初恋
33
「それでは、お呼びするまでお待ち下さい。」
『はい。』
後ろの方で、パタンとドアの閉まる音がして、ふうっと息を吐いた。
私、狭間 月は今日、天王寺家に嫁入りする。
別段、何を失う訳ではない。
元々私の25年間という人生は、この日のためだけに費やして来たようなものだから。
天王寺家に嫁ぐために生まれ、育てられ、養われて。
全てはこの日のためだった。
…ただ、あの21歳の、夢のような1年間だけを除いて。
それは偶然の運んでくれた、どこまでも甘くて切ない、身を焦がすような恋だった。
寝ても覚めても、一緒にいてくれた。
毎日隣で笑ってくれた。
私のために、泣いてくれた。
彼のために、生きていた。
あれからもう、4年も経って…彼はまだ、私のことを覚えてくれているだろうか。
恋の噂は聞かないけれど、いつか誰かと幸せになってほしい。
だってあんなに素敵な人、世界中どこを探したってきっといないから。
…でもどうか、私のことは忘れないでね。
楽しかったあの日々は、ちゃんと思い出にしてほしい。
私にとって、一番大切なこの記憶を、貴方のどこかにも残しておいてほしい。
ほんの少しで良い。
薄っすらとでいい。
私の顔が思い出せなくなっても、笑いあったことだけは、覚えていて。
それだけで、私は、前に進めるから。
…なんて。
本当は、嘘なの。
白無垢に身を包んで、女の子なら誰もが憧れるはずの結婚式を目前に控えて、なのに私が思い浮かべるのは、やっぱり貴方の泣きそうに笑った顔なの。
あの日、好きだ、と言ってくれようとした。
私がそれを、言わせなかった。
叶わぬ恋に、溺れたくなかった。
だけどとっくに、遅かった。
忘れないでくれれば、それで良い、なんて。
綺麗事を並べても、やっぱり私は欲張りで。
思い出されるのは、いつだったかの彼の言葉。
__1人で抱え込まなくて良い。逃げ出したくなったら、俺を呼んでよ。
何処へでも、連れてってあげるから。
私は貴方に、バカね、と言った。
この残酷すぎる運命から私を救い出せる人なんて、いないと分かってたから。
だけどね、本当は、嬉しかった。
この人なら本当に、私をどこかへ連れて行ってくれるんじゃないかって、そう思えたの。
あの時素直にありがとうって、言えたら良かったのに。
どうして言わなかったんだろう。
伝えたいことはたくさんあったのに、あの頃の私は臆病で、何も言えなかった。
なのに貴方は、分かってるから大丈夫って、いつも笑って許してくれた。
そんな貴方が、好きだった。
親族なんていない花嫁の、静かな控室には、時計の秒針だけが音を響かす。
もうじき、式場のスタッフが呼びに来る頃だろう。そしたら二度と、私は自由の身になれないんだ。
…ならば最後にもう一度くらい、悪足掻きしても許されるだろうか。
実に4年ぶりに、その音を唇に乗せた。
『……ユキ君』
さようなら、私の初恋の人。
誰よりも、愛していました。
その名前は 私の口から、そっと空気に乗り移って、美しく綺麗に響いて、幻のように儚く消えた。
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