九の八
(
宙を漂う汚泥のごときひとかたまりの邪気。
虚無や落胆、失望など、人の
青橡の邪気は、怒りや嫉妬などの強い負の感情が呼び寄せるもので、憑かれればやはり心身の病を引き起こす上に、自他を害する攻撃性が増すこともある。
どちらも常日頃は空気に薄まり漂うも、ひとたび人の心の乱れを察知するとかたまりとなって現れる厄介な邪気である。
(そうだわ……! 今こそ龍の通力を高めて、陛下をお守りせねば!)
胸の高鳴りは、通力の高まりを表すもの。
己が導き出した仮説を立証せんと、花祝は
「!? 花祝?」
想定外の花祝の動きに、さしもの陛下も驚かれる。
(
(邪気だと? 俺はそこまで心を乱した覚えはないが……)
声を潜めて花祝と言葉を交わした陛下が、戸惑いを見せつつも花祝の背をゆったりと抱きしめなさった。
陛下と密着したことで、花祝の中にいつもの逃れたい衝動が沸き起こるが、それと同時に鼓動が強く速くなるのを感じる。
(これでいい……。これできっと龍の通力も高まっているはず)
「それにしても、今日は随分と積極的だな。花祝は人に見られると燃えるのか?」
花祝の意図を勘違いなされた陛下が、嬉しげに御声を弾ませる。
花祝はそれに構うことなく首だけひねり、
御簾の向こうで、はあっと大きく息を吐いた彩辻宮が立ち上がりなさった。
「……わざわざ御簾越しに見せつけずとも、兄上のご意向はよくわかりました。私はお邪魔のようですので、本日はこれにて失礼いたします」
形ばかりの立礼をなさり、昼御座を出て行こうとなさる彩辻宮。
すると、昼御座の宙を漂っていた邪気が、宮の後を追うように動き出したのである。
「あ……っ! 宮様っ!」
声を発するより早く、花祝は帝の膝の内から立ち上がり、転がるようにして御帳台の外へ出る。
「お待ちくださいっ! 宮様に邪気が!」
「えっ?」
突然御簾の内より転がり出てきたあられもない姿の花祝に、彩辻宮が怯んだその隙に。
赤白橡と青橡の邪気が宮に覆いかぶさろうと、その面積をぶわりと広げた。
「失礼っ!」
花祝はそれだけ言うと彩辻宮を突き飛ばし、懐から破邪の刀を抜く。
「うわっ!?」
床に倒れ込んだ彩辻宮を庇うように立ち、頭上に迫る邪気を懐刀で切り裂く。
すかさず、
「清らなる龍よ、我が
そう唱えると、淡く輝いていた龍袿の光が強まり、花祝の頭上に小さき龍の形をなす。
破邪の刀が邪気を裂くのと、
色の龍気が飛び掛るのとは、ほぼ同時。
切り裂かれて散り散りになった邪気を、口を開けた龍気が身を踊らせて喰らっていく。
そうして邪気を浄滅し終えると、花祝はふうっと息を吐いて握りしめていた破邪の刀を鞘に収めた。
「宮様、咄嗟の出来事につき、大変ご無礼をいたしました。御身にお怪我はございませんか?」
四つん這いの状態で呆然とこちらを見上げておられた彩辻宮の傍で膝をつき、覗き込むようにして宮を窺う花祝。
「え……っ、あ……っ! 眼鏡、眼鏡っ!」
その声に弾かれるように我に返った彩辻宮は、四つん這いのまま慌てて床に落ちた眼鏡を探し出した。
「ふう……お、驚きました。真に、今、この場に邪気が?」
「はい。赤白橡と青橡の邪気が入り込み、宮様に憑かんとしておりました」
「……そうですか……私に、邪気が……」
「せっかく龍の通力を間近で見られる絶好の機会だったのに、眼鏡を落としてしまうとは一生の不覚。しかしながら、私をお守りくださった龍侍司殿には心より感謝いたします」
宮様に深々と頭を下げられて恐縮した花祝であったが、同時に己が宮の御前で貴族の女にあるまじき失態を晒していることに気づいた。
桜花京の貴族社会では、成人女性はみだりに男性と言葉を交わすことはないし、顔を見せるなどもってのほか。
なのに、花祝は思いきり顔を出した上、髪は振り乱れ、唐衣も表着も脱ぎ捨てて龍袿の五衣姿というあられもない恰好を晒している。
しかも、帝の弟君という雲の上の存在を、あろうことか突き飛ばしてしまったのだ。
「もっ、申し訳ございません! こんなはしたない姿で宮様の御前に出た上に、大変なご無礼をいたしまして────」
「いえ……。こちらこそ、女人に恥をかかせてしまい申し訳ない。では、私はこれにて失礼いたします」
彩辻宮は一礼した後に眼鏡の縁をくい、と指で押し上げ、逃げるように
花祝がその後ろ姿をぽかんと見送っていると、御簾の内から御声がかかる。
「花祝」
「あっ、陛下。急に飛び出したりして失礼いたしました。昼御座に入り込んだ邪気が宮様に────」
「つまり……俺ではなく、宮が邪気を呼び寄せたということで間違いないな?」
そう尋ねられた陛下に、花祝はすぐさま返事をいたしかねた。
人間の心の闇に巣食う邪気は、その場で最も強く負の感情を持つ者に憑こうとする。
つまり、彩辻宮の陛下への失望が赤白橡の邪気を、怒りや嫉妬が青橡の邪気を呼び寄せたということになる。
腹違いの兄と弟が対面したことで心の闇を抱えたのは、兄帝ではなく弟宮の方であったのだ。
「陛下は……ご対面で傷つくのが宮様の方であると、初めから予想されていたのですか? だから、私が同席することをお許しに────?」
「……弟のことを少し話そう。こちらに戻ってきてはくれぬか」
陛下にそうお言葉を掛けられた花祝は、御簾をたくし上げ、おずおずと御帳台の内へ戻る。
寂しげな笑みを浮かべた陛下は、手招きなさるとご自分のすぐ隣に花祝を座らせた。
(九、龍侍司、帝に侍りて彩辻宮様と対面せしこと おわり)
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