五、濁りのある空
◆◆◆
今週も今日で終わりだ。
朝から営業先を回り、少し遅い昼食にする。
今日の昼食はカオマンガイだ。できればシンハービールも飲みたいところだが、昼から酒はよろしくないだろう。
……一応、仕事中だからな。
契約前の雪の日とは異なり、阻まれた向こう側の景色は、見慣れた都会の街が広がっている。
空を見上げても、雲の隙間から見えるのは光化学スモッグに覆われた、やや濁りのある空だ。
最近のお気に入りは、会社近くのタイ料理屋だ。パクチーの香りが苦手で、今まで敬遠して入ったことが無かった。
これからのことを考えて、新規開拓を思い付いたのと、パクチーが料理の中に含まれて無ければ良いかと気付き、会社の人にも評判を聞いて入ってみた。
結果、ホクホクとした鶏もも肉と、肉の茹で汁が染み渡るご飯に甘辛酸っぱいネギダレをかけて食べるカオマンガイが定番化している。小さなスープにパクチーが一枚入っているが、まあこれくらいならと許容範囲となりつつある。
パクチーの香りに包まれながら、頭の中を整理する。
標本契約の日から三週間が経過していた。
◆◆◆
契約直後は、涙が止まらなかった。
堰を切ったように感情が溢れ出し、痛み、悲しみ、混乱、怒り、喜び……などの感覚や気持ちが振り切れて、わけがわからなくなったのだ。
涙どころか、鼻水もヨダレも出てきて、子供がおもちゃを買ってもらえなくて駄々をこねるように大の字に転がって、しばらく泣き叫んでいた。
〈大丈夫かニャ? そうニャ、これをかけるニャ!〉
と、シャキーラがキラキラする粉を振りかける。
金色の粉を浴びていると、不思議に気分が落ち着いてきた。そして多幸感が強まっていき、だんだんハッピーになってくる。
これは……やばめのお薬か?
実家の方にある、猥雑な駅前商店街の片隅で、怪しげなキノコやダイエットの薬を売り出す外国人を思い出す。
ハイになれるヨ、ハッピーになれるヨと声かけしてくるのだ。
手を出したことはなかったが……まさにその、ハッピー成分入りの魔法の粉かもしれない。
〈効いてきたようニャ! 落ち着いたかニャ?〉
問われて、ずるずるの液体達が止まっていることに気付く。
感情の揺れは凪いでいる。
「治まったようだ。ちょっと、顔を拭きたい」
ポケットに手を入れてハンカチを出し、顔の液体を拭く。ビジネス用の薄いハンカチはたちまちぐしょぐしょになった。ティッシュも無いかと内ポケットも探る。コートもスーツもあちこちシワだらけになっていそうだ。
〈初めての契約ニャから、こういうこともあるんだニャ。マタタビが効いてなによりニャ~〉
え、マタタビって言った?
聞き捨てならないことを聞いて、猫型物体をにらむ。
元の大きさに戻り、宙にふよふよ浮かんでいる。
〈そこのペットショップから良い匂いがして、引き寄せられたニャ〜。ちょっと魔導的に物足りなニャかったから、
どうやらこのふよふよする猫型物体は、形だけでなく、本質的にも猫に近いらしい。
そういえば肉球ぷにぷにだったな。
〈落ち着いたニャら、
そう言うと、光りがすうっと消え、猫型物体もいなくなっていた。
ほどなくしてステラミラが、ガラスのびいどろ作りの手順を繰り返し、小さくなってーー巨人の大きさから、普通の人の大きさになってーー入ってきた。
『契約できたか。……消耗しているようだな。環境を整える必要がある。まずは標本名のプレートを渡してくれ』
標本名が書かれた金属プレートーーどう見てもマンションの表札だがーーを渡す。
『……問題無いようだ。あとで採集地なども記録しておこう』
そう言うと、プレートがみょんと音がして、縦横に伸びた。そのまま上に投げる。
光の軌跡を残しながら、ステラミラが入ってきたところに向かってプレートが消えて行った。
『さて、エルレウス。改めて、私は魔導士ステラミラ。君の
この
エルレウス? ああ自分のことか。
確かに感情の揺らぎが激しかった。
疲れはある。
……家??半径三キロ??
通勤は電車で一本だが、各停で四駅ある。三キロは軽く超えている。
「自分の家は範囲外にある。この区域内に用意できないのか?」
『……制約があり、区域外のものは入れられない。宿はあったはずだ。しばらくはそこで過ごしてもらおう。金銭面の心配は要らない』
そう言うと、ステラミラは光を自分の鞄に当てた。鞄、いつの間にかあったのか。
『やり取りは君が行う。私はもう少し馴染ませる必要がある。明日の昼辺り、もう一度来よう。シャキーラ、さっきの粉の説明は上で聞く。撤収する』
〈畏まりました、
そう言って、二人とも……一人と一匹か……は、上に向かって浮かび消えて行った。
残された自分は、とりあえず鞄の中を見てみる。財布、書類、筆記用具、メジャー、ビー玉。VR端末、VR用のアイウェアも入っていた。スマホ……は無いな。財布を見る。
中には見知らぬ銀のカード。光沢があり、何も書かれていない。
……VR内の仮のカードに似ている。
商業施設で買い物体験ができるように、仮のカードをVR内で発行する。まだ試験的な画面では何も書かれてなく、銀色のままだったはずだ。
まずは近くのコーヒーショップで使えるか試してみる。
店員にカードを見せると、お支払いはこちらですね、と笑顔で通常のカード払いと同じようにレジ決済を行われた。
ホットコーヒーを飲みながら、とりあえず金銭面の心配は要らない、と
次は宿だ。
幸い、付近にビジネスホテルはいくつかある。コーヒーショップの窓から目の前に見えるホテルを選び、とりあえず連泊プランで入った。
ホテルでシャワーを浴びると、夕飯も食べずにベッドでそのまま寝ていた。
翌日の昼、ステラミラ達がやってくるまで、倒れるように眠ってしまっていたのだった。
◆◆◆
起きた後、ステラミラと今後の話をした。
実験体の生活環境を整えるため、今までと同じような生活を送るということになった。
月曜から木曜は九時五時で残業無しの週四日勤務、金曜は実験協力日、土日は休息日である。
契約前は九時六時の残業有り、土日のどちらかは出勤になることもあった身としては、破格の労働条件だ。
ステラミラは、まずは標本体を増やしたいらしい。今までの
標本契約をした標本名が書かれたプレートは、標本ラベルとして、
標本契約時、仮の魂とやらを容れ物に……復元体を基にした、肉の体に入れたらしい。
そうすることにより、まるで生きているように活動できるようだ。
復元体の時には感情の揺れがほとんど見られなかったのが、仮の魂を入れたことにより戻ってきた。
……余談だが、英語と日本語が同時に聞こえるような時がある。副音声効果というか、字幕モードというか。これも、同時翻訳の魔導がかかっている効果だそうだ。それも検証したいということで、何か発見があれば記録して欲しいと言われている。
ステラミラはあまり実験環境の中に介入したくは無いそうだ。自分の魔導を制限して
ただし、シャキーラがかけた金色の粉は、実験体の精神安定として、言わばストレスの多い
……シャキーラの魔導力が影響をほとんど及ぼさない程度、というのもあるそうだが。
ハッピー成分の入ったマタタビの粉が、 この空間中に溢れている。
◆◆◆
そろそろ昼休憩も終わりにしよう。
二日後、あるビルで火災がある。
逃げ遅れた人の中に、ステラミラと親和性の高い標本候補者がいるらしい。どうすれば契約できるだろうか、明日金曜日に話し合う予定だ。
パクチーの香り、コーヒーの香り。
強い香りのある空間にいると、金色の粉の効き目が和らぐのがわかる。
よく行くチェーン店のコーヒーショップがあったのは幸いだった。ある日のコーヒー休憩中に気付いたのだ。
この街のどこもかしこも、会社の人達も、記録されたデータを再現されているだけに過ぎない。
会話や動作など、ゲームの中の世界にいるかのようで違和感だらけだが、金色の粉の下では、おかしさを無視できてしまえて、当たり前の毎日として過ごせてしまう。
効き目が薄らいだ分、正気で過ごせばそれだけ感情が騒ぐ。
しかし、それでも正気でいたい。
エルレウスではなく、自分が自分のままでいることだけが、状況を見つめ、考える手段になる。
標本体になるための、二度目の死から蘇る条件を推測する。
少しでも自分の標本体としての価値を上げるため。
千夜一夜のシェヘラザードよろしく、明日ステラミラに語る内容をまとめよう。
と、次のコーヒー休憩中にやることを決めて、パクチー香る店から多幸感溢れる外に出た。
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