第14章
台風の影響でダイヤが乱れているのか、駅の改札付近には立ち止まって電光掲示板を見上げる人や窓口に並ぶ人が多く見受けられた。俺はその様子を脇目に見ながら足早に通り過ぎ、階段を下りて線路を挟んだ反対側へと出た。どこへ行こうとしているかは俺自身にもわからなかった。ただ、何も考えずに足を動かした。
俺の家がある線路の北側には昔ながらの商店街があり、一戸建ての閑静な住宅が多いのに対して、南側は駅の目前で大型のデパートが二つ、中世の騎士みたいに睨み合い、駅から離れたところでは中、高層のマンションが水牛の群れみたいにひしめき合っていた。デパートののっぺりとした壁を照らし出すいくつもの電球の明かり(それは俺に鋼鉄の甲冑を思わせた)を潜り抜けしばらく行くと、明かりは青白い街路灯だけになった。
俺の足が堅いコンクリートを蹴るリズムは徐々に早くなり、ついには走り出していた。初めはゆっくりと、それから一気に速度を上げ、最高速に達した。水蒸気を含んだ風が時折思い出したように吹きつけ、俺の頬を湿らした。それはとても心地よかった。しかし、部活を辞めて鈍りきった俺の肺は直に悲鳴を上げ、以前に捻挫した右足首が痛み始めた。そしてやがて俺の足は完全に止まった。肺は少しでも多くの酸素を取り込もうと激しく膨縮し、足首は立っているだけでひどく疼いた。俺は傍にあった生垣の濡れた縁に腰掛けた。一組のカップルが横殴りの風に場違いな歓声を上げながら、俺の前を通り過ぎた。
俺はそこに座り、濡れた路面を見つめながら、体の機能が正常に戻るのを待った。俺の後ろを何十秒かに一回、まとまった車の波が通り抜けた。その車の流れが途切れたのと風が止んだのとが重なって訪れた一瞬の静寂のなかに、何かの音を聞いた気がした。俺は咄嗟に空を見上げた。その音が上のほうから聞こえてきた気がしたからだ。そして、UFOでも降りてくるのかと冗談半分で身構えたが、残念ながらUFOもタイムマシンも現れなかった。宇宙人もタイムトラベラーも、わざわざ着陸場所に台風のど真ん中を選んだりはしないのだろう。
俺は動きを止め、耳をそばだてた。風が強く吹き、それが弱まり、車の波が来るまでの隙間で、またその音が聞こえた。それはカラスの鳴き声のようでもあり、汽笛のようでもあった。こうして上を見ながら聴いていると、それは上空というよりはもっと近く、そう、目の前のビルの屋上の辺りで鳴っている気がした。それから数秒の間、その音は断続的に鳴り続けた。そして車の波が戻ると、その音はエンジン音のなかに掻き消された。俺はエンジン音と風音とその正体不明の音が代わる代わる現れるのを、しばらくの間、まるで音楽を聴くように聴いていた。実際、それは一種の音楽のように聞こえた。そして俺は、自分自身でもよくわからない何かをきっかけに立ち上がると、次の車の波が来る前にビルの中へと入って行った。
ビルはそれほど大きなものではなかった。どうやらマンションらしく、横三列縦八列に並んだ集合ポストには、一〇一から八〇三までの数字が規則正しく付けられていた。エレベーターはなぜか扉を開けたまま一階で停まっていて、青白い明かりでエレベーターホールをぼんやりと不気味に浮かび上がらせていた。まるで、誰かが来るのをエレベーターが意思を持って待っていたみたいだった。俺は恐る恐る乗り込むと、八階のボタンを押した。扉が閉まり、エレベーターは低い唸りとともにゆっくりと上昇を始めた。
俺はエレベーターを降りるとそこに立ち尽くし、辺りを見回した。そこは四枚の扉に囲まれた四畳半ほどの狭い空間だった。エレベーターは俺が降りたことを確認すると、音もなく扉を閉め、再び一階へと降りていった。エレベーターが不気味な光を持ち帰ってしまうと、俺のいるその空間を照らすのは小さな暖色系の電球一つになった。
正面の二つの扉と左の扉にはのぞき穴があり、右横の高い位置にそれぞれ部屋番号の書かれたプレートが取り付けられていた。俺はそれを確認してから右側の扉の前へ行き、ドアノブを下ろした。扉はすんなりと開き、左手に階段が現れた。踊り場の蛍光灯一つで照らされた薄暗い階段を上りながら、俺は初めて上るこの階段を以前にも上ったことがあるような感覚に襲われた。それは同時に、何者かによってこの階段へ、そしてこの階段を上ったところにあるであろう扉の向こうへ誘われているような感覚でもあった。思えば、俺はこれと同じ感覚をエレベーターに乗ったときから感じていた。俺の足は、俺の意思の届かないところで動いていた。
果たして扉はそこにあった。俺は一つ深呼吸をしてからそれを押した。扉は静かに開き、湿っぽい風が俺の火照った顔に吹きつけた。
その空間は街の明かりの上にぽっかりと浮かんでいた。周囲を囲む、より高いビル群はうねり立つ大波を思わせ、今にも俺がいるビルを頭から飲み込もうとしているかのようだった。孤島、と俺は思った。周囲を茫洋たる大海原に囲まれた孤島にも似た孤独が、そこには確かにあった。島のちょうど中央には、小・中学校で慣れ親しんだ木とパイプで作られた椅子があり、その上にはギターが置いてあった。俺はその脇を通り過ぎると、孤島と夜の海との境界に立つ、腰ほどの高さのフェンスに寄りかかり、眼下を見下ろした。街路灯で縁取られた道路を、車のヘッドライトがまるで深海魚みたいに縦横に泳いでいた。
その時だった。
「死ぬのか?」
吹き荒ぶ風の音の中に、俺ははっきりとその声を聞いた。俺は驚いて振り返った。一体どこから現れたのか、椅子のすぐ横に若い男が立っていた。黒いトレンチコートに身を包み、ぼさぼさと伸びた長髪を風になびかせたその男は、缶コーヒーを飲みながら俺のことを見つめていた。男は左手に持っていたまだ開いていないほうの缶コーヒーを俺に放ってよこした。俺は反射的にそれを受け取った。
「飲めよ。死ぬのはそれからでも遅くはないだろう?」
男はそう言うと、椅子の上のギターを拾い上げ、そこに腰掛けた。
「死ぬつもりはない」
それが俺自身の声であることに気づくまでに、少し時間がかかった。風が大洋の彼方からこの島にやって来て、また別の彼方へと去っていくくらいの時間だ。男は、ふんっと鼻で笑った。
「そうか? 死んでもおかしくないようには見えたがな」
俺はもちろん死ぬことなど考えてはいなかった。しかし、男にそう言われ、ある可能性に行き当たった。
死ぬつもりはないが、死んでもおかしくはないかもしれない。
あくまで可能性の話だ。俺はコーヒーの口を切り、啜った。コーヒーはまだ温かかった。俺はやはりこの場所へ来ることになっていたんだ、と俺は確信した。
「どこかで会ったか?」と俺は尋ねた。
「会っているさ」と口の端に笑みを浮かべながら男は答えた。「一ヶ月前、駅のそばの公園で」
「公園?」
俺はすぐに思い当たった。葵の出発前夜、葵を待っていた公園の片隅で取りつかれたようにギターを弾いていた男がいた。それがいま目の前にいるこの男だった。
「あの時の……」
「その後も、それよりずっと前にも、私たちは会っている」と男は言った。
「どういう意味だ?」
あの時以来今まで、男を見かけた覚えはなかった。もちろん、あれ以前に俺たちが会っていた覚えもない。
「言葉の通りさ。私はあんたをずっと前から知っている」
「あんた、一体誰だ?」
男は俺の質問には答えずに、静かにギターを弾き始めた。ビートルズの『ブラック・バード』だった。俺はフェンスに寄りかかりながら男の演奏に耳を傾け、タバコに火を着けた。上を見上げて吐き出した煙は、夜の空に溶け込むよりも早く風にさらわれた。ポール・マッカートニーがこの曲を作ったのは、もう四十年も前のことだった。彼は四十年後も自分の書いた曲が歌われ続けることを知っていたのだろうか?
「あんた、カラスの知り合いはいるか?」
その曲を弾き終わると男が言った。
「カラス?」
俺には男の言っている意味がわからなかった。「あいにく、カラスに知り合いはいない」
「でもカラスはあんたのことを知っている。あんたの気づかないところで、あんたのことを見ている」
「つまり」と俺は言った。「あんたはカラスなのか?」
「例えばの話だ」と男は言い、笑った。
俺たちの会話に合わせたように、どこかそう遠くない場所でカラスが鳴いた。こんな夜中に、カラスは一体何を求めて鳴くのだろう?
「もし」と俺は言った。タバコに火をつけていた男は、目だけを俺のほうに向けた。「太陽がこの世界を照らすことをやめてしまったら、月はどうやって輝けばいい?」
「例えばの話かい?」
男はタバコを長いこと吸い、ため息と一緒に煙を吐き出した。「月が世界を照らし出すときに、太陽は世界を照らしてはいない。月は自分と太陽が同じ世界に生きていないことを知るべきだ」
今度は俺が笑う番だった。
「答えとして不十分だったか?」
男が俺につられるように笑みを浮かべながら、尋ねてきた。
「いや、十分だよ」と俺は言った。「あんたは俺のことをずっと見ていたんだろう? だったらついでにもう一つ訊きたいことがあるんだ」
「訊くのはあんたの自由だ。答えるかどうかは私の自由だ」
「俺はどうしたらいい?」
男は俺の質問にすぐに答えることはせず、黙って空を見上げた。気づくと風は凪いでおり、雲の合間から星空さえ覗いていた。どうやら台風の目に入ったらしい。
「私だったら」と男がおもむろに口を開いた。「私だったら、道に迷ったときは元いたところに戻ってみるね。そしてできるだけ高くて見晴らしのいいところに登るんだ。そうすれば、自分が進む道の先が見えるかもしれない。他には?」
「いや、もう十分だ。あとは自分で考えてみるよ」
「それだよ」と男は言った。「誰かから助言を受けることはできる。でも答えをもらうことはできない。それは自分で考え、決断するものだ」
男は立ちあがると、落としたタバコをつま先で踏みつけた。
「私は今のうちに帰るが、あんたはどうする?」
「もう少しここにいる」
俺はそう言って、空を見上げた。瞬く星の数はさっきよりもさらに少し増えていた。
俺が空を見上げるのをやめたとき、すでに男の姿はなかった。椅子だけがぽつりとそこにあった。
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