俺 2007年10月
第13章
ちょうど回鍋肉が出来上がり、コンロの火を消した時に、玄関の扉をノックする音が聞こえた気がした。初めは風の仕業だろうと思い無視したが、少しの間があってから、さっきよりもはっきりと、コン、コン、と扉をたたく音がした。俺の頭にまず浮かんだのは葵だった。前に葵が袋一杯のアルコールを持ってきた時のことを思い出した。しかしすぐに、そんなはずはないじゃないかと自嘲し、それでも葵ならやりかねないと期待し、最終的にどっちつかずの気持ちのまま玄関の扉を開けた。
そこにいたのは全身黒の装いをした中年の男だった。扉を開けるまで少しの間があったせいか、今まさに踵を返そうとしていたところだった。小脇にこれまた黒のセカンドバッグを抱えているのが見えた。
「お兄さん、新聞いらない?」
俺がその人物の正体に気づくのとほぼ同時に男が言った。外灯が暗いのと、男の肌が人並み外れて黒いせいで、ほとんど黒一色に見えた。まるで喋っているのは男の影で、本体はどこか別のところにあるみたいだった。
「彼女だと思ったら、こんなおじさんで、がっかりしたか?」
きっと俺の顔に、がっかりしたと書いてあったのだろう。男はあまり品がいいとは言えない笑みを浮かべて、そう言った。
「いや、突然来るのは新聞の勧誘くらいだから」
知っていたはずだろう、と俺は心の中で自分を罵った。
「あとは、台風と地震か。今日はそのうちの二つが一緒に来たわけだ」
男がめでたそうにそう言った時、風が一層強まり、挨拶代わりとでも言うように築十年のアパートを震わせた。俺はこういったタイプの人間に多く見られる図々しさや粗野な態度が苦手だった。控えめに言って、面倒で厄介な状況だった。せめて地震は来ないようにと祈った。
「面倒なことになったって思ったか?」
俺は驚いて男の顔を見た。目の前の男は、俺が思っている以上に明敏らしかった。あるいは、この男が玄関先に立つと、住人は百人が百人同じ反応を示すのかもしれない。
「控えめに言って」
どこまで親しげに話していいものかわからず、曖昧に俺は答えた。その時、隣の部屋の扉が開く気配があった。
「あとで行くから」
男が左手を挙げながら声を張り上げた。どうやら、アパートの同じ階の扉を全て続けざまに叩き、出てきたところから勧誘する手法を採っているらしかった。だから好きじゃない、と俺は思った。「え、あ、はい」という困惑した返事のあと、扉が閉まる音がした。
「随分と遅い晩飯だね」
男はこちらに向き直ると、コンロの上の回鍋肉を見つけて言った。「で、新聞。いらない?」
「新聞は読まないんで」
「お兄さん、学生でしょ? 社会に出る前に、新聞読む習慣付けたほうがいいよ。ほら、時事ネタとか、知っておいたほうがいいでしょ?」
どうしてあんたにそんなこと言われなきゃならないんだと俺は思った。だいたい、あんたは自分とこの新聞を読んでるのか? 腹立たしいというよりは、笑いたい気分だった。少し前に、執拗な訪問販売や客引きを規制する法律が制定されたというニュースをやっていたのを思い出した。あんたのとこの新聞はそれを記事にはしなかったのか?
「わかった」と男は俺が拒絶の言葉を口にする前に捲くし立てる。「じゃあ、特別に三ヶ月契約してくれたら、一か月分は無料でいいよ」
男が「特別」と言ったその言葉には、明らかに使い古された形跡があった。
「じゃあ、三百年分契約するんで、初めの百年は無料にしてください」
俺が面倒くさくなって投げやりにそう言うと、男の顔が一瞬引き攣ったようになったが、次の瞬間にはそれまでより一層下品な笑みを顔中に浮かべた。
「お兄さん、面白いこと言うね」
男はそう言うと、すっと俺の前を立ち去り、隣の部屋の扉を左の手のひらでバシバシと叩いた。もう俺に目を向けようともしなかった。どうやら、俺への用は済んだらしかった。
俺は扉を閉め、「だから嫌いなんだ」と呟いた。意識しないうちにこぼれた言葉だった。人と人との会話には然るべき始まり方と終わり方があるべきだ、という常識を彼らは持ち合わせていなかった。ライオンとシマウマの間にだって、もう少しまともなコミュニケーションがあるはずだ。
「だから嫌いだ」
あの男は、ああやって何百軒という他人の家の扉を叩き、彼らの貴重な時間を強引に奪い、彼らの心に言いようの無い腹立たしさを残してきたのだろうか? 俺はまだ辛うじて湯気を上げている回鍋肉を皿に盛りながら、そんなことを考えた。だとしたら、その罪は銀行強盗なんかよりよっぽど重いはずだ。俺は隣人に同情した。
回鍋肉を全て胃袋に送り込んだあとも、胸の辺りに留まったわだかまりは消化されなかった。使った食器を流し台の中に置き、蛇口をひねって水をかけながら俺は考えた。葵は何のために外国へ行ったんだろう? この世界が嫌になったのか? 俺は先ほどの新聞勧誘員のどす黒い顔を思い出した。葵はいつも笑いながら、この世界から抜け出すことを考えていたのだろうか?
「社会に出る前に新聞を読んだほうがいい」と言った男の言葉が蘇る。社会に出るとか、社会人という言葉が俺は嫌いだった。じゃあ、今俺たちが生きているこの世界は何なんだ? 人々はよく「学生のうちは」とか、「社会人になるんだから」と俺に向かって言う。まるで俺を井の中の蛙のように扱う。きっと大人たちは、葵の行動や俺の考えを「甘い」だとか、「社会に出たら通用しない」という言葉であしらうだろう。大海に出れば、井戸の中がいかにちっぽけだかわかると言うかも知れない。確かに、井戸の中に波は立たない。水も生温い。だけれども、少なくともここにはきれいな水がある。それに比べて、井戸から覗いた大海は進んで井戸を捨てたいと思うほど、美しくもなければ魅力的でもなかった。住んでいる当人たちはそれを大海と呼ぶかもしれない。しかし、傍から見れば、それはむしろ捌け口を失い、淀んだ巨大な水溜りに近かった。
大海の住人たちに問いたい。
「その水は本当に誇れるほど澄んでいるか?」
俺は蛇口を閉めると、財布も持たずに外へ出た。
風は相変わらず強かったが、雨はそれほど降ってはいなかった。いつものこの時間ならごった返している駅前の商店街も、今日はさすがに人影もまばらだった。それでも、居酒屋の店員たちは何とか客を呼び込もうと必死だった。
「お兄さん、一杯どう?」
若い男の店員が、なれなれしい口調でビラを渡そうとしてきた。どこか、小さくてきかない犬を思わせるような態度と喋り方だった。俺はそれを無視して先に進んだが、他にめぼしいお客様候補がいないからか、その店員はかなりしつこく食い下がってきた。
「風、やばいっすよ。うちの店は地下だから安全なんで」
意味のわかるような、わからないような文句を並べる。
「悪いけど、台風の日は地下に潜るなって言うのが、死んだお祖父ちゃんの最期の言葉なんだ」
俺はでたらめに言った。
「はは、お兄さん、面白いこと言うね」
「ついさっきも同じことを言われたばかりだ」
「じゃあ、うちの店の姉妹店があそこのビルの三階にあるんだけど、そっちに行かない? ビリヤードの台が置いてある、所謂プール・バーってやつなんだけど。お兄さん、ビリヤードやる? それとも、お祖父ちゃんの遺言で禁止されてるかな?」
そう言いながら、彼はキューでボールを突く仕草をして見せた。どういうわけか、彼は「プール・バー」よりも、むしろ「所謂」のほうを外来語みたいな発音で言った。
「今思い出したけど、昨日の夜にブライアン・ジョーンズが枕元に立ってこう言ってた。『クスリとプールには気をつけろ』」
「え、誰?」
「死んだロックンローラーだ」
「死んだ人の言葉を守るんだ?」
「死んだ人は偉大だ」
むしゃくしゃしていた俺は、犬のような店員とのナンセンスな会話を一頻り面白がったが、彼が解放してくれる気配を見せないので、さすがに煩わしくなって言った。
「ねぇ、あまりに執拗な客引きは違法だって知ってる?」
「え、そうなんすか?」
店員は、だから何なんだ、というふうに感情のこもらない声を上げた。
「新聞を読んだほうがいい」
俺はそう言うと、歩くスピードを上げた。店員はもう付いては来なかった。
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