第12章
茶色の扉の前に立ち尽くし、タバコをたっぷり三つ吹かしてから、ノブに手を伸ばした。開くことを期待していたわけではなく、むしろ扉が閉まっていることを確かめるためだった。しかし、俺の手がドアノブに触れるよりもわずかに早く、扉が勢いよく開いた。俺は驚いて思わず後退った。出てきたのは、金に近い茶髪に蒼白い顔をした女性だった。彼女は俺を見ると驚いたように一瞬息をのんだが、すぐに平静を取り戻し、落ち着いた声で言った。
「どなた?」
声を失っている俺を訝しげに見ながら、彼女は続けた。「新聞ならいらないわ」
「いや、あの、ここ日向さんちですよね?」
「昔の話よ、両方とも」
彼女はそう言いながら、俺のことをつま先から頭の先まで一通り見回した。それから何かを思いついたように俺の顔を見た。「あなたひょっとして、ニコ?」
「そうですけど、どうしてそれを?」
そう言いながら、俺は一つの可能性に行き当たった。
「ちょうどよかった。あなたとは一度話をしたいと思ってたの」
彼女は俺の質問には答えずにそう言うと、ふっと笑みを浮かべた。そして扉を大きく開き、俺に中に入るように促した。
「ひょっとして、葵のお母さんですか?」
「そうよ。そう言えばまだ名乗ってなかったけど、よくわかったわね?」
「笑った顔がよく似てます」と俺は言った。
「あら、そう? 知らなかったわ」と彼女は言った。「だから安心して入ってちょうだい。タバコもそのままでいいわ」
俺は言われたとおりにした。
彼女はクッションを床に無造作に置くと、俺にそこに座るように言い、自分はフローリングの上にあぐらをかいた。そして、どこからか持ってきた空き缶を俺と彼女のちょうど真ん中に置いた。
「ちょうどタバコが切れて、買いに行こうとしたところだったのよ。悪いけど一本もらえるかしら?」と彼女は言った。
俺がタバコを差し出すと、彼女はそこから一本だけ抜き出し、自分のライターで火をつけた。
「見てのとおり、何にもないのよ」と彼女は言った。
彼女の言うとおり、部屋の中には家具らしい家具はほとんどなかった。空のカラーボックスと、テレビの載っていないテレビ台、大きな段ボールが三つ、そして壁に掛けられた時計がその部屋にある全てのものだった。以前に何度か訪れた葵の部屋は物で溢れていたことをよく覚えていた。がらんどうとしたその部屋は、主が確かにそこを去ったことを示していた。
「どこか喫茶店にでも行ったほうがよかったかしら?」と彼女は言った。
「いえ、ここで結構です」と俺は言った。
彼女は大きく煙を吐き出した。
「さて、何から話したらいいかしら?」
「どうして俺の名前を?」
「あの子から何度か聞いたことがあるわ。高校の時から一緒でしょ?」
「そうです」
「あの子、あなたのこと気に入ってたみたいよ」
俺は何と答えていいかわからず、「仲は良かったです」と言った。
「あの子が今何してるかは知ってるのよね?」
彼女は俺の目をまっすぐに見つめて言った。
「ええ、知ってます」
「あの子から聞いた?」
「いえ、人づてに」
彼女は口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「やっぱり、そう。あの子、そういうところがあるのよ。大切なことを隠すの。特に大切な人に対してはそう」
「ええ、知ってます」と俺は静かに言った。
しばらくの間、部屋の中に沈黙があった。俺は彼女が何か言うのを待っていた。日が一層傾き、白い壁を赤く染めていた。
「私たちのせい」
自分のタバコから煙が上るのを見ていた彼女は、やおらそれを空き缶の口に押し付けて消すと、そう言った。
「私とあの子の父親の罪なの」
「どういうことですか?」
彼女の言い回しに違和感を覚えながら、俺は尋ねた。
「あの人は厳しい人でね。厳しいっていうのもちょっと違うんだけど、私やあの子を自分の思うようにコントロールしないと気が済まない人なの。特にあの子に対しては異常なほど」
「どんなふうに?」
「門限から、着る服から、付き合う人間から、とにかく全てよ。高校の時のあの子の門限、何時だったか知ってる?」
俺は一緒に買い物に行ったことや深夜に学校に行ったことを思い出した。門限があったとは思いもしなかった。
「さあ」
「七時よ。カラスが鳴くより前。小学生だってまだ遊んでるわ」
「でも部活やってましたよね? バレーボール」
「部活が六時半までで、家まで二十分」
「家に帰ったら、お父さんが玄関の前で仁王立ち?」と俺は訊いてみた。
「それなら問題は単純よ。『日向家は厳しい家風だった』。それでおしまい」
「実際には違った?」
「あの人は決して家にはいないの」
「七時には帰ってきてないってことですか?」
「七時どころか、あの人が家に帰ってくるのなんか週に一日あるかどうかよ。そのほかの日は……わかるでしょ?」
彼女は心底うんざりしたようにため息を吐いた。
「それじゃあ、門限っていうのはあってないようなものなんじゃ?」
「毎晩七時に必ず電話を遣すのよ。そして葵を電話口に出させるの」
「なるほど」と俺は言った。
「看守が定時に巡回するのと同じよ。囚人がちゃんと檻の中にいることを確かめたら任務完了。あの子の代わりに言うけど、親子の会話らしいものなんて聞いたためしがないわ。結局のところ、あの子に関心なんてないのよ、率直に言って。着る服や付き合う人間について口出しはしても、実際にどんな服があの子の箪笥に入ってるか、どんな人と仲がいいのかなんて知りもしないの。ねえ、あなたにはそういう感覚わかる? 同じ男として」
彼女の言葉にはここにはいない彼女の夫へと憤りが込められていて、それを代わりに受け止めている俺は問いただされているような気分になる。
「興味がないのに干渉する?」
「そう」
「わかりませんね、全く」と俺は率直に言った。
「そう、安心したわ」と彼女は言い、微笑んだ。「とにかく、そういう人間が実際にこの世にはいて、それがあの子の父親だったのよ、不幸にもね」
もう一本もらっていいかしらと彼女が言った。俺は箱ごと彼女に渡した。
「高三の時に一度、夜中にあの子が家を抜け出したことがあったの。私が台所にいたら勢いよく玄関のドアが閉まる音がして、きっとわざと音を立てたんでしょうね。行ってみたらあの子の靴がなくて、代わりに置き手紙があった。そう、今思い出したけど、ちょうど七夕の夜だったわ。八月七日。『今日だけは見逃して。七夕の夜だからいいでしょ?』そう書いてあった」
そこまで言って、彼女ははっとしたように俺の顔を見た。「ひょっとして、それってあなたに関係してるのかしら?」
宮元が言った「母親の勘」という言葉を俺は思い出した。
「そのとおりです」
俺はその日が俺の出発前夜だったことや、葵が俺を呼び出したことを告げた。
「そうだったの……」
彼女はそう言ったまま、口をつぐんだ。話の続きをすることを躊躇っているようだった。
「どうぞ続けてください」と俺は言った。
「でもあなたにとって気持ちのいい話じゃないかもしれない」
「構いません。聞かせてください」
彼女はタバコを一つ深く吸い、決心するように二度頷くと、再び話し始めた。
「普通なら、あの子が抜け出したことがあの人にばれることはまずないはずだった。さっきも言ったとおり、あの人は夜はめったに家には帰ってこなかったから。ましてやその日の前日にあの人は一週間ぶりに家に帰ってきてたから、あと一週間は安全なはずだった。でもどういうわけか、その晩あの人は帰ってきたのよ。恥ずかしながら、あの人が二日連続で帰ってくるなんて奇跡的な確率よ」
彼女はそう言って蔑むように笑った。俺も彼女に合わせて口元を緩めた。
「でもそれはあの子にとっては悲劇的に不幸なことだった。あの人は寝てる私を叩き起こして問い詰めた。文字通り叩くのよ。『あいつはどこだ』、『何か知ってて隠してるならただじゃおかない』って。ほとんど狂気だったわ。私はただ、知らないって繰り返した。あの人はその晩はどこへも行かずに、居間で一晩中起きてた。でもその夜あの子はとうとう帰ってこなかった。帰ってきて、あの人がいるのに気づいてどこかへ行ったのかもしれないけど……とにかく、それから一ヶ月あの子は家には帰ってこなかったわ」
「一ヶ月?」
俺は驚いて言った。
「うん。その日以来、あの人は毎晩七時には必ず家にいるようになったけど、あの子は一ヶ月の間帰ってこなかった。私やあの人がいない昼間に服や何かを取りに来てるみたいだったけど」
「それで?」
「それで、一ヶ月後に顔を合わせるなり、あの人はあの子を突き飛ばしたの。何も言わずに突然力一杯。そして床にうずくまる自分の娘に見向きもしないで、あの人は家を出て行った。あの子はあの人に言いたいことがあったかもしれないのに、あの人はあの子の話を聞こうともしなかった」
彼女は目を覆うように、額に手をやった。涙ぐんでいるらしかった。しばらくそのままの格好で耐えた後、短くなったタバコを空き缶の中に落とした。
「その日以来、あの人が家に帰ってくることはさらに減ったわ。七時の電話もなくなった。あの子も七時までには帰ってこなくなった。深夜だったり、時には帰ってこなくなったり。私はそのことに関してあの子を叱ったりはしなかったけど、あの子と私の関係も少しずつぎくしゃくするようになっていった。それまで何とか持ってた泥舟がついに沈み始めたわけ。そして私たちは別れた」
「別れた?」
「離婚のこと」
俺は驚いて彼女の顔を見た。
「離婚されてたんですか?」
その言葉に今度は彼女が驚いたようだった。
「あなた、知らなかったの? あの子が大学に入学してすぐのころよ。あの子の今の名字は渡辺。渡辺葵。知らなかった?」
「全然」と俺は言った。
俺は葵と出会ってから今までずっと下の名前でしか呼んだことがなかったし、まさか名字が変わっているなんて思いもしなかったから気にしたこともなかった。
「だから、あの子が『ひまわり』だったのも、ここがあの子のうちだったのも、両方とも昔の話」と彼女は言った。
それから彼女は壁の時計を見て、そろそろ行かなくちゃと言った。
「ホテルに泊まってるのよ」
ここに寝泊まりしないことを不思議に思いながらも、きっと彼女なりの理由があるんだろうと思い、そのことには触れなかった。
「ここにある荷物はどうするんですか?」と俺は尋ねた。
「捨てるわ」と彼女は言った。
「全部ですか?」
「そう、全部。何か欲しいものがあったら持っていっていいけど?」
俺は首を横に振った。彼女は笑い、「そうよね」と言った。
「私、あの子に言ったのよ」
駅までの道を歩きながら、彼女が言った。
「気が変わったらいつでも戻れるように、しばらくの間は家賃払っておくからって。家具やなんかも全部あの子が出て行ったときのままにしておいたの。とは言っても、旅費を捻出するためにほとんど売っちゃってて、残ってなかったんだけど。本当はもう少し待つつもりだったんだけど、意外と早く決心がついて、と言うよりもわかっちゃったのよね。あの子はもう帰ってこないんだって。それで片付けることにしたの」
「お母さんは今はどうしてるんですか?」
「私? 私はホテルに泊まってるわ」
「いえ、そうじゃなくて」
「あぁ、今は夜の仕事をしながら札幌で暮らしてる」
「お一人で?」
「ううん、正確に言うとそこは私の家じゃなくて、彼の家」
「彼?」
「そう。私が前の会社を辞めるのとほとんど入れ替わりで入ってきた新卒の男の子がいたんだけど、その人と一年位前にばったり再会したの。それからちょくちょく会うようになって、今は真剣にお付き合いしてるわ」
「あの、お母さんが会社を辞められたのっていつですか?」
俺は余計なお世話とは知りつつも、気になって訊いてみた。
「あの人と別れてすぐだから、三年半くらい前よ」
俺は頭の中で簡単な計算をいくつかしてみた。
「二十六よ。それって犯罪?」
そう言って彼女は笑った。
「まさか」と俺は言った。
「ところで、私のこといくつだと思ってる?」
「え?」
「いくつに見える? 客観的に見て」
それは実は、一目見たときから俺が気になっていたことだった。大学生の子を持つ親にしてはかなり若いことは確かだった。ただ、疲れた目元が判断を迷わせるところだった。
「四十」と俺は言った。
「客観的に見て?」
「とは言っても、大学三年の娘さんがいることを知ってますしね」
「三十八」
「三十八?」
俺は驚いて彼女の顔を見た。
「じゃあ、葵は?」
「十七のときの子」
「十七……」
俺は自分が十七のときを思い出してみた。結婚なんていうのは、遥か遠いよその世界で使われている言葉だった。今だってそうだ。
「まあ、及第点をあげるわ」と彼女は言った。
「ありがとうございます」と俺は言った。
ちょうど下りの電車が着いたらしく、単線の小さな駅からはサラリーマンが黒い波のように吐き出されていた。
「一つだけ聞きたいことがあるんですけど」と、手首の内側にした腕時計を見つめていた彼女に向かって俺は言った。
「年齢よりプライベートな領域はNGよ」
そう言って彼女は笑った。
「お母さんの罪は何だったんですか?」
「え?」
「葵が、その、放浪することになったのは、『私たちのせい』だって言いましたよね? そのことでのあなたの罪って何ですか?」
彼女は俺の顔をしばらく見つめたあと、噴き出すように笑った。
「あなたって面白い人ね」
「誉め言葉として受け取っておきます」
「そうね」
そう言うと、彼女は星が瞬き始めた空を見上げた。「何もしてあげられなかったことかしら。あの子の気持ちをわかってあげられなかったこと。あの人を父親にしてしまったこと。そして何よりあの子を幸せにしてあげられなかったこと。数えられないくらいあるわ」
「後悔してるんですか? 結婚したこと」
「どうかしら? そうかもしれないわ。でもあの子を産んだことは悔やんでないわ。あの子が私の子であることは私の誇りよ。私の唯一の功績。そして私の希望」
そこまで言って、彼女は耐えられなくなったように笑った。「らしくないわね。芝居じみてる」
「でも、俺の知ってる葵はいつも幸せそうでしたよ。たぶん本当に幸せだったんだと思う」
彼女は俺の顔を見て静かに微笑み、「それはあなたのおかげかもね」と言った。
「今日は会えてよかったわ。色々驚かせちゃったみたいだけど」
「ええ、それは間違いないですね。目隠ししたままジェットコースターに乗った気分です」
そう言うと彼女は笑った。
「話してみて、あの子があなたのことを気に入った理由が少しわかった気がする」
「そうですか?」
「私があの子でもやっぱりあなたのことを気に入ったでしょうね」
「光栄です」と俺は言った。
「今度会ったときは、どこかでゆっくり話したいわ。お酒でも飲みながら」
「喜んで」
彼女は改札を越えると、一度振り返って短く手を振った。その一瞬、俺は葵の面影に立った気がした。
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