プロローグ2

男は78歳。

一つ年下の妻と二人、理容店を経営していた。

最近、お互いに耳が遠くなり始めたような気がするが、きっと気のせいだろう。まだまだ身体は動く。若い連中に負けてられるか。

朝食の納豆を勢いよくかき混ぜながら、テレビから聞こえてくるニュースに耳を傾ける。

"本日の最高気温は5度。日差しは暖かいですが、洗濯物は乾きづらいでしょう。"

男は納豆をまだ湯気の出ている真っ白なご飯の上にかけると、窓の外へと目を向けた。

確かに今日の天気は良さそうだ。

よし。今日も一日、張り切って頑張るか。


30歳で夢のマイホームと自分の店を持ち、今も現役で働いていた。

男は理容師。自宅の一階に理容店を設けている。

32歳で長女をもうけ、39歳の時に長男が誕生した。

52歳の時、長女が念願だった東京大学に二浪のすえ無事合格。三月のまだ冷たい風が吹く中、この日、わが家にも確実に春が近づいて来ている事を実感した瞬間だった。

59歳。長男が成人式を迎える。年老いてから出来た子供であったため、ひとしお感慨深いものを感じた。小さい頃はキャッチボールひとつするのでも体力の限界をひしひしと実感させられた。二度目の思春期を迎える頃には親父の貫禄を脅かされるのではと焦燥にもかられたものだが、全ては無駄な徒労に終わった。息子との成人祝いに飲む酒は格別だった。

二人とも素直でいい子に育ってくれた。俺の自慢の子供たちだ。

60歳の還暦を迎えると、盛大に還暦祝いをした。部屋は赤を基調とした装飾が施され、普段の地味な部屋とは一転して賑やかになった。妻が赤い半纏を手渡しながら優しく呟いた。お疲れさまでした。その目には薄っすらと涙が滲んでいたように思える。

70歳になった時、長女と長男が孫を連れてお盆の帰省に合わせて帰って来た。

お父さん、もう歳なんだからそろそろ隠居も考えてみたら? 長女の言葉である。

そうだよ。親父さえよかったら、一緒に暮らしても構わないんだぜ。長男が続けて言った。

まだまだ俺は現役だよ。そう。死ぬまで現役だ。二人の気持ちは嬉しいけどな、俺はこれから先もバリバリ働くぞ。白髪頭の男は歯を見せて彼の人生を物語る原生林の年輪のようなシワをいくつも作りながら笑って答えた。また一つシワが増えたようだ。

孫の男の子が家の中を縦横無尽に走り回っている。五月蝿いから静かにしなさい。母親の言う事も聞かず、彼はケラケラと笑いながら手足をばたつかせて楽しそうに走っている。

ふと彼が一本の柱の前で止まった。興味深そうにその柱を見つめている。

この傷、なぁに? 男の子は言った。

なんだ、気になるのか? 彼の父親である長男が答え、酒を飲む手を止めて立ち上がり、男の子側へと歩み寄る。その姿を見て長女もまた歩み寄った。二人とも懐かしそうに目を細めてその柱を見ていた。

その様子が気になり、男もまた立ち上がり柱へと近づく。柱には長女と長男の名前と共に黒く古めかしい傷跡が残されていた。あの子供たちも今や立派に親。目頭が熱くなり、胸に込み上げるものを感じる。俺も歳をとったもんだな。そう思ったが、それを否定するように男の子の頭をクシャクシャと撫でた。

家の柱に孫の身長をあらわす成長の記録が新たに刻まれた。茶色い柱に現れた真新しい一本の綺麗な白い表皮。その近くには長女と長男の名前と共に黒く古めかしい傷跡が残されている。家族の歴史がまた一つこの家に刻まれた。

魂の拠り所。帰るべき場所。

俺はそんなこの家を、これからもずっと守っていきたい。そう心に誓った。


ある冬のことだった。

その日、年末年始で帰省した子供たちの家族と共に、和気あいあいと楽しい時間を過ごしていた。孫たちにお年玉の入れられた小さめの紙袋を手渡すと、元気にお礼を言い、彼らは一目散に駆け去って中身を確認していた。

親たちも叱責をそこそこに、ありがとうございますと頭を下げる。それを目当てで来てるくせに。口から出かけた言葉を慌てて飲み込む。だとしても嬉しい事に変わりはないからだ。今年も無事に年を越せたことに感謝しつつ、いつものように皆で酒を酌み交わした。妻がこさえた料理はいつにも増して手がかけられ、とても豪勢なおせちが並ぶ。それに加えて出前で取った寿司や子供たち向けに近くの某有名チェーン店で買ってきたフライドチキンが食卓の上を占領している。酒が進まぬ訳はなかった。

楽しい宴会ではあったが、妻の一言で途中離脱をせざるを得ない経過を辿ることとなった。あなた、飲み過ぎですよ、と。何言ってるんだ、今日飲まずしていつ飲むんだ。そう言い返してはみたものの、妻は何やら白い紙袋をテーブルの上に置いて指でコツコツと二回それを叩いた。薬を飲んでるのをお忘れですか? 怪訝な眼差しを向けてくる妻に、それ以上言葉を返す事は出来なかった。残念ではあったものの、皆に休むことを告げ、一足に先に寝室へと行き、そのまま眠りについた。

どれだけ眠っていたのか。ドアを強く叩かれる音で目が覚めた。返事だけを大きな声で言うと、酒の影響ですぐには起きられない身体に鞭を入れ始める。それを待たずして長女が血相を変えて寝室へと入ってきた。次いで長女の夫が青冷めた顔で入ってくる。そのまま長女夫妻に手を取られ、状況もよくわからぬまま慌てて外へと連れ出されてしまった。


なんだ、何が起こった。


よく見れば、皆がみな着の身着のまま外に出ているようだった。

状況を確認しようと長女言葉を言いかけたところで、その必要の無意味さに気付いた。


振り返ると、家が火に包まれていた。


男はその場に崩れ落ちた。俺の家が燃えている。

視線を落とし、目を泳がせながら必至にそれを否定しようと言葉を模索するが、そうすればするほど次第に頭が真っ白くなっていく。

再び頭を上げて燃え盛る自分の家を見た。今度は二度と目をそらす事はなかった。口を半分開けたまま目を見開き、放心状態でそれを見つめる。

…がいない‼︎ いないぞ‼︎

誰かが叫ぶ声がぼんやりと聞こえてきた。

お父さん‼︎

お母さんが、お母さんがまだいないの‼︎

長女が男の肩を揺さぶって泣きながら訴えかけてきた。男はその言葉に愕然として燃え盛るわが家に目を戻す。

家はパチパチと何かが弾ける音を立てながら、依然として火の勢いを弱めることなく燃えていた。

立ち上がり家に戻ろうとしたところで長男が男の手を引いた。

ダメだ‼︎ 親父まで死んじまうだろうが‼︎

死ぬ…。妻が…死ぬ…。その時、遠くから消防車のサイレンの音が聴こえてきた。

助けてくれ、頼む。頼むから…‼︎

だが、男の願い虚しく、残されたのは黒くススだらけになった我が家だけだった。家族の集合写真が一枚、写真立ての中で優しく微笑んでいる。

焼失した瓦礫の中から一人の女性の遺体が見つかったと消防の者が男に告げた。

男は地面に両手をつき、人目を憚らず声を大にして泣いた。

皆がその姿に心に蠢く何かを感じていた。

許さない。絶対に犯人を捕まえる。

孫の一人、20歳の大学生、斎藤貴裕さいとうたかひろは誰に告げるでもなく、密かに誓いを立てていた。

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