


「あ、あの、お気持ちはわかりますが、陛下のお立場的には難しいような気も────」


「花祝に出会い、そなたの人柄に触れるまで、俺がかように強く望むものなど何一つなかった。なればこそ、俺のこのわがままを叶えてくれるのは花祝をおいて他におらぬ。そう思うのは、俺の夢想に過ぎぬのであろうか」


 指先への口づけをなおも続けつつ、陛下の藍鉄の瞳は熱を孕んで花祝を捉えていく。

 その熱に侵された体が痺れ、思考を止められた花祝は、やっとの思いで声を絞り出した。




「陛下は…………ずるい、です…………」

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