プロローグ3

男は、とある通りをムシャクシャしながら煙草を吸って歩いていた。

クリスマス当日に彼女にフラれ、年末年始の予定が全てキャンセルになったことへのやり場のない怒りを、煙草の煙に乗せて吐き出そうとしていた。

彼女いわく、あなたの年収なんてたかが知れてるでしょ。派遣の男に何が出来るって言うのよ。女は冷たく言い放った。

男はかつて夢を追いかけながらアルバイトで生計を立てていた。そんな時に彼女に出会った。

夢を追いかける男の人って素敵ね。目をキラキラと輝かせ、可愛らしい笑顔で男に微笑む。

顔もさることながら、スタイルもまさに俺好み。

彼女と付き合うことに選択という可能性はあり得なかった。

付き合い始めると、次第に彼女の態度は変わっていった。一人分のアルバイトの収入で彼女を養いながら生活する事に無理が生じ始めていたからだと思う。

夢を追いかけることは辞めた。彼女との日々を優先し、仕事を探した。だがそう簡単に仕事にありつけるわけもなく、やりたくもない仕事ではあったが、少しでも高収入であるのならと派遣で働き始めることにした。その甲斐あって、生活は少しずつ楽になっていった。貯金も僅かながら出来た。自分が欲しいと思う物を我慢し、彼女との結婚資金にまわす事にしていた。このまま努力が認められ正社員になればボーナスもつく。そうすれば彼女との結婚もより現実味を増すというものだ。

一年が過ぎ、二年目を迎えたクリスマス。それは唐突に告げられた。

アンタなんかウジ虫も一緒よ。つまらない男、くだらない人生だわ。サヨナラ。

女は男の言葉に耳を貸すことなく、部屋を出ていった。

その日の夜、クリスマスディナーを予約していた店から電話があった。彼女からの電話だと思い、慌てて携帯の画面を確認する。違った…。男は沸き起こる激情に身を任せて携帯を雑にソファへと投げ捨て、着信を無視した。

男は部屋を出た。部屋にいればあの女の残像がちらつく。

苛立ちや後悔、悲壮。もしかしたら俺を試しているのでは。様々な感情や葛藤が錯綜する中で、最後に残されたのは女への激しい怒りだった。

男は咥えていた煙草を道端に投げ捨てた。再び新しい煙草を口に咥えて火をつける。

何がいいんだ、あんな女。こっちから願い下げだ。

冷たく乾いた空気を肩で切りながら大股で歩く。

見慣れた筈の景色が、どこか別の世界のように感じた。


一月二日。

男は冷えきった硬いフローリングの上で目が覚めた。

電気とテレビが点けられたままの状態で放置され、周囲には空になった酒のアルミ缶がいくつも転っていた。男はコンビニで大量に買い込んできた安い酒に酔い潰れ、いつの間にかそのまま眠ってしまっていたようだった。

画面上では年末年始の特番が放送され、その中の出演者たちは誰もが浮かれたように賑わいを見せている。気に入らない。男はテレビを消した。

そのまま寝室に行って今一度寝ようと思ったが、やめた。その前に一本ばかり吸おうと煙草に手を伸ばしたのだが、箱の中身が空だったのだ。吸えないと思うと余計に吸いたくなってくる。男は煙草を買いに行く事にした。

近くのコンビニへ向かうまでの間、粉雪がパラついてきた。その光景に一組の若いカップルが楽しそうにじゃれついて歩いている。どいつもこいつも。男は彼らを横目に睨みつけると、コンビニへと向かう足を速めた。

煙草を二箱購入すると、早速、持参してきた安物のライターで火をつけた。白い息に混じって煙草の煙が空へと伸びる。少しだけ気が紛れてきた。

すぐに帰るつもりだったのだが、寒さのせいで目が冴えてきてしまった。このままでは帰ったところで眠れそうにない。少し遠回りをして、散歩しながら帰る事に決め、短くなった煙草を入り口傍の灰皿に捨てた。

行く宛なくしばらく歩き進め、二本目に手を出した頃、雪はすでに止んでいた。道路には薄っすらとその痕跡が残されているが、その程度の事だった。まだら模様のアスファルトの上に颯爽と足跡をつけていく。ふいに寒気に襲われた。ニコチンが身体にまわり始めたようだ。指先の体温が一気に下がっていくのがわかる。薄着にし過ぎてしまったか。男は悔い、背中を丸めながら、口に咥えていた煙草を指先で弾くようにして道端へと捨てた。

自宅のアパートへと戻ってきた。階段を上がり、二階の玄関前に立つ。部屋に入るとすぐ、アルコールの匂いが鼻をつんざしてきた。掃除をする気にはなれず、足下に転がる缶は見なかったことにした。

部屋の中はまだ暖かかった。エアコンをつけ、買ってきたものをガラス製のテーブルの上に置いた。緑色のジャンパーをハンガーにかけると、早速、袋から酒とつまみを取り出し、晩酌を始めた。

外が寒かったせいだろうか。腹が満たされたせいだろうか。それとも、少しは気が紛れたせいだろうか。

思いのほか早い酒のまわりに意識を奪われ、男は再び眠りに落ちた。


外の様子がうるさい。

そのせいで目を覚ました事に腹を立て、眉間にシワを寄せながらカーテンへと視線を移し、睨みつける。クソガキどもが。大学生が酔っ払って騒いでいるのだろうと思い、文句の一つでも言ってやろうとカーテンを雑に開けた。見れば遠くで赤い光が闇の中にほんのりと輝いている。花火か? いや違う。男は寝ぼけた頭の中でその違和感に気づいた。

どうやら火事のようだ。そのせいで近所の住人たちが騒いでいたのだ。

ふん。知ったことか。男は短く鼻で笑い飛ばし二階の窓から野次馬たちを見下ろして冷たく微笑むと、外界との関わりを断つようにカーテンを閉めソファへと腰を落とし、再び眠りについた。

翌朝、いつもの時間に目が覚めた。社会人の悲しいさがだ。やりたくもない仕事へ向かうために起きたくもない時間に身体が反応して起きてしまう。ましてや今日は休みだというのに。

つう…。酒を飲みすぎたようだ。頭が痛い。右のこめかみに手をあてがい、怪訝な表情を作りながら左手でテレビのリモコンを掴み、スイッチを入れた。

テレビから軽快な音が流れ、画面には着ぐるみの人形と女性アナウンサーが映し出された。

大きな欠伸をひとつ取りながらこめかみを抑えていた手で口元や左頬をさすると、目を覚まそうとしてガラステーブルの上に置かれた煙草の箱に手を伸ばした。中から一本の煙草を取り出すと、口に咥え、火をつけ、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。白い煙が乱雑に散らかった狭い部屋に充満していく。

何が、あけましておめでとうございますだよ。ハッ。くだらねぇ。男は冷笑を浮かべると、再び口元に煙草を近づけた。画面が切り替わり、ニュースが報道され始める。短く切り替わる映像に寝ぼけ眼を向けながら、ぼんやりとそれを見ていた。

次の瞬間。男は愕然とした。

2日午後11時半頃、この家の住人から"家が燃えている"と119番通報がありました。

女性アナウンサーの機械的な声が男の耳に突き刺さる。男は身を乗り出し、食い入るように画面を見つめた。そこには見覚えのある景色が映し出されていた。

確かに昨日、火事はあった。だが、まさかその火事の現場が自身が昨日うろついていた場所、煙草を投げ捨てた地域であったとは。土地勘に疎い男は、この映像を見るまでそれがこの場所であったと気付かなかったのだ。

俺のせいか? いや、まさか。今までだって何度も煙草の吸殻を捨ててきた。そうそう火事になんかなってたまるか。だが…。もしそうだとするならバレるかもしれない。あれだけ煙草を吸ってたんだ、その中の一本が火元になったとしてもおかしくない。

男はあれから家に帰ってくるまでの間、複数本の煙草を吹かして、その都度、道端に捨てていた。

最近のDNA鑑定は優秀だと、何かで見聞きした事を咄嗟に思い出す。

誰かに見られたか? いや、誰ともすれ違わなかった筈だ。

男は頭をフル回転させ、自身への言い訳の言葉を思考し始めた。

背中や腋の下が冷たくなり、汗でシャツがまとわりつく。額は脂でベタベタとしてテカり、冷や汗が流れ落ちる。

やがて心臓が尋常ならざる警鐘を奏でる中、明確な結論に辿り着いた。

捕まるわけにはいかない。

男は逃げるという選択肢を選んだ。

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野火 @shion_0490

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