第2話

 人生で初めての告白を受けた次の日。まだ夜が明けて間もない時間に目を覚ました。

 夕食も摂らずに眠ってしまった。お風呂にも入っていない。年頃の女としては、あるまじき失態だ。昨日の部活がミーティングだけで終わっていたことだけが救いだった。

 部屋の扉を開けると、そう広くはない家全体がシンと静まり返っていた。今すぐお風呂に入りたい。そろりそろりとつま先を少し冷たい廊下に下ろす。お母さんたちの寝室の扉の前を抜ける。

 今日のお弁当は昨日食べ損なった夕食だろう。お母さんはいつもよりずっとゆっくり寝られるはずだ。起こさないよう慎重に、気配を消すというのがどういうことか具体的には分からないけれど、イメージとしてはそういう感じ。


 そうして階段も一段一段ゆっくり静かに降りきって、私はお風呂場へやってくるというミッションをクリアした。一階にはおばあちゃんの部屋があるけれど、おばあちゃんはいつでも早起き(年を取ると自然とそうなるらしい)だから、あまり気を使わない。

 纏う服を脱いで、洗濯機に放り込む。浴室の扉を開けて顔を上げれば、そこには見慣れた私の身体が鏡に反射していた。

 その身体をぼんやり眺めて思う。そう、玲香も同じ身体を持っているはずだ。私より胸は幾らか大きいけれど、同じように成長して、同じような身体の仕組みを持つ、女。そんな、当たり前のことを鏡を見つめながら考えてしまう。

 確かに、私は何度か「男だったらよかったのに。」と言われたことがある。それは親戚だったり、友達だったり、部活の先輩だったり。玲香もそう思っていたのだろうか。言われたことは一度もないけれど、私が男だったら良かったと、思っていたのだろうか。

 私は確かに男っぽいかもしれないが、女だった。でも、私は生まれてからずうっと、女だった。それに違和感を抱いたことも、残念に思ったこともない。これからも、ずうっと、女として生きていくことは当たり前のことだった。私はそれに、不満の一つもありはしない。


「っくしゅん!」

 いつまでも浴室で、お湯も水も出さないまま、鏡の中の自分の裸を眺めていたことを、くしゃみが思い出させる。これを誰かに見られたら、よっぽど自分のことが好きな人だと思われるだろう。ああ、恥ずかしい恥ずかしい。

 気を取り直して、シャワーノズルを手に取る。取っ手を上げれば、ノズルから柔らかいお湯が少し冷えてしまった身体の表面に広がった。頭からお湯を被っても、髪を掻き上げればもう上から降ってくる水滴はほとんど無い。短い、髪。

 髪を長くしてみようか。そうすれば、少しは女らしくなるかもしれない。でも、長い髪の方が洗うのも乾かすのも時間がかかるし、部活するときに括らなきゃいけないのが面倒だ。そんなことを言っているから、男っぽいだなんて言われるのだろう。

「…ばかばかしい。」

 何かにつけて男だの、女だのと同じことを考えている自分が、突然馬鹿馬鹿しくなった。男っぽいと言われることに、嫌悪感すら抱いていたくせに。女らしくなれない自分を、それでいいと認めていたくせに。今になって、そんなどうでも良いことを、何度も、何度も、何度も。

 そう思うと、考えることが嫌になって、曇った鏡から目を背けてシャンプーのポンプを一度プッシュした。

 

 

「あら、おはよう。」

 タオルで頭を拭きながら水を飲もうとキッチンへ足を運ぶと、そこにはエプロンを着けたお母さんがいた。時計を確認すると、いつもより少し長い間お風呂場にいたらしいが、それでもまだ早い時間だった。私の気遣いは、あまり意味をなさなかったらしい。

「おはよう。」

 勝手にがっかりしながら、グラスに水を注いで一気に飲み干す。温まった身体の中に冷たい水が染み渡った。

「昨日、ご飯も食べずに寝ちゃって。どうしたのよ。」

「別に、なんでもないよ。ちょっと疲れてたのかも。」

 手際よく朝食とお弁当の準備をするお母さんの手元を、無意識に見つめる。「お母さん」になったら、私もこんな風になるのだろうか。未来の私のそんな姿は、これっぽっちも想像できなかった。

「お腹空いてるでしょ。先に食べときなさい。」

 じっといつまでも準備を進めるお母さんを見つめていたのを、お腹が空いているからだと思ったらしい。お母さんは、一人分のハムエッグとサラダが乗ったお皿を私に手渡した。

「ありがとう。」

 そうじゃない、と言ってもよかったけれど、一食分抜いた私のお腹はもう空っぽだった。空きすぎて、お腹の虫も鳴かないくらいだったことを思い出し、素直に受け取っておくことにした。

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