間仕切り越しの恋
松田詩依
間仕切り越しの恋
休日になると私はいつも近所にある喫茶店「シナモン」へ足を運ぶ。
「いらっしゃい。いつもの席空いてるよ注文はいつものでいいかな」
「こんにちは。いつものお願いします」
「はいよ」
重低音の鈴がからんと音を立てると、すっかり顔馴染みとなった白髪混じりのマスターが出迎えてくれる。
挨拶と共に常連ながらの注文を済ませると、私は迷わずカウンターではなく店の奥へと進んでいく。
老舗と呼ぶにはまだ新しく、かといって若者で溢れ借る今時のお洒落なカフェではない。流行りにのっているわけでもないので、この店を訪れる客の大半は地元民。混雑するわけでもなければ、暇すぎる訳でもない。適度に人の気配を感じながら時間を忘れてのんびりと寛げる昔ながらの喫茶店である。ちなみにこれはもちろん褒め言葉として受け取っていただきたい。
この町に引っ越してきて早五年。仕事が休みになる度に必ず週に一度はこの居心地のよい店に通い続けた。
そしていつしかこの店の一番奥。唯一間仕切りに区切られた半個室の少し窮屈な四人がけのソファ席が私の特等席となっていた。
無論混雑している時に態々四人掛けの席を一人で占領する、なんて野暮なことはしない。先客がいれば諦めてカウンターに場所を移す。
しかしこの店が客で溢れマスターが目を回している所なんて、少なくとも通い始めて五年間は一度も見たことがなかった。特に私が座るこの席なんて他に誰かが座っているところも見たことがない。つまるところ、ここは私専用の席——だなんて自惚れていたりする。
窓に背を向けるように少し底が抜けた古い革張りのソファに腰掛けた。
鞄の中から文庫本を取り出し、テーブルの上に置くと背もたれにもたれ掛かる。窓からひんやりとした冷気が首筋あたりに伝わってくる。ちらりと後ろを見ると、窓に滴る雨の雫。音も立てずに雨は一直線に地面に降り注いでいた。
こんな雨の日は家でのんびりしているのが一番なのだろうけれど、それでも私がこの店を訪れたのにはある理由があった。
「こんな雨なのによくも飽きないで来るねぇ……はい、いつものお待ち」
「売り上げに貢献してるからいいじゃないですか。どうせ雨だから今日は特に暇なんでしょ?」
「そうだねぇ。ヨリちゃんがこなけりゃさっさと店じまいして家でのんびりできたのになぁ」
「えー……私のせい?」
「ははっ、冗談だよ。じゃあ、ごゆっくりどうぞ」
冗談をいいながらマスターが運んできたのは砂糖たっぷりの甘ぁいカフェオレと、喫茶シナモン特製ふわふわ厚焼き玉子サンド。
妙な組み合わせだと思われるだろうが、これが私の“いつもの”メニューなのである。
カウンターに戻っていくマスターの背中に言葉を返しながら、服の袖を軽く捲る。ついつい食事をするときは袖まくりをしてしまう自分でも不思議な癖があるのだ。
甘いカフェオレを一口飲んで、真っ白な皿の上に置かれた二つ切りになった厚焼き玉子サンドの片方を手に取る。薄切りの食パンの間には、この上で寝たいくらいふっかふかの甘めの厚焼き卵が挟まっている。
一口噛むと卵焼きのふわりとした甘みとケチャップとマヨネーズの味が口いっぱいに広がる。なんともシンプルなサンドイッチだが、これがまた堪らなく美味しくてやみつきになる。
パンで奪われた口の水分をカフェオレで潤し、恍惚の表情を浮かべながら少し熱い息をふうっと吐きだした。
これが私の至福のひと時。大口を開けて分厚いサンドイッチに噛り付き、口の両端にソースをつけて惚けている姿なんて誰にも見られたくない。
からん。と来客を告げる鈴の音が店内に響いて、背中を丸めながら惚けていた私ははっと背筋を正した。
「こんな雨の日に来るなんてキミも物好きだねぇ。いつもの席、空いてるよ」
マスターの声が聞こえたと思ったら、こつりこつりと足音がこちらに近づいてきた。この足音は、あの人だ——。
思わず口の中に入っていた玉子サンドをろくに咀嚼もせずごくりと丸呑みしてしまった。
急げ急げと、紙ナプキンで口元にベッタリついたソースを拭い、手鏡で髪型をチェックする。
そんなことをしている間に足音は私の隣で止まり、ソファに人が座り布ずれの音が聞こえてきた。
そして間仕切りの、私の目線の少し下——十センチほど空いた僅かな隙間からあの人の口から下と肩までが見えた。ちらちらと隣を気にしながら、畏まってちびちびとカフェオレを啜る。なんだか一口目に飲んだより甘く感じた。
「はい、いつものシナモンブレンド。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
隣から心地良い低音の声が聞こえるだけで、どきりと胸が高鳴った。
あの人はいつもマスター特製のブレンドコーヒーを頼み、静かに読書を楽しんでいる。
私が休日にこの店に来るのは、間仕切り越しの隣の席に座る彼に会うためだ。
−−といっても直接顔を見たこともないし、間仕切りの隙間から見えるのは口元と肩と手元が僅かに見えるくらい。顔も見えない相手に私は恋心を寄せてしまっているのだ。
彼はコーヒーを飲み、いつものように本を読み始める。全神経をそちらに集中させているためか、本を捲る小さな音でさえ敏感に聞き取れてしまうのだ。恋というものは非常に恐ろしい、あの人が何時頃来店してどこに座り、何を頼みなんの本を読んでいるのか——そんな細かなところまで把握してしまっている私はストーカーと揶揄されてもおかしくはないかもしれない。
きっと彼は本の世界に入り込んでいるから、隣にいる私のことなんて気にも留めていないのだろう。
だが私は彼が隣にいるだけで妙に意識してしまって、あれだけ大口を開けて食べていた筈の玉子サンドをちびちびと食べてしまっている。
ふとほぼ同時にコーヒーカップを取って口に運んだ。ほんの僅かな動作が重なっただけでこんなにも飛び上がってしまいそうなほどに嬉しくなる。
コーヒーを口元に運ぶ仕草が好き。本を捲る仕草が好き。恋は本当に恐ろしいもので、隣に彼がいると学生に戻った気分になってしまうのだ。
一度マスターにどんな人か聞いたことがあったが「そんなに気になるなら話しかけてみればいいだろ」と一蹴されてしまった。
そんな勇気があるのならとっくにしている。だが相手に既に恋人がいるかもしれない。顔も見たこともない、名前も分からない全く初対面の相手に話しかける勇気なんて私は持ち合わせてなかった。
だから私は今日も卵サンドを齧りながらこうして間仕切り越しに彼をそっと覗き見る。だがこれでいいのだ。この一枚の薄い間仕切り越しにあの人と過ごせるだけで、私の心は十二分に満たされている。
一週間このために頑張ってきたのだ。こんなどこの馬の骨とも知らない女に勝手に癒しにされてしまって申し訳ないが、私はこんな日々がずっとずっと続いて欲しいと願ってしまっている。
彼が訪れた緊張も五分も立てばすっかり元に戻って、私はもう一つの玉子サンドを手に取り、大口を開けて齧りつこうとしたのと−−隣の気配が動き、こちらに足音が向かってきたのはほぼ同時だった。
ここの店のお手洗いは店の一番奥。つまりは私が座っている席を必ず通らねばならない。そして今この店にいる客は私と彼の二人。
ちらりと横をみたら、間仕切り越しの相手の姿は消えていた。はっとして前を向くと、私の席の目の前を男性が通り過ぎようとしていた。
「————」
「————」
目がばっちりと合って、私たちは固まってしまった。
特に私は卵サンドに齧りつこうとして大口を開けたなんとも情けのない表情で固まっている。
彼も彼だ。さっさと視線を逸らしてお手洗いにいけばいいものの、何故か知らないが私を真っすぐと見つめている。
「こんにちは」
格好いい人だろうか、綺麗な人だろうか。ひょっとしたらとてつもなく残念な人かもしれない。私の頭の中で勝手に想像していたあの人は今目の前にいた。
想像以上に良いわけでもなく、しかし悪いわけでもない。本当に素朴な、しかしとても優しそうな瞳をした黒ぶち眼鏡をかけた男の人が私に向かって挨拶をした。
「こ、んにちは」
誤魔化すように、徐々に口を閉じ、齧りかけの卵サンドをそおっと皿の上に戻した。
しかし相変わらず彼はじっと私を見ていた。お手洗いに行くどころか、完全に体を私の方に向けて戸惑い気味に人差し指で頬を書いている。
「いつも美味しそうに玉子サンド食べていますね」
一瞬なにをいわれたか分からなくて固まってしまった。
え、つまり。こちらから向こうを見ていた、ということは、向こうからもこちらが見えるということだ。つまり私の聞き間違いじゃなければ彼もあの間仕切りからこちらを見ていた——ということだろうか。
なんて恥ずかしいことを。その瞬間、火山が噴火したかのようにぼんっと音がたったくらい私の顔が真っ赤になった。熱い。身体中の熱が顔面に集中していてとっても熱い。
「い、いつもお読みになってた本、私も読んでるんです……」
いたたまれなくなって、テーブルの脇にあった本で顔を隠しながら相手に見せた。
そう、私と彼は二人で同じ本を読んでいた。すると彼も、同じように顔を真っ赤にして口元を抑えてしまった。
「……あ、の。宜しかったらそっちにいってもいいですか?」
「——え、あ。あっ、えっ……どどどどっ、どうぞどうぞ」
互いが互いの気づかぬうちに互いを見ていたなんて、気まずい上にこの上なく恥ずかしい。
誤魔化すように、つい某お笑い芸人のように立ち上がって席を手で示してしまっている滑稽な自分がいた。
彼も彼で少し、いや、かなり恥ずかしそうで耳まで真っ赤にしながら何度も頭を下げながら私の向かいの席に腰を下ろした。
「その、ずっとお話ししたいと思ってて……男なら自分から行くべきだ、とマスターに……」
「えっ……マスターが」
カウンターの方から視線を感じる。向かいに座るその人も、ちらちらとカウンターに視線を送っていた。
不思議に思い、そっと間仕切りから顔を出してカウンターを覗いてみた。するとそこにはニヤニヤと悪ガキのように頬を緩ませ切ったマスターが手を振っていた。全てはこの人の陰謀だったのだ。
くそっ、ここで一杯食わされるなんて——悔しいが、正直かなり嬉しいことだ。
お互い席について向かいあい、お見合いの席のように簡単な自己紹介とお互いの趣味から話を初めて見た。喫茶店シナモン、一番奥。間仕切りの向こうの四人掛けの席は私と彼の特等席となった。
間仕切り越しにずっと覗いていたあの人は、今私と向かいあって笑っている。
「間仕切り越しの恋」 完
間仕切り越しの恋 松田詩依 @Shiyori_Matsuda
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