第5話

 時が経ちシャープはすでに州司法長官に選出されていた。

 その後もジェロームとシャープの決闘は出現しないままだったが、アンナはジェロームの熱意にほだされて遂に結婚を受け入れた。ふたりは双方の実家に近いボーリング・グリーンの小さな借家に住んだ。結婚前に産まれた男児を含めた三人の家庭で、借家の一角は弁護士事務所に利用していた。

 一見何事もない普通の新婚家庭のように取り繕っていたが、シャープへの恨みを忘れるようなふたりではなかった。

 司法長官のシャープはその年に予定されていた州議会議員の選挙に出馬することを明らかにしていた。シャープが選挙運動を始めるや、政敵は司法長官として職権を濫用して私欲を肥やしたシャープが、議員に転身してそれまで以上に勢力を拡大することを恐れた。以前のゴシップを蒸し返してジレット家とシャープ家との確執を囃し立てた。それだけでなく、シャープ夫人が黒人の男との間にもうけた混血児を証明する出生証明書が存在するという中傷も流し始めた。

 奴隷州のケッタッキーでは黒人に対する偏見が根強く存在した。白人女が黒人と性関係を持つことは偏見に染まったジェロームには耐え難いことだった。そこで実現しないままだったシャープ相手の決闘に再び挑戦することにした。

 アンナが背を押したのはもちろんであった。義理の母であるキャスリーンも、決闘を避けようとシャープが慰謝料の支払に応じるであろうと期待を膨らませた。


 選挙の投票日が迫った十一月はじめにジェロームは馬車で州都に向かった。街道沿いの紅葉の木々はすでに葉をほとんど落としていた。ジェロームは途中のバーズタウンの旅籠に宿を取った。

 夕食を終えたジェロームはバーでバーボンの杯を重ねていた。あの三人組が密談した食堂の隣にあるバーだ。数人の宿泊客がいる。止まり木の隣には同じようにバーボンのグラスを前にした男が座っていた。歳は初老の域だろうか。額に刀傷がある。南部人に共通するアクセントの強い話しぶりで、周囲を見渡す目つきが鋭い。旅籠の主人でバーテンダーを務める男とは顔馴染みのようで、ふたりの間では世間話に花が咲いていたが、やがて話題は政治に移った。

 ジェロームが聞き耳を立てると、どうも話題は州議員に立候補しているシャープのことのようだ。この男はシャープの後援者とは対立するらしい。しきりにシャープにとって不利な材料をバーテンダーから聞き出そうとしている。男の口からは当時の大統領であるジョン・クインシー・アダムスや、ケンタッキー州選出でアダムス政権では国務長官を務めるヘンリー・クレイの名が頻繁に飛び出す。

 やがて男は「明日朝は一番の便だからな」といいつつ席を立って二階の部屋にもどろうとした。勘定を済ませようとすると、「閣下、今夜は手前どもで」とバーテンダーがそれを制した。

 男が立ち去るやジェロームがバーテンダーに尋ねた。「あの初老の男は何者かね?」

 「あの方は次回の大統領選挙では当選確実といわれるアンドリュー・ジャクソン閣下ですよ」

 「あの米英戦争中にニューオリンズの河原で大英帝国の精鋭陸戦部隊を一網打尽にした将軍か。道理で目つきが鋭いはずだ」

 「次回大統領選挙は一八二八年秋ですよね。今年の選挙でシャープ司法長官が州議員に当選するようなことがあるとケンタッキー州での票の獲得が不利になるそうで、シャープ司法長官の対抗馬を応援するために州都に向かうそうですよ。実はあの方には告げませんでしたが、シャープさんはこの旅籠の常客でもありましてね。議員に当選すると我が家にもお裾分けがあるはずで秘かに期待しているのですよ。ジャクソン閣下にその気配を察知されないように冷や汗を掻きましたよ。なにせ独立戦争では未成年にもかかわらず大英帝国の将校相手に抵抗したほどの筋金入りですからね。あの刀傷はその時に相手の将校が切り付けたものだそうですよ」と額の汗を拭う。

 ジャクソンはジェロームが秘かに応援するテネシー州の政治家でもあった。十九世紀に入ってからの大統領はトマス・ジェファーソン、ジェームス・マディソン、ジェームス・モンローとバージニア州選出の大統領がそれぞれ満期の八年間を務めた。米英戦争を米国の勝利に導いたジャクソンはその後連邦議会の上院議員に選出されていた。そのジャクソンが出馬した前回の大統領選挙ではジャクソンが最も多くの票を獲得したが、ジャクソンを含めて三人が立候補したためにジャクソンも過半を得ることができなかった。

 憲法ではこのような際には連邦下院議会で議員たちの投票で大統領を選出することになっている。そこで獲得した票数ではトップのジャクソン、第二位のマサチューセッツ州選出で第二代大統領だったジョン・アダムスの息子のジョン・クインシー・アダムス、そして第三位だった当時の連邦下院議長のヘンリー・クレイの間で争われることになった。

 結果は、アダムスとクレイが手を結んだ結果、一般投票ではトップだったジャクソンが敗退することになった。ジャクソンは直ちに次回選挙への立候補を表明し選挙運動を始めた。今回のケンタッキー州都訪問はその一環だったのだ。ジャクソンが次回選挙に当選すればアパラチア山脈の西側で当時は発展途上の西部と呼ばれる地方からの初の大統領が生まれることになる。ケンタッキーやテネシーの住民はこぞってジャクソンの大統領就任を待ち望んでいた。

 ジェロームは考えた。シャープとの決闘に勝つことは、次期大統領に間違いないあのジャクソン将軍にとっても朗報となるはずだ。その貢献に対して政権内の要職があてがわれるかもしれない。突然明るい将来が目の前に大きく広がることに興奮を覚えるジェロームだった。


 オーナーのバーテンダーが別の客の注文を取るためにジェロームの前から立ち去った。するとそれを待っていたのか、食堂から給仕の女が現われてジェロームの横に立った。アンナと同じ年頃だろうか。右手首にハートの刺青をしている。

 「お客さん、あんたはジェローム・クックでしょう?」

 「そうだ。どこかで会ったことがあるかね?」

 「一ヶ月ほど前の新聞に似顔絵の入ったあんたの記事を見たのよ。オーナーと話すあんたをさっきから眺めていたんだけど、似顔絵にそっくりだから間違いないと思ってね」

 「お前は字が読めるのか?」

 「そうよ。あのオーナーは読み書きができないからね。あたいが新聞を読み聞かせたり手紙を代筆するんだ。それであんたの記事も読んだのよ」

 「読み書きができるのに旅籠の給仕とは。もっと恵まれた職業にあり付けるだろうに。どうしたんだ?」

 「話せば長くなる過去があってね。それよりもあんたのことだけど、記事によればあのシャープに決闘を挑むとか。州都のシャープに会うための旅の途中というわけか」

 「その通りだ。明日司法長官の官舎に押しかけることにしている」

 給仕が声を殺してジェロームの耳元で囁く。「実はね。数年前だったわよね。あんたの奥さんになった、アンナさんとかいったよね。そのアンナさんがシャープに犯されたというでっち上げの話。それを耳にして偶々翌日に立ち寄った新聞社の記者に漏らしたのはあたいなんだ」

 「なんだと。シャープがその三人を訴えると脅したために三人組が降りてしまい、あの件は有耶無耶にされてしまった。なんでその記者に告げたんだ?」

 「あたいはあんな話をでっち上げるのはよくないことだと、それだけの理由で記者に話したんだけど、その後の反響の大きさにたまげたわ。あたいはそれまで知らなかったのだけど、この旅籠はあの三人組が取り仕切る密売ルートで酒を手に入れていたのよ。記事が掲載されるや酒の仕入れが停まってしまったのさ」

 「シャープによる嫌がらせか?」

 「そうよ。でも、その後が傑作でね。記事を契機に三人組が頼りにしていた元締めをシャープが抱き込んでしまったんだ。シャープはボーリング・グリーンの自宅と州都の官舎を行き来する時は必ずこの旅籠に泊まるんだ。お陰でまた酒が入るようになった。記者から聞き出したらしく、あたいのためにでっちあげを知ることができて助かったとシャープがここのオーナーに礼をいっていたそうだわ」

 「それでお前もなにか謝礼を手にしたのかね?」

 「それがね。チップをしばらくの間少々上乗せしてくれただけ」

 「なんで今になって俺に内輪話をするんだ?」

 「この数年のシャープを知ると、あんたの奥さんが犯されたのは真実ではないかと思ってね」

 「どういうことだ?」

 「あの男は女たらしよ。それも未成年や年増の女性、脛に傷を負った既婚の女などの尻を追い回して。どこの女も目の前に金品がちらつくと弱くてね。女たちは弱みがあるから事を表沙汰にできずに泣き寝入りだよ。アンナさんも年長者だそうね。甘い言葉で誘ったに違いないわ」

 「投票日が近いためにシャープは連日選挙運動だと聞いた。明日の予定を知っているかい?」

 「先日オーナーあてに手紙が来ていたわ。酒場の常客に演説会場への勧誘を依頼する手紙で、そこの壁に貼り付けて置いたわ」といって壁のビラを指で追う。

 「明日は夕食会の後は州都の教会で遊説することになっている。多くの政敵を抱えるシャープの周辺には屈強なボディーガードたちがいるんだ。あんたが独りで近付くのは無理だわね。狙うなら官舎に帰って警備の者たちも去った深夜の一時過ぎだわね。深夜の官舎には住み込みの召使の女がひとりいるだけだから、シャープを外に誘い出すのは容易いはずだわ」

 「また誰かにこの話をするんじゃないだろうな。官舎に着いたらシェリフが待っていた、なんてことになるんじゃ堪らんからな」

 「昔の借りを償うつもりだから、この話はあんたとあたいだけのことよ。請合うわ」


 部屋に戻ったジェロームは蝋燭の灯火の下で早速ペンを走らせた。ジャクソンを見かけたこと、刺青をした給仕の女から聞いたでっち上げ話の顛末、そして翌日深夜にシャープ宅を秘かに襲うことを認めた書状を翌日の馬車便でアンナに届けるためであった。


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