第5話 赤井家へ
赤井家へ行くのはその日の夜ということになった。鍵と書類を持ってくるので、また、公園に七時に来てくれと言われた。
橋の下の長幹の段ボールハウスには、吉田が留守番をするというので、何だったらそのままあげてもいいとさえ思いながら、長幹は一人公園へ行った。
七時少し前だったが、田村は笑顔で立っていた。
「すみません。寒い時間に」
確かに、風が冷たかった。長幹は首をすくめた状態で頷いた。
赤井家は公園から五分と歩かない場所にあった。
大きな家だった。立派な門と壁のある家で、庭も広そうで、木がたくさん見えた。
「玄関は向こうですけどね、近所の目があって、もし、弁護士に良介さんが帰宅したのではないと解ったら、大変なことになるので、勝手口のほうから出入りしてください。コンビニへ行くのも、こちらのほうが近いですから」
そう言って田村は勝手口の細い木戸を開けた。
門を開けると、安い勝手口の戸があった。古い鍵のようで、
「ここの鍵もね、建て付け同様なかなかコツがいって、あぁ、開いた」
田村はようやく鍵を開けると、
「台所ですけどね」
そう言って狭い
台所は比較的きれいにしてあった。流しも片付けられていた。
「この部屋と、それから続きのこの部屋。あれ? まったく、この建付けの悪さったらありゃしない」
田村はよいしょっと少し持ち上げながらガラスの仕切り戸を開けた。
「この畳の部屋だけはきれいなんですよ。ばあさんが居たんでね。そのほかは掃除するの面倒になったんでしょうね。一応、他も見ますか?」
返事をする前に田村はきれいだと言った和室から出て行き、長い廊下を歩く。長幹もそれに付いて行く。
「あぁ、向こうが玄関です。で、この廊下をまっすぐ行くと、あぁ、この雨戸の向こうが庭なんですけど、まぁ、開けるの大変で」
「いいですよ、どうせ庭を見たってどうってことありゃしないし」
長幹の言葉に田村は少し笑った。
廊下のどん突きに二階への階段があった。
「薄暗いでしょ? 明かりがついててこれなんですけどね、新しい電球買うなんてもったいないでしょ?」
「取り壊すんなら、そりゃそうですな」
「えぇ、二階、見ますか?」
「いや、(階段は)急そうだし、二階へ行ったってどうすることもないしね」
「ですね。あぁ、この階段の下りた目の前のこの戸が、トイレ。というか便所と言いますかね、です」
いかにも古そうな戸を開けると、確かにくみ取りのぼっとん便所だった。
「へぇ、懐かしいねぇ。だが、このご時世に見れるとは思わなかったよ」
「俺は怖くて仕方ないですよ。真っ暗すぎますよ、その穴」
「いやいや、明るいと中みえちまうぜ、」
長幹の言葉に田村は少し考え苦笑いを浮かべ、「薄暗いのは、薄暗いのでいいのかもしれませんね」といった。
「さてあとは、あぁ、そうそう風呂は台所の隣です。追い炊きのやつです。説明していきましょうか?」
風呂場をのぞき、使ったことがあるやつだと返事をした。
「光熱費は本当に、」
「ええ、赤井さんが持ってくれると言ってますよ」
長幹はそれはすまないなぁ。と言いながらもほころんだ顔をしていた。
玄関を開ける音がした。確かにこの家の、ガラスの玄関の鍵を開け、戸を開け、……戸を閉める音だ。
「多分良介さんでしょう。あなたが住んでくださると言ったら、ぜひお会いしたいと言ってましたから」
長幹は自分の姿を見た。ホームレスばりばりの格好の男を雇ってくれるだろうか? 田村は仲介人なので気にしていなかったが、これだけの家を持っていて、持て余しているのならば相当な金持ちだろう。そんな人間が、ホームレスに実家の管理を任せるだろうか?
現れた男は、50代目前の少し白髪のある男だった。愛想のよさそうな男で、
「田村さんから聞いてました。住んでくださると。しかも大卒ですってね?」
と聞いた。
「えぇ、とはいっても、三流で、」
「いやいや大学を出ているだけでもすごいです。私は大学を中退した口で、一応管理職ですけど、面接官てやつしてましてね、大卒じゃないやつは無理です。とか言っている私が中退でね。どんな形であれ卒業していることがすごいです。
ところで家の中は見られましたか? 母親がリフォームすら嫌って、戦後かって家で、申し訳ないです。生きている間に売る気も、建て替える気もないから手の出しようがない。だけども、住んでいないと家が朽ちていたらこの家を相続させないときた。別にね、この家の相続権が欲しいわけじゃないんですよ、私だって結構持っているんで。
いやな話ですね。
ですけどね、ここは実家です。やっぱりね、いつかは戻ってきたいと思うんですよ。ただし、いろいろとリフォームしてね。だから、母親の面倒に付き合うしかなくて、解りますか? 解らないですよね、あんな捻くれた母親、他にはいないでしょうから」
「いやいや、まぁ。そういう人もいますよ」
「それで、気に入っていただけたのなら好きなようにしてください。どうせ母はここには戻ってこれない。捨てることはできませんが、ある程度片付けて、好きなようにしていただいて結構です。まぁ、建付けが悪くて部屋に入るだけでうんざりしますけどね」
長幹は愛想笑いをした。確かに田村が開け閉めをしているのを見れば、それを無理やり入っていこうとは思わない。生活するうえで必要な扉は、とりあえず動くのだから、ここに長居するわけでない以上他の部屋など興味はなかった。
「ここにある布団は新品です。さすがに母親の使わせるわけにはいきませんから」
そう言って押入れを開けて出てきたのは、高級色の強い羽毛布団のセットだった。
「あと、やたらと隙間風が強いんで、暖房器具も買っておきました。テレビもつきますよ」
そう言って良介がリモコンを持ち上げてテレビをつけた。
「シーマダッサンが三コーナーを回った。シーマダッサン半馬身、そのあとをガーディアンマグマとエイコウキラリが追う、」
長幹がテレビにくぎ付けとなったところを良介がテレビを消す。思わず長幹が振り返る。
「うるさいですね。まぁ、とにかくあるものは使ってください。あぁ、それと、よければですけど、いろいろと母親が買っていた缶詰とか、レトルトとかあるんで、食べてもらっても結構です。あ、ちなみに、母親がホームに入ったのは、二週間前なので、消費期限は大丈夫かと」
そう言って食品庫だと言って開けた場所には缶詰やレトルトがあった。それにありがたいことには米さえも買ったばかりで置かれていたので、
「コンビニへ行くこともないですな」
と思わず言ってしまった。
「いやいや、でもこれじゃぁ飽きるでしょう」
いや十分です。という前に、田村が「もし出かけるなら、」と先に言った。
「もし出かけるなら、夜にしてくださいね、夜ならば、良介さんが帰ってきたと思われる。昼間はできる限りいないように潜んでいてください。良介さんは昼間は仕事をしてますからね」
「そんなことまで強制してはいけないですよ」
良介は優しく言ったが、
「いえいえ、昼間に動きませんよ。私だってこんな家に住んでいるなんてホームレス仲間に知れたら、代われって言われるのは嫌だし、俺はあまり人づきあいが得意な方じゃないし、近所の人に話しかけられても面倒だしね」
「無理を言って申し訳ない」
良介はそう言って頭を下げる。
「よしてくださいよ、俺は雨風がしのげたらと思っただけで、そのうえで、飯までいただける、風呂にだって入れるとなれば、そりゃ昼間出ないことぐらいなんてことはないですよ」
長幹は体中が火照るのが解った。興奮していたのだ。家があって、食料があって、そして何よりもテレビをつければギャンブルが見れる。こんないい仕事はない。
「とりあえず、こまごまとした日用品を買っていただくために二万、渡しておきます」
良介が財布から二万を抜き出し差し出した。
「い、いや、そうですか?」
長幹は口では遠慮したもののすぐにそれを受け取る。
「それから、毎日私―田村―が日当を持ってきます。何ならそん時弁当を買ってきますよ」
「いやいや、それには、というか、毎日持ってくるんですか? なんだか信用されていないような」
長幹が嫌そうな顔をする
「いえいえ、……失礼ですが、長幹さん、通帳持ってますか?」
田村は言い難そうな顔をしながら言う。
「あ、……確かに、持ってないです」
「でしょ? それに、いくら食料があると言っても、やはり買い物はしたくなるでしょうから、通帳を作るまでは毎日持ってきます。まぁ、一週間か、二週間ですかね?」
「えぇ、1週間後にまた私が来ます。その時、通帳を作りに行ってください」
良介がそういうと、長幹は眉を顰める。なんだって頻繁に来るんだ? と言わんばかりの顔をしながら、
「1週間後ですか?」
「母親の面会に行くんで、今日は、あなたに会いに来ただけなので」
「あ、あぁ。なるほど。じゃぁ、その時、俺は良介さんの代わりに昼間出るという感じですね」
「そうです」
長幹は納得したように何度か頷き、
「すみませんね、いい話には裏がある。と思ってしまって」
「いえいえ、何にもないですよ、あ、ここの襖開けましたか? 北の道路側に面した部屋です。が、ここも、た、て、つ、け、がぁ……。あぁ、イライラする。何だって壊せないんだか」
良介は和室の北側の襖を何とか開けて見せた。真っ暗な和室には小さな窓があって、薄いレースのカーテンが引かれていて、確かに通りに面しているようだった。
「そっちの部屋にも、用はないんで、できれば閉めておいてもらえますか、あんたたちのような若い人が苦労する戸を、俺なんかがすぐに閉めれるとは思わないんでね」
長幹の言葉に、良介は再び苦労して襖を閉めた。
「結局、母さんは建付けが悪くなっていく家で、台所とこの部屋だけは使っていたんでしょうね、他の掃除もせず、建付けを直さず。そのくせ、私には家を守れとかいう。まったくわがままというか、自己中というか、自分の母親ながら腹立たしいですよ。そうでなければ、あなたに迷惑をかけなかったのに」
「いやいや、俺にしてみれば、そのおかげで家にありつけたんで」
長幹の言葉に三人は、これも縁だと笑いあった。
「できればこれから飲みにでも、と思ったんですが、」
良介の言葉に、田村が先に、
「いや、俺は明日の朝一、内覧、あぁ不動産案内ですけどね、が入ってるんですよ」
「いや、私もね、会議があって」
「いいですよ。お二人はちゃんとした仕事をしてらっしゃるんだし、」
「何を言いますか、」
良介が少し声を上げて言う。
「そうですよ。長幹さんも、この家の管理人。という立派な仕事に就かれたじゃないですか」
田村が言う。これも少し声が大きいような気がしたが、二人はそろって笑い、
「あ、でも、これはどうぞ。車でこなきゃ飲んだのだけど、お好きだといいが」
そう言って一升瓶「大吟醸 赤毛の兎」と書かれたものだった。
「あ、赤毛の兎? 聞いたことないですなぁ」
「え? 赤毛の兎ですよ? 知らないんですか? 北海道の銘酒ですよ。幻ですよ。どうしたんですか? 良介さん、この辺りでは絶対に手に入らない酒でしょ?」
「主張へ行っていたときにね、買っておいたんだ。今年最後の一本だったんだよ」
「お、お、そんな、そんなものを、」
「いえいえ、ここの管理はそれに相当しますから。あ、でも、酒が苦手だと、」
「いやいや、全然。むしろ大好きで。……そのせいでリストラされたようなもので」
長幹が頭を掻く。
「それじゃぁ」
良介は外紙を開け、贅沢にと言って湯呑にそれを注ぎ、
「我々は飲めませんけどね、どうぞ」
と長幹に差し出した。
なみなみと注がれた、トロっとした、少し黄色味のあるそれに喉が勝手に鳴る。一口口をつければ、芳醇な香りが口中に広がり、体中にその甘く豊かな匂いが駆け巡るようだった。一口目は少量を、だが、あまりのうまさに、一気に飲み干す。
「いやぁ、いい飲みっぷりだ。ささ、どうぞ」
良介が二杯目を注ぐ。
長幹は気分良くそれも飲み干す。
何度目かそのやり取りをすると、長幹は立っているのがだるくなり、
「あ、いかん、我々は帰らなきゃ」
「見送りは良いですよ」
という良介と田村に適当に手を振りながら、長幹は和室のちゃぶ台へと移っていく。
「鍵はここに置いておきますね。では、また明日」
という田村の言葉など、どうでもよかった。
ホームレスになって数年、酒を抱えて独り占めできるなどなかった。注いで、ビンが戻るときに鳴るちゃっぽんという音に酔いしれる。いい音だ。とろとろと言いながら注がれていく音もいい。
「だが、湯呑じゃ、あっという間に終わる」
そう言って長幹は立ち上がると、食器棚から大きめのどんぶりを取り出す。
とろとろとろとろ。いつまでも聞いていたい音だ。瓶を戻すときに落ちる音もいい。
「こんな贅沢して、一万円も手に入って、いいのかよ」
長幹はにやにやしながら、真新しい羽毛布団の上に寝転がった。
布団もあったかい。雨風はしのげる。ほら、遠くで風の音が聞こえる。甲高い風の音は、この家に隙間風が入るからだろう。だが、この部屋は暖かい。布団が温かい。
「なんて、贅沢な仕事だ」
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