五の七

 彗舜帝の御身も御心も、花祝のものではない。

 花祝に触れた唇も、腕も、胸板も、本来は全て世継ぎをお産みなさる后妃となる御方のもの。


 先日それに思い至った花祝は、言い方を変えてお答え申し上げることにした。


「そう仰るのならば、陛下は后妃をお迎えになられてはいかがです? 戯れに睦ごとをお楽しみになるより、国の民にとってはよほど喜ばしいことだと思いますが」


 花祝の反撃に、帝は不機嫌そうに目を眇め、大げさにため息をお吐きになる。


「俺は后妃は取らぬ、後宮は作らぬと言ったであろう。少しでもその気を見せようものなら、左大臣は嬉嬉として自分の娘を中宮(正室)にとごり押ししてくる。それが嫌だからと他家の姫を入内させようものなら、またかつてのように貴族の内で醜い勢力争いが起こり、後宮はいばらの園と化すだろう。結局は俺が死んで彩辻宮が帝となった方が、色々と穏便に方がつくのだ」


「陛下っ! まだそんなことを仰るんですか!?」


 再び頬を叩かんばかりの花祝の剣幕に、帝は苦笑いして首をすくめられた。


「そう怒るな。こう考えるのも、脆い足場の上に成り立つ今の国政を何とかして安定させたいと願うゆえのことだ。しかし、花祝から色よい返事がもらえぬとなると困ったな」


 畏れ多きことも忘れ、帝の御前で仁王立ちしたままの花祝を、座したままの陛下がじっとご覧になる。


「ではこうしよう。俺は花祝の純潔を奪わぬ。他の女にも触れぬ。その代わり、そなたの温もりを俺にくれ」


「温もり……ですか?」


 問い返す花祝に手招きし、ご自身の御前に座らせると、帝は花祝の手を握られた。


「俺は常に誰かに見張られている。睦ごとの時だけは女が嫌がるからという理由で塗籠ぬりごめ(寝室)の外に女官を出すが、それ以外の時は常に誰かが傍に控えて俺の様子を伺っている。俺の言動の逐一がいつ誰の耳に入るかわからぬ状況で日々を暮らし、気の休まる時がない」


 花祝は手を握られたまま、苦しげに紡がれる帝のお言葉にじっと耳を傾ける。


「しかし、花祝といる時だけは違う。花祝が傍にいると、俺はかつてないほどの安らぎを感じることができる。俺に生きろと言うのなら、そなたの温もりを俺のものにさせてくれ」


「温もりを陛下のものに……って、私はどうすればいいんですか?」


「花祝が俺の守護に侍る折は、人払いをして二人きりで過ごしたい。そしてできる限り、こうしてそなたに触れていたい」


 涼やかな藍鉄の瞳が、縋るように花祝を見つめる。

 心臓がうるさく騒ぎ立てる中で、花祝は懸命に考えを巡らす。


 陛下が戯れに下女をお抱きになるのは、息の詰まる日々からほんの一時でも逃れたいという理由もおありなのだろう。


 だとすれば、花祝に陛下のお願いを拒むことなどできるわけがない。


 それに、龍袿を纏った花祝に陛下が触れることはその御身に清浄なる気を宿すことにつながり、陛下をお守りしたいという自分の願いにもかなうのではないか。


 そう結論づけた花祝は、帝を見上げてにっこりと微笑んだ。


「かしこまりました。陛下をお守り申し上げるのが龍侍司である私の務め。陛下の御心がそれで安らかになられるのならば、花祝はこれからも誠心誠意陛下のお傍にお仕えいたします」


「花祝……」


 陛下は強ばっていた顔容かんばせをふっと綻ばせると、いつものように花祝の手を引いてご自身の胸に抱き寄せた。


 花祝は一瞬身を固くして、一応陛下に念押しさせていただくことにした。


「あのっ、触れていいのは袿から出ている部分だけですよ!?」


「わかっておる」


「ちょちょちょっ! く、唇はダメですっ!」


「なぜだ? 袿の外に出ているではないか」


「と、とにかくダメなんですってば!」


「ならば、たまには良いということにしよう」


「なんで勝手にそんなこ……んんっ」


“たまには” と仰ったそばから帝に唇を塞がれた花祝がじたばたと暴れると、腕の中に囲ったまま帝は唇を離して涼やかな声でお笑いになったのだった。


 何とか夜のうちに清龍殿を辞去したものの、花祝の疲労困憊ぐあいに小雪が驚いたのは言うまでもない。


 宴の席で一体何があったのかと追及してくる小雪を躱しつつ襲芳殿へ戻ると、花祝はすぐに塗籠に入り、ぐっすりと寝てしまった。


 ❁.*・゚


 そして、翌朝。


 国全体の凶日ということで、再び清龍殿に赴く支度をしていた花祝の元に、大ぶりの立派な花器に生けられた薔薇の花が運び込まれた。


「まあっ! どうしたんでしょう!? こんなに沢山の薔薇の花!」


「昨晩の宴でご用意くださった薔薇を、陛下の “おすべり” で賜ったのよ」


「花の姿の美しさも良いですけれど、この甘く華やかな香りも素敵ですよねえ。花祝さまはご存知です? 薔薇の花の香りは、女子おなごの肌を美しく保つはたらきがあるとか……」


 芳香に引き寄せられる虫のようにふらふらと近づいた小雪が、花々の中に結えられた文を見つけた。


「まあ、何でしょう、これ」


 手渡された花祝が料紙を開くと、御歌みうたが一首書かれていた。




 花や知る 夜露に濡れし 我が袖の

  寂しき朝に 三度みたび濡れしを


“昨晩はあなたと楽しんだ花摘みで袖を濡らし、あなたの涙を拭いたことで袖を濡らしました。そして今はあなたのいない朝の寂しさを嘆いて袖を濡らしていることを、美しく咲くこの花あなたは知っているのでしょうか”




「か、花祝さまっ!? ここここれってやはり陛下からの恋文では……っ!?」


「帝はご挨拶程度でこういう歌をお贈りなさる御方なのよ」


「そんなこと仰って、お顔が真っ赤でございますよっ! やっぱり昨晩の宴でも何かあったのでは……」


「あっ、今日の守護のためにかさねの色目を選ばなくちゃ! 小雪、急いで葛籠つづらを持ってきてちょうだい」


 小雪の追及が再び始まる前に、花祝は身支度を整える振りをして、そそくさと几帳の裏へ隠れたのだった。




(五、龍侍司、先達より言加へ給ひけるを、帝に聞こえたりしが おわり)

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