第6話

 翌日、教会で支持者たちに混じって演説を聞いたジェロームは、シャープが泊まる官舎から近い酒場で時間を潰して零時を過ぎるのを待った。給仕の女が告げたように、数人のボディーガードを伴ったシャープが零時過ぎに官舎に姿を消し、一時過ぎにはそのボディーガードたちが官舎を後にした。二階の寝室の灯が消えてしばらくしてからジェロームは玄関の呼び鈴を鳴らした。

 召使らしい黒人女が恐る恐る扉を開けた。

 「シャープさんに選挙のことで至急お伝えしなければならない事態が起きました。夜が明けるのを待つとご主人にとって取り返しの付かないことになりかねません。至急玄関口に、と伝えてください」

 如何にも急いで駆け付けたという風情で息を弾ませるジェロームの様子に、召使は相手の名を問い質すことも忘れて足早に二階の寝室に向かった。

 やがて蝋燭の灯火を手にしたシャープが玄関口に姿を現した。召使に聞かれては拙いと思ったのか、女に引き下がるように命じてドアーの外に踏み出たシャープが訪問者と向かい合った。

 シャープは決闘の挑戦状を受取ってジェロームの名は承知していたがそれまでに顔を合わせたことはなかった。選挙対策の一員でもないジェロームの顔を見るなり、

 「貴殿はどなたかな? 緊急事態が起きたとのことだが?」

 「司法長官! ジェローム・クックだ」

 「ジェローム・クック? どこかで耳にした名だが」

 「忘れたのか。決闘を挑んだジェローム・クックだよ。俺の挑戦状に無しの飛礫だ」

 シャープが掲げる蝋燭の灯がジェロームが右手に握る短剣を映し出していた。それを目にして一瞬身構えたシャープだったが、寝巻きにマントを纏っただけの丸腰のために蝋燭を手放すと両手をジェロームに向かって突き出すのが精一杯だった。

 蝋燭の灯が消えて真っ暗になった玄関先で、「シャープ! 女たらしだけでなく決闘にも怖気着いた呆れた男だ。アンナを辱めたことへの復讐の一撃だ」と声を殺したまま叫ぶやジェロームは短剣をシャープの右胸に突きたてた。心臓に達する傷のためだったのか、相手は声を発することもない。即死に違いなかった。

 玄関の扉が閉じられる音を耳にした召使は、主人が寝室にもどったとばかり思い込んで寝入ってしまった。


 翌朝、いつものように警護のためにシャープ宅に着いたボディーガードが、玄関口のポーチに広がる大きな血痕を発見した。早速召使を呼んでドアーを開けさせ、二階の寝室に駆け上がったが寝室にはシャープの姿はなかった。血痕の大きさからシャープが暗殺されたのはだれの目にも明らかだった。

 司法長官暗殺される、の衝撃が州内を駆けた。

 現職の司法長官が暗殺されたことで、州都が属する郡のシェリフだけでなく他の郡のシェリフたちも犯人探しに駆り出された。少なからず政敵を抱えるシャープのことで、捜査当局は政敵を片っ端から聴取して回った。

 それらしき容疑者は官舎の召使に面通しをさせた。あの夜は雪がちらついていて玄関先は召使が掲げる蝋燭の明かりだけだった。その上ジェロームはフードの付いたマントを纏っていたために召使は確かな容貌を目にしていなかった。面通しでは体格や身長から容疑者を判別するしかなかったが、引き合わされた容疑者はどれも召使の記憶とは差があり、容疑者の確定ができないまま数週間が経った。


 暗殺される直前に開かれた教会での遊説会の聴衆にジェロームが紛れ込んでいた、という証言が聞き込み捜査の網に引っ掛かったのは事件の一ヵ月後だった。聴衆のひとりがしばらく前の新聞に掲載された似顔絵にそっくりの男が教会にいた、と証言したのだ。

 ボーリング・グリーンで身柄を拘束されたジェロームは州都に護送され、官舎の召使が体躯から間違いないと証言して、ジェロームが殺人犯として逮捕された。


 翌年の春に殺人犯人として起訴されたジェローム・クックの裁判が州都で始まった。被告の弁護にはジェロームの希望で自らが当った。シャープに犯された妻の屈辱を晴らすためで、そのために決闘を挑んだが無視され、口論の末に起きたことで殺意はなかった、と繰り返すジェロームに法廷内では同情の視線が注がれた。

 米国では出生に際しては必ず出生証明書が発行される。郡の役所が発行する出生証明書には出生日時、場所、母親の氏名が記載される。父親の名は証明書には記載されないが、発行を依頼する申請書には父親の名が記載されることがある。アンナは産婆の手で自宅で出産した。申請書には産婆が父親としてシャープの名を記していた。ジェロームはこれを証拠書類として法廷に提出し、シャープが父親としての義務をも放棄したと批判した。

 法廷で傍聴するアンナに陪審員たちの同情が集った。ジェロームは、そのアンナに救いの手を差し伸べようとシャープから謝罪を引き出そうとした挙句の不慮の事故で、愛する妻が受けた屈辱への復讐だと自らの正当性を訴えた。

 十一日間続いた裁判は刺殺する殺意はなく不可抗力による事故だと無実を訴えるジェロームに有利に進んだ。ところが、終盤になってボーリング・グリーンの住民であるひとりの女性が証言に呼び出され、新たな事実が明るみにされた。

 ある会合でジェロームの義母であるキャスリーンが、いかにも自慢げに、義理の息子が司法長官の命を狙って官舎に向かうという覚悟の手紙を娘が受取ったと披歴した。女がそれを目撃したのだ。女はキャスリーンがかざすその書状を斜め読みしただけだったが、そこには、司法長官を暗殺することができればシャープの政敵によって政治家に起用される道が開かれるかもしれない、アンナの復讐だけでなく一家にとっては明るい未来をもたらす、と暗殺を決意した理由が書かれていた、と法廷で証言したのだ。それまで同情心からジェロームに寛大な措置をと考えていた陪審員たちは、この証言で心証を害してしまい、こぞって有罪に傾いてしまった。


 法廷はジェローム・クックを絞首刑に処す判決を下した。傍聴席でその判決を聞いたアンナは、落胆の余りクックの傍を離れることを拒否して牢獄に向かうクックにしがみついた。判事の判断でアンナはジェロームと共に牢獄内に留まることになった。

 その牢獄でジェロームは、アンナを強姦して妊娠させた妻帯者のシャープがその事実を頑なに否定するだけでなく、クックの決闘の申し出にも応じないことから争いになり、已む無くの末の殺傷であったという“クックの告白書”を作成した。その告白書を出版して広く世間の同情を獲るのがふたりの狙いで、出版社を探すために刑の執行を一ヶ月繰り下げることを法廷に願い出た。

 しかし、この嘆願は裁判所によって却下されてしまい、いよいよ刑の執行が迫った。刑死ではなく心中を選択したふたりは、アンナが秘かに下着に隠して持ち込んだ毒薬を煽った。しかし持ち込むことができた量には限りがあったことから、心中は未遂に終わってしまった。

 執行日の日が到来した。その朝、アンナは手にしたナイフを自らの心臓に突き刺して自殺し、ジェロームもアンナの後を追おうと同じようにナイフを胸に突いた。しかし事に気付いた看守によって胸から血を流すジェロームは押し留められ一命を取り留めた。歩行もままならない重傷のクックは両側から看守に支えられて絞首台に引き摺りあげられた。

 現職の司法長官を殺害した犯人の死刑執行ということで世間の注目を集め、その日の刑場では五千人もの市民が刑の執行を見守ったといわれる。

 ナイフによる心中を図る前にクックは遺書を残していた。それによると、ふたりを別々に埋葬するのではなく、左手でアンナの腰を抱いたクックの右腕にアンナの頭部を乗せてふたりをいっしょに埋葬するようにとあった。

 ジェロームの遺言通りにひとつの棺に収納されたふたりは、ボーリンググリーンと州都のフランクフルトとの中間にあるブルームフィールドの町の墓地に埋葬された。

 刑が執行される一ヶ月ほど前にアンナは墓石に刻む言葉を書き残した。死は、生前には避けることができなかった絶え間ない嵐のような苦しみや残忍な敵対する人々から解き放され、ふたりは長しえの夫婦愛を共にする、と謳いあげていた。その墓標はそのまま今日まで残されている。

 ふたりの顛末はケンタッキー州だけでなく全米に広く知られることとなり、“ケンタッキーの悲劇”と呼ばれた。いくつかの小説が、ふたりの死を超えた夫婦愛を称えた愛情物語に仕立てている。

 一方、政治にまつわる政争に翻弄された男女の悲劇としても取り沙汰された。娘夫婦に不利になりかねない、ジェロームが旅籠から書き送った書状をキャスリーンが吹聴したのも、反司法長官陣営からの救いの手を期待したからだった。しかし、白昼に堂々と決闘で倒したのであればその可能性もあったが、暗闇に紛れた暗殺の殺人犯を取り込むほど政治の世界は甘くはなかった。あの十九世紀半ばに活躍した文豪エドガー・アラン・ポーも中世のローマを舞台にした未完の戯曲にこの悲劇を取り上げている。


 二世紀近くの間語り継がれてきた”ケンタッキーの悲劇”はここで終わっている。インターネットに掲載された解説も同様だ。ところが、悲劇はこれだけでなかったことが最近になって明らかにされた。

 メキシコ政府軍の大軍を相手に全米から馳せ参じた義勇軍が玉砕したアラモの砦は、テキサス州のサンアントニオ市の中心部に当時のままで保存されている。アメリカ人にとってはいわば聖地であり、訪れる観光客が絶えない。

 長い間風雨にさらされてきたために数年前から外壁の修復作業が進められてきた。外部だけでなく内部のレンガ造りの壁も修復の対象に含まれていた。その壁の修復作業中に壁の隙間から変色した手書きのメモ書きが発見された。そのメモ書きは砦で討ち死にしたあのデービー・クロケットの手になるものであった。

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