六の六
花祝に口づけようと、淡く綻ぶ
花祝は陛下の胸元を押しつつ、必死に抵抗を試みる。
「く、口づけしたからって、想いが通じ合うわけではありませんてばっ」
「しかし、そなたの好む『
「なっ、どうして陛下が絵巻の話をご存知なんですか!?」
「薔薇の宴でそなたが楽しそうに絵巻のことを話していたであろう? そなたの好む物語がいかなるものか、興味がわいて読んでみたのだ。夢物語に過ぎる部分はあるが、なかなかに面白かった」
「だからって、口づけは困りますっ」
「袿より外に出ておらば、触れてもよいという約束だ。他の女には触れぬよう俺も我慢しておるのだから、今日は観念しろ」
どんなに体に触れられて、心臓がうるさいくらいに鳴り響いても、これはあくまで守護であるといつも必死に意識を保っている。
なのに、帝とひとたび唇を重ねてしまうと、頭の中がふわふわとして何も考えられなくなり、体じゅうの力が抜けてしまうのだ。
濃厚な甘やかさに心まで絡め取られてしまうようで、あくまでも守護のために帝のお傍についているのだという意識を手放してしまいそうになる。
(ああ、またあの甘やかな感触に、頭が真っ白になってしまう────)
熱を孕むやわらかな唇に囚われ、強引な腕の中で甘やかされ、このままどうなってもいいとさえ思ってしまいそうになる。
それが怖い。
なのに、端麗なお顔が間近に迫ると、心臓は爆発しそうなほどに高鳴って、帝の御身を押しやる手の力が奪われていく。
抗いたいのか、受け入れたいのか、自分で自分がよくわからなくなる。
もう何も考えられなくて、ぎゅっと目をつぶった時だった。
「花祝っ!!」
聞き慣れた声が簀子縁の下から飛び出した。
瞬間。
花祝から体を離した帝が、外に向かって懐の扇を矢を射るがごとく投げつけた。
「うぁっ!!」
「ナギ兄っ!?」
眉間に扇が命中し、顔を押さえて蹲る凪人。
花祝が叫んだ乳兄弟の名は、花祝を庇って囲い込んだ帝の
「その装束は、
藍鉄の色の瞳を鷹の目のごとく鋭くさせ、毅然とした声色で帝が問い詰める。
人払いがなければ、清龍殿を警護する滝口の武者がすぐにでも駆け寄ってきて、問答無用で凪人の首をはねたに違いない。
そんな想像に背筋を寒くさせながら、花祝は帝の腕の中で顔を上げ、必死に奏上した。
「陛下、御無礼をどうかお許しくださいませ! この者は私の乳兄弟です。近衛舎人として参内を始めたばかりで、見廻りの最中にきっとこちらへ迷い込んでしまったのです!」
「花祝の乳兄弟だと? 人払いしたとは言え、清龍殿の周囲は滝口が警備を固めており、猫の子一匹とて通さぬはずだ。その警備をかいくぐっておいて、迷い込んだなどという言い訳ではすまされぬぞ!」
「ごちゃごちゃうるせーな! “
「ちょ、ナギ兄っ!? 謝るどころか陛下になんてことをーーーーっっ!!」
陛下の大袿の中で花祝の悲鳴が上がった。
清龍殿に忍び込んだ挙句に帝に暴言を吐くだなんて、いくら自分が取り成してもただでは済まされまい。
真っ青な顔でへなへなと脱力する花祝をなおも抱き続ける陛下でいらしたが、凪人の放った一言で、その御心は怒りよりも興味に傾いたらしい。
「木隠れ……だと? そなたはかの “坂東の木隠れ” であると申すのか?」
「ああ、だからどーしたっつーんだよ。んなことより花祝を離せよ。さっきあんなに嫌がってただろーが」
帝を相手に不遜な態度を崩さぬ凪人。
挑戦的な彼の眼差しをさらりと受け流すように、陛下は涼やかな声でお笑いになった。
「なるほど。木隠れとは、かくも鮮やかに警備を掻い潜るものなのだな。されど木隠れならば、もう少し人の声色を聞き分けた方がよいぞ。先ほどの花祝の声色は心から嫌がってはおらなかった。恋の駆け引きではよくある演出だ。嫌だ放せと口では言いつつも、その実は密かに期待して……」
「はぁ!? 恋の駆け引きだぁ!?」
「ナギ兄、それは誤解だからこれ以上突っかからないで! 陛下も何が演出ですかっ!! 陛下こそ人の声色をきちんとお聞き分けくださいっ!!」
陛下の一言に、脱力している場合ではないとばかりに花祝が抗議する。
そこではたと、妙に緊張感のない空気に気がついた。
「あの……。陛下はナギ兄をお咎めになったり、警備を呼んだりなさらないんですか?」
「うん? いきなり現れた時には俺を殺しにきた刺客と思ったが、俺も大概狙われ慣れておるからな。こやつに殺意がないことくらいはすぐにわかった」
“狙われ慣れている” などと、随分と物騒なことを涼やかなお顔で仰る陛下。
前庭に立ったままの凪人に、鷹揚にお声をかけなさる。
「坂東は
「誤解すんなよ!? 国司としてお勤めに励む旦那様が、朝廷に
「ほう、そなたは花祝のことをそれほど大切に思うておるのか」
「俺だけじゃねえ。旦那様も、奥方様も、花祝の弟の空良も、我が母である乳母も、我ら乳兄弟も、家人達も、花祝が内裏でつつがなく暮らしているか、心細い思いをしていないかと皆が心配している」
「故郷のみんなが、私のことを────」
凪人の言葉を聞き、花祝の頭に故郷の皆の顔が浮かぶ。
木隠れとして天賦の才をもち、貴重な人材である凪人を敢えて内裏に送り出したのは、家人を含む坂東藤原家の総意があったのだと、花祝は改めて思い至った。
「そうか……。花祝はそれほどまで家族や家臣に愛されておるのだな。俺としては、羨ましいことこの上ない」
「陛下……」
お生まれになった時から帝位継承を巡る争いに巻き込まれ、茨に囲われた後宮でお育ちになった陛下。
そのような境遇では、家庭の温もりに触れたことなどただの一度もなかったのであろう。
その涼やかな横顔に浮かんだ笑みがひとひらの寂寥をのせているように見えて、見上げた花祝は陛下の胸に添えていた手をぎゅっと握りしめた。
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