私 2007年10月
第五章
扉には鍵がかかっていた。私は腕時計で時間を確認した。七時半を少し回ったところだった。私はスーツケースを立て、通りのほうを向く格好でそれに腰掛けた。ちょうどそのときに聞き覚えのある声が言った。
「おや、来ていただけたんですね?」
見ると、一ヶ月前とまったく変わらない風貌の老紳士がそこに立っていた。それで私は少し安心した。
「えぇ、約束ですので」
もちろん、単に約束を果たすために来たのではなかった。しかし、老紳士はそれを聞くと嬉しそうに微笑んだ。
「それはありがとうございます。それにしてもお早いですね?」
「これから行くところがあるので」
老紳士は鍵を鍵穴に差し込みながら、私の傍らにあるスーツケースに目をやった。
「ご旅行ですか?」
「少し旅に出てみようかと思って」
それを聞くと、彼は手を止め、私の顔を見つめた。
「それは結構です。ある人は問いを求めて旅をし、ある人は答えを求めて旅をするそうです」
彼はそう言うと鍵を回した。カチャリという音がして、鍵が外れた。
彼は上着をフックにかけるとカウンターの中に入った。私はこの間と同じ席に座った。
「それではあまり時間はないのですか?」と店主は尋ねた。
「そうですね」と私は答えた。「でも、もしよければサンドウィッチもいただけますか?」
「もちろんです」
店主は微笑みながらそう言い、コーヒーを差し出した。香ばしい香りが私の鼻をくすぐった。
店内は一ヶ月前と何ら変わっていなかったが、朝の光のなかでは異なった印象を私に与えた。食器棚の中の食器は陽光を受けて煌き、空気は澄んでいた。私はほんの一瞬だけ、自分が森の木立のなかに建つ小屋にいるような錯覚を覚えた。耳を澄ませば、鳥たちの囀りや木々のざわめきが聞こえそうな気がした。私はふと思い出して、カウンター横の壁に目をやった。そこにはあの絵が変わらずあり、男は今でも木立の中で四辻を前に思索していた。
「お待ちどおさまです」
店主のその声で私は我に返った。見ると、私の目の前にはすでにサンドウィッチが置かれていた。私は礼を言って、それを手に取った。
「どちらへ行かれるのですか?」と店主が尋ねた。
「北海道に行こうかと思ってます」
「ほう、それはいいですな」
店主は幾分驚いたように言った。「よく行かれるんですか?」
「えぇ、昔いたことがあって」
店主はじっと私の目を見つめながら小さく頷いた。
「私も何度か行ったことがありますが、いいところです。そろそろ紅葉が始まるころでしょう。実は、私の友人もこの間北海道に向けて旅立ちましてね」
店主はそう言うと、まるでそこにその友人の面影を探すように、自分の隣の空間を見つめた。
「そうですか。その人は今も北海道に?」
「えぇ、そう思います。少なくとも帰ってはいません」
「どちらなんでしょう?」
「はい?」
「その人が求めているのは」
店主は窓の外に目をやった。彼の視線の先には、もちろん群生する木々や跳ね回るリスはおらず、代わりにコンクリートで舗装された道の上を自動車が行き交っていた。スーツに身を包んだサラリーマンが足早に通り過ぎていった。
「さて、どちらでしょうな……」
私は腕時計で時間を確認した。八時を少し回ったところだった。私は立ち上がると店主に千円札を渡した。
「ごちそうさま」
店主は微笑み、それを受け取った。
「お約束どおり」
「また来ます」と私は約束し、店を出た。
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