第7話
ふたりが埋葬されて十年ほどになる。あれほど世間を賑わした“ケンタッキーの悲劇”も人々の記憶から消え去ろうかというある日のことであった。
ボーリング・グリーンの旅籠に旅の途中だという中年の男が宿を取った。一階のバーの止まり木に座ったその男がウイスキーをオーダーした。
見慣れぬ顔のその男に、「ボーリング・グリーンははじめてですかね?」とバーテンダーが尋ねた。
「ああ、そうだ。ここから北のルイビルに向かう途中だが陽が暮れてしまって。ここから先にはしばらく旅籠はないといわれてね」
「その通りですよ。エリザベス・タウンまでは五十マイルほどありますからね。その間には大きさの町はありませんぜ。お仕事ですか?」
「お仕事は、といわれると窮してしまうな。しがない博打打だ。ニューオリンズの賭博場で打ち負かした相手が負けを払わずにとんずらしたんだ。ルイビルからだといっていた。とっ捉まえるための旅でね」
「ニューオリンズとは、あのミシシッピー河の河口の町ですよね。遠路はるばるご苦労なことで。ルイビルは大きな町だから探すのに苦労しますぜ」
「覚悟している。ところで、俺は元々オハイオ生まれでね。ボーリング・グリーンという町だった。ここと同じ名だ」
「ミシガン州に近いオハイオ州の北部ですよね。耳にしたことがありますぜ」
「思い出したが、ニューオリンズにここの生まれだという男がいる。酒の席でその男が他人と立ち話中の会話を耳に挟んだだけだが、俺の生まれ故郷と同じ町の名だったからそれを覚えているんだ。なんでも州の司法長官を務めたことがあるんだと自慢げだったな」
「その男の名を覚えていますかね?」
「その時は別の名だったが、親しくなってから以前の名はシャープだと聞いた。弁護士とは名ばかりで、投機でぼろ儲けして大きな酒場を取り仕切っている。俺もその賭博場で時折相手にするが、トランプの腕は確かだ。ただそれを鼻にかけて大きな顔をしている」
弁護士のシャープ。バーテンダーはボーリング・グリーンで弁護士事務所を開いていた時代のシャープを知っている。
止まり木の男が続ける。「俺は名でその人物を見分けることにしているんだ。シャープという名はアングロ・サクソンに多い英国の苗字だ。文字通りシャープで利発な者がいるが、一方では利に聡く金のためなら手段を問わない奴もいる。俺の知るそのシャープは典型的な後者だな。嫌な奴だぜ」
「フーン、おかしな話ですな。司法長官だったシャープは刺殺されたはずだが。生きているとすれば、そうだな、四十歳の半ばだろうか。その男は?」
「五十には達していないだろう。殺されたはずの男がニューオリンズにいるとは、ミステリーだな。その男はこの州生まれだという女といつも一緒だ。どこかの旅籠で給仕をしていた女だそうで、素人女ではないな。でも珍しく字が読めてね。それになかなかの別嬪だ」
あのジェローム・クックが犯人とされた殺人事件では被害者のシャープの遺体は遂に発見されなかった。クックは殺害は認めたが、胸から血を流したシャープは玄関先の暗闇に横たわったままだったと証言し、死体の行方は知らないといい張ったままだった。事件はクックの絞首刑で幕引きとなったが、遺体の行方に関しては、遺体を引き摺る人影を見たとか、あの夜に近くの農家で飼っていたヤギが殺されて司法長官の官舎に向けて血痕が点々と残されていたとか、しばらく噂が絶えなかった。
そのシャープがニューオリンズにいる? 殺人事件は偽装だったのか? アルコール業界に通じたバーテンダーには、それもあり得ると思い当たる節があった。
事前に予想されたように大統領選挙を大差で勝ち抜いたアンドリュー・ジャクソンが大統領に就任した。当時の西部からホワイトハウス入りした初の大統領だった。大統領の地元に近く、ファーストレディーになった夫人のレイチェルがケンタッキー州生まれだったこともあって、ケンタッキー州の政界はジャクソン派が握ることとなった。シャープの死後に選出された非主流派の司法長官もその後の選挙で落選し、長官職は主流派に交代した。
新たに選出された司法長官は、それまでの司法長官が職権を濫用してアルコール類の流通で私腹を肥やしていたことを暴いた。禁じられている闇酒の販売で特定の業者に便宜を計り、その見返りに多額の賄賂を受取っていたのだ。歴代の長官が関与していたことが明るみにされたが、その中でも死亡したシャープは抜きん出た額を受取っていた。過去の長官が糾弾され、生存中の元長官たちは裁判にかけられて多額の罰金を科せられた。しかし、この世にいないシャープには司直の手は及ばなかった。生きていれば大きなスキャンダル騒動で身を滅ぼしただろうと話題になった。
シャープが殺されたことにすれば、当局から汚職を追及され貯めた大金を徴収されることもない。アンナへの恨みからシャープを狙うジェローム。そのジェロームを誘いこんで刺殺を偽装し、大金を持って州の権限が及ばない州外に遁走する。シャープの死体が発見されないのは、そのような巧妙な罠が仕組まれていたからか。バーテンダーにはあり得ることだと思えた。
翌日、銀行帰りの道端でキャスリーン・ジレットと顔を合わせたバーテンダーは前夜に旅の男から聞いたシャープなる男のことを彼女に告げた。キャスリーンはシャープらしい男だけでなく、バーテンダーが付け加えた男と一緒にいる女に関心を抱いた。シャープに決闘を挑む前夜にジェロームが書き残した手紙を思い出したからだ。
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