第3話
約束された五十ドルを手にするのも間もなくと心待ちにしていた母娘であったが、ことは突然に想定外の事態に発展した。シャープが三人組とジレット母子を相手取って名誉毀損の訴訟を起こす対抗措置を取るとの談話を発表したのだ。慰謝料の請求どころではなくなってしまった。
虚偽のスキャンダル騒動によって名誉を毀損された、その賠償を求める訴えを起こすつもりだというシャープの談話はシチズン・ガゼット紙の競合紙であるケンタッキー・タイムズ紙の一面に大きく掲載された。そこには、政敵の三人の男たちがスキャンダルをでっち上げようと秘かに企む会話を耳にした証人の存在を示唆するシャープの談話も含まれていた。シチズン・ガゼット紙のコラムは三人組の存在には触れていなかった。政敵の介在を知った読者たちは、事は単なる男女間の争いではなく政界を巻き込むスキャンダルに違いないとことの進展に関心を寄せた。
事態の思わぬ進展で、法廷で争っては敗訴の可能性が大と悟った三人組は直ちに手を打った。翌週のシチズン・ガゼット紙上に、ジレット母子に騙されたのは迂闊だったという謝罪文を掲載したのだ。後日談によれば三人組はシャープとは小額の示談でことを収めてしまったようだ。
三人組に突き放されたジレット母子は五十ドルを手にすることもなく、逆に辣腕弁護士で知られるシャープ相手の訴訟に直面するリスクを負ってしまったのだ。
ジェローム・クックはジレットやシャープと同じボーリング・グリーンの住民だ。両親はニューイングランドに移住してきた英国人の末裔だといわれていた。清教徒だったかは定かではないが、クックという苗字はアングロ・サクソン系に見られる家族の名だ。文字通り料理人の家庭に多い名で、祖先は領主に仕える料理人だったのかもしれない。
ジェロームの両親はペンシルバニア州からケンタッキー州に移ってきた。父親は小さな雑貨店を経営しながら近くの寺子屋スタイルの学校の臨時教師を勤めていた。田舎の知識人だったといえよう。母親は夫の店を手伝う主婦で、ジェロームには三人の弟がいた。
ジェロームは当時では珍しくしっかりとした教育を受けていた。同じ頃に幼少時をケンタッキーで過ごしたリンカーンが教室で学んだのは数年だけだったとされるから、ジェロームの受けた教育水準は世間並以上だったといえよう。十六歳で独り立ちを目指した。
当時のケンタッキーでは十代で独立するのは珍しいことではなかった。ジェローム・クックも十六歳で親元を離れて商店の店員やパートタイムの教師を務めた。その間に独学で法律を学んだクックは弁護士資格を手に入れることができた。世間並み以上の能力を持つ若者だったと考えられる。しかし一方では女性相手に常軌を逸した行動を取る男という噂の主でもあった。十八歳の時には私生児を設けたとして起訴され、他の女性との間にも子どもをもうけたと囁かれた。
ジェロームはジレット一家が未亡人の母親とひとりの娘そして五人の息子たちからなり、家族はボーリング・グリーンの町外れに荘園を構えていて、そこには二十数名の黒人奴隷を抱えていることを知っていた。
娘のアンナがいまだに独身を続けていることはそれまでにも耳にしていた。舞踏会でその姿を垣間見たことがある。容貌が飛び切りの美人でもなく、すでに三十歳の半ばのアンナとクックとの間には十七歳の差があり、関係を持つ対象に考えたことはなかった。
そのアンナが有力な政治家にもて遊ばれた末に捨てられたと新聞のコラムが報じていた。それだけでなく翌週にはシャープがアンナとその母親を訴える考えだという談話が掲載された新聞を手にした。
新米の弁護士であるクックはクライアントの獲得に腐心していた。手取り早く名を知らしめる世間が注目する係争案件を血眼になって探すクックにとって、同じボーリング・グリーンの住民であるシャープとジレット母子の間の訴訟は格好の機会をもたらすと期待された。早速ジレット母子の弁護士になるべくジレット宅を訪れた。
玄関口で応対したのは母親のキャスリーンだった。
「ジェローム・クックと申します。突然お邪魔して失礼しますが、奥様とアンナさんにご相談したいことがありまして」
ジェロームに対するキャスリーンの態度は冷ややかだった。初対面のスミスを招き入れた結果が訴訟事件に巻き込まれる事態を招いてしまった。得体の知れない訪問者には気を許すべきではないと身構えたのだ。
キャスリーンはそれまでにジェロームとは面識がなかったが、息子のひとりから女性との間でイザコザを起こしたことのある男で、しかも相手はひとりではなく数人に及ぶと聞いていた。その男がアンナに関心を抱くのは、金銭が目的だからに違いないと考えたのは自然の成り行きであった。ジェロームの両親は大きな土地や奴隷を抱えることもない小さな商店の主に過ぎない。関係を持っても得になるはずがない。
「娘は病を患って臥しています。ご用件はなんでしょうか?」
「新聞記事を見ました。お嬢さんに直接お目にかかってお見舞いの一言でもと参上した次第です」
「起きたことは新聞が報じた通りです。口にするのも嫌な出来事で、付け加えることもありませんわ。娘も一刻も早くすべてを忘れたいと申していますのよ。お見舞いの趣旨は娘に伝えますので、このままお引取りください」
ジェロームは一目だけでもアンナさんをと母親に執拗に迫った。凄まじい形相で乞い続けるジェロームに根気負けしたキャスリーンは「一回限りですからね」とジェロームを玄関口に待たせて二階に上がった。
アンナが母親に付き添われて玄関口にやってきた。目の前のアンナは歳よりもずっと若く見えた。飛び切りの美人でないことを聞いていたが、豊かな胸をコルセットで締め上げている。それまでジェロームが付き合った若い女たちには見られなかった熟した妖しい女体にジェロームはひと目で魅かれてしまった。
「アンナさん、あなたが体験した不幸な出来事を新聞記事で知りました。シャープは怪しからん屑のような輩です。あなたの名誉を回復するために弁護士のわたしでできることはないだろうか、と思いましてね」
アンナも弟のひとりからジェロームのそれまでのよくない評判を聞いていた。しかし、目の前でかしこまる男にはそのような風評が間違いではないか、と思わせる若い行儀正しい男のイメージが満ち満ちていた。
「お母さん、折角足を運んでもらったのだからお茶でもごちそうしましょうよ」と母親を促して居間にジェロームを招きいれた。
居間に足を入れたジェロームの目は居間の壁一面に並んだ書籍に注がれた。背表紙のタイトルから法律関係の書が混じることを見て取ったジェロームが、「見事な蔵書ですね。この近辺では手にすることもない高価な書が混じりますが、どなたが利用されるのですか?」
この蔵書はキャスリーンが秘かに自慢にしているものだった。バージニア時代に読書家の夫が趣味もあって買い求めたもので、中には希少価値の書も含まれていた。転売すればかなりの金になるであろうとバージニアから移住する際にも馬車に積んできたのだ。だが、これまでジレット家を訪れる地元の住民でこの蔵書に価値を見出した者は出現せず、ましてや大金を払う買い手も現われることはなかった。
蔵書に触れたことがジェロームに対するキャスリーンの見方に変化をもたらす契機となった。
「亡くなった主人の形見でしてね。背表紙を眺めるだけで昔の楽しかった日々が蘇ります。ところで、わたしどもにどのようなお力を貸してくださるの?」
「マダム、アンナさん、もしシャープが訴訟を起こした際にはわたしが弁護致しましょう。有力な政治家がか弱い母子を訴えたと強調して陪審員たちの歓心を買うことは十分に可能です」
「でも弁護士料はかなりの額になるでしょう。我が家にはその余裕はありませんわ」
「マダム、わたしの報酬は成功報酬で結構ですよ。あなたとアンナさんが勝訴すれば慰謝料を手にすることができます。その慰謝料からお支払いいただければ結構です。あり得ないとは思いますが、仮に不幸にして判決が不利な場合は一切の経費はわたしが自己負担しましょう」
「まあ、わたしどもの出費は皆無なのですね。これまで深いお付き合いもないあなた様にそこまで甘えてよろしいのかしら。何か将来にたたりがあるようなことはないのかしら」
「ご心配は無用です」
「それでは有り難くお申し出を受けることに致しますわ。アンナ、あなたも異存ないわよね?」
「お母さま、もちろんありませんわ。よろしくお願いします、クックさん」
「アンナさん、これからはジェロームと呼んでください」
「そういたしますわ、ジェローム」
「弁護に当ってひとつお願いがあります。弁護士とそのクライアントの間にはアトーニー・クライアント・プリブリッジと呼ばれる守秘義務が成立します。それは弁護士とクライアントがお互いに交わした会話や交換した情報は、第三者に開示してはならないという義務で、この第三者には警察官や裁判所の判事も含まれます。但し、クライアントが弁護士以外の者に漏らすと守秘義務の対象から除かれますので、裁判で争う際には判事や相手の弁護士にも開示する必要が出てきます。注意を払う必要があります」
「お母さま、これからはうっかりおしゃべりしないようにお願いしますよ」
母娘と談笑したジェロームは小一時間でジレット宅を辞した。翌日にはアンナと近くの公園に馬車で出かける約束を取り付けてあった。妊娠に至った経緯を聞き出すためだった。
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