七の五
その外郭と内郭の間、
陰陽師の護符が貼られるその建物に、普段人が立ち入ることはない。
なぜならば、そこは内裏に近づく邪気や物の怪などの “
そんな薬叉殿に、松明を掲げた一台の
車から先に降りたのは、龍染司である楓であった。
板戸に貼られた護符を引き剥がして戸を開けると、御者を指示して庇の下に牛車をつけさせた。
中から出てきた花祝の手を取り、薬叉殿の中に引き入れる。
二人が薬叉殿の中へ入ったのを見届けると、牛車と御者は逃げるようにその場を立ち去った。
❁.*・゚
「ちょっと待っててね。今明かりを灯すから」
暗闇で松明を掲げた楓が、繋いでいた花祝の手を離す。
南北三間、東西二間の小さな建物だが、いつ “禍もの” が現れてもおかしくないと思うと、龍袿を纏う花祝の背が自然と強張る。
四隅に設けられた燭台に火が灯ると、真綿の詰まる
「本当に何もない部屋ね……」
「本来は “禍もの” を封じ込めるためだけの建物だからね。陰陽寮の方で畳や脇息を
通常は、内裏に近づいた “禍もの” を建物の中へおびき寄せる呪符、侵入した “禍もの” を閉じ込めるための呪符の二枚が貼られている。
今宵ここを “ためし着” の場とするため、昼間のうちに陰陽師によって建物内の “禍もの” は祓い浄められていた。
ちなみに、楓が殿舎の戸から剥がした護符は、清めをした薬叉殿に再び “禍もの” が入り込まないようにと、二枚の呪符に代わり施されたものである。
夜が明けてその護符を再び戸に貼りつけるまでは、この殿舎内にはいつ “禍もの” が入り込んできてもおかしくないということになる。
仄かな明かりの下、静寂に包まれて楓と二人きりで過ごす夜は長い。
ぎこちなく脇息にもたれかかった花祝の正面で、胡坐をかく楓が呟いた。
「今日は凶日でもないし、“禍もの” が出ても、せいぜい邪気や小さな物の怪程度だろうね」
“禍もの” との対峙が迫る中で花祝が緊張していると見て取ったのだろうか。
気を楽にさせるための言葉だろうが、そう言った当の本人の口元が強張っている。
(私が緊張してるのは、禍もののせいではないんだけどな……)
内心はそう苦笑しながらも、己の緊張を隠して花祝を気遣う楓の心を少しでもほぐそうと、花祝はやわらかに微笑んだ。
「その程度の “禍もの” を恐れていては、とても龍侍司は務められないものね。それに、楓くんの染めた龍袿を纏っているんだから、不安に思うことは全然ないわ」
「そう。でも、万が一ということもあるからね。“
背は高くとも、細身でしなやかな体躯。太刀をどこまで扱えるのかはわからないが、頼りなげな空気を感じさせまいとする楓の表情に、花祝も「ありがとう」と頷き返す。
しばしの沈黙。
楓が手元の太刀の位置をずらし、ふうっと息を吐いて脇息にもたれかかる。
常ならば意識することもない微かな音ががらんどうの建物内に響き、花祝の鼓動を加速させる。
(やだな……。これ以上沈黙が続いたら、私の鼓動まで聞こえてしまいそう)
何か会話の糸口はないだろうかと考えをめぐらし始めた花祝に、楓が声をかけた。
「花祝ちゃん……。この機会に、今までなかなか聞けなかったことを聞いてもいいかな」
「私に聞けなかったこと……? 一体なあに?」
「あのさ……。彗舜帝のことなんだけど」
ためらいがちに口に出された陛下の御名を聞いて、薬叉殿に響き渡るほどに花祝の鼓動が大きくなる。
「へへへ、陛下のことって……?」
「実は、僕の耳にも入ってきているんだ。陛下は
話題が話題だけに、低くやわらかな楓の声はいつになく切れがない。
言い淀み、沈黙が生じるたびに、花祝の脳裏に陛下が艶やかに迫ってくる映像が再生される。
いくら仄暗いとは言え、熱を帯びた自分の顔色に気づかれはしないかと、花祝は慌てて楓の言葉を遮った。
「だっ、大丈夫よ! 確かに陛下は “そういうこと” を以前はよくお楽しみになっていらしたみたいだけれど、最近は全然そんなことないみたい。それに、私にももうあれ以上のことはなさらないはずだし……」
“心に決めた方がいる” と嘘をついた宴の夜。
楓の顔を思い浮かべた花祝を陛下は押し倒し、あわやという事態に陥った。
陛下をお守り申し上げたいのだという花祝の真摯な思いを汲んでくださり、もう無体なことはなさらないとお誓いになった。
(……まあ、その後も心臓に悪いお戯れは相変わらず続いているんだけど)
そんな言葉を飲み込んだ花祝であったが、楓の表情がみるみる強張り、脇息を押しやる勢いで前のめりの体勢になる。
「“あれ以上” ってどういうこと!? まさか、すでに花祝ちゃんは陛下に弄ばれて……っ」
「そ、そんなことないないっ! 大したことはされてないから安心して!」
「大したことは……ってことは、些細なことは何かされてるってことだよね!? あの陛下に一体どんなことをされたの!?」
「どんなこと……って」
言えない。
言えるわけがない。
唇を奪われたり、膝の内に囲われたり、抱きしめられたり。
あまつさえ、舌を入れられ押し倒されて、
顔はかっかと火照っているのに、こめかみに冷や汗が吹き出してくる。
尋常ではない花祝の様子を前に、楓ははあっと大きなため息をついて首を横に振った。
「花祝ちゃんの纏う龍袿が光っているところを見ると、通力を失うような事態には至っていないようだけど……。僕としてはやっぱりすごく心配だよ。花祝ちゃんがあの御方の傍に仕えるだなんて」
甘く整った
「心配かけてごめんなさい……。でも、陛下も私が務めを全うしたいと思っていることはご理解くださってるの。だから、楓くんに迷惑をかけるようなことは────」
「花祝ちゃんが龍侍司の務めを全うしさえすれば、僕が安心すると思ってるの?」
眉根を寄せたその下の
これまで見たこともない楓の険しい表情に、花祝の肩がびくっと跳ねた刹那。
膝を進めて畳を下りた楓が、花祝の手を取りきゅっと握った。
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