俺 2007年9月
第11章
ちょうど電車を降りたときに携帯電話に着信があった。俺は画面を確認してから電話に出た。
「もしもし」
「もしもし。俺だけど、宮元」
「あぁ、どうした?」
「お前、今暇?」
「突然電話してきて『暇?』とはぶしつけだな。あいにく暇だ」
「じゃあ今から軽く飲もうぜ。そっちに行くから」
俺はホームの天井から吊るされた時計に目をやった。七時半だった。
「今ちょうど駅にいるんだ。だから俺がそっちに行くよ」
「あぁ、そう? したっけ、駅で待ってるわ。悪いな」
「じゃあ後で」
俺はそう言うと電話を切り、今降り立ったホームに戻った。
宮元とは高校二年の時に同じクラスになった。俺の交友関係の幅はどちらかと言えば限られたほうだったが、その中でも宮本は最も仲の良かった友人の一人だった。彼は俺より一年早く皆とともに高校を卒業し、八王子にある四年制大学で工学について学んでいた。俺は工学については雀の涙ほどの知識もなかったが、彼にはそれがしっくり来ているように思えた。
俺が上京してからも、お互いの家が中央線で一本のところに位置していることも手伝って、時たまどちらともなく誘い合って映画や飲みに行くことがあった。しかしその場合も、前もってメールで日にちを決めてから会うというのが常であって、突然電話を遣して、「今から会おう」というのは珍しいことだった。そして俺はそのことに「珍しい」という中立的な印象以上のものを感じたのだった。
宮元は改札を出たすぐのところで俺を待っていた。俺を見つけると笑顔を見せはしたものの、やはりその表情にはほのかに暗い影がある気がした。
「久しぶり。何でスーツ着てんの?」
俺がそばに来ると、挨拶もそこそこに宮元が訊いた。
「あぁ、就活だよ。企業説明会」
「へぇ。就活って大変なんでしょ?」
彼は今四年だったが、院に進む予定だった。
「あぁ、らしいね」と俺は他人事のように言った。
「和成はまだ三年だろ? 三年の夏休みに、もう説明会なんかあるのかよ」
「らしいね」
「それは間違いなく大変だよ」と宮元は俺の肩に手を置きながら、同情するように言った。「で、どんな職種考えてんの?」
「まだこれといって決めてない」
俺はいつもどおり曖昧に否定した。それに対して、宮元は「ふぅん」と言っただけだった。
「どこに行きたい?」
「え?」
「今日のことだよ。どこか行きたい店ある?」
「あぁ。これといってない。任せるよ」
俺がそう言うと、宮元は少し考えてから歩く方向を変えた。
宮元が俺を連れていったのは、大きな通りから路地に入り、二つ角を曲がった先にある小さな焼き鳥屋だった。「値段の割に味はいい」と暖簾をくぐる前に宮元が言った。
店の中に入ると、なるほど席はほとんど埋まっており、サラリーマンと学生が半々を占めていた。席に着くと俺たちは二人ともビールを注文した。
「飯は?」と宮元が俺に尋ねた。
「さっき食べたから、俺のことは気にしなくていい」と俺は答えた。
それを聞くと彼は黙って頷き、ビールを運んできた店員に串の盛り合わせを頼んだ。「全部塩で」
俺はもっぱら聞き役に回り、宮元が提供する話題に沿って時折発言した。彼は俺の就活のことを尋ねたり、最近のニュースについての話をしたりした。彼はいつもの五割増しくらいのスピードで酒をあおっていた。どうやら気の置けない話をしながら、本筋に入るべきタイミングが訪れるのをせっかちに待っているらしかった。だから俺も串をつまみつつ、大人しくそのときを待った。何事をするにも確かにそれをするべきタイミングというのはある。それを計って得るのは難しいことは知っていたが、それでもそうするほかに方法がないこともまたわかっていた。それが重大な意味を持つ事柄の場合には殊更そうだ。
串がなくなったところで、宮元は残ったビールを勢いよく飲み干し、新しいビールを注文した。俺が知る限り四杯目のビールだった。俺は三杯目をほとんど手付かずのまま持て余していた。彼が煙草の箱を取り出したのをきっかけに、俺も自分のをくわえて火を着けた。宮元は取り出した一本には火を着けず、手の中でもてあそんでいた。
「お前、日向から何て聞いてる?」
日向というのは葵の名字だったが、彼がそれを口にした時、咄嗟にはぴんと来なかった。ワンテンポ遅れて、あぁ、葵のことかと思い、次に葵と出会って間もないころに交わした会話を思い出した。俺が「『ひなたあおい』って漢字で書くと『ひまわり』だね」と言うと、「よく言われるけど、『ひまわり』は『向日葵』よ」と葵が言った。「あぁ、そうか、紛らわしいね」と言うと、「余計なお世話よ。あたしは気に入ってるんだから」と言った。その会話に思わず微笑みそうになるのを堪えながらも、今ここで葵の名前が出てきたことに不穏な気配を感じた。
「何って、何が?」と俺は恐る恐る尋ねた。
「あいつが今どうしてるかとか、そういうこと」
「イギリスに留学してるんだろう? そして一年後の来年の夏に戻ってくる。それ以上のことは知らない」
宮元は少しの間俺の表情を伺っていたが、俺が本当にそれ以上のことを知らないことを見て取ると深いため息をついた。
「いいか、落ち着いて聞けよ。まぁ、お前なら取り乱すようなことはないだろうけど」
そう前置きすると、宮元はようやく煙草に火を着けた。俺はビールを一口飲み、喉の渇きを癒した。
「ほら、俺と日向って中学から一緒で家も近いから、母親同士が仲いいんだよ。それで、時々日向の母さんがうちに遊びに来るんだけど…いいか、ここからは電話で母親から聞いた話なんだけどな」
「いやに前置きの長い話だな」
宮元の話し方から感じる重苦しい雰囲気に耐えかねて、俺は茶々を入れた。しかし宮元は取り合わずに続けた。
「少し前にも日向の母さんがうちに来て、やけに疲れた顔してるから、うちの母親がわけを聞いたら」
宮元はちらっと俺の表情を伺った。「日向は留学に行ったんじゃないんだとさ」
俺は吸い込んだ煙を肺に残したまま、宮元の顔を見た。
「どういうことだ?」
「イギリスに留学してるっていうのは嘘なんだ。あいつは今この星のどこかを放浪してる」
「放浪?」
宮元は頷いた。
「大学入ってからバイトで貯めた金を元に、旅に出たんだってよ。確かに最初の行き先はイギリスで、それは親にも教えてあったらしい。でもそれからどこに行くかは向こうで考えるって言ったらしいよ。とりあえず同じ場所に一年留まるつもりはないって。今もイギリスかもしれないし、チリにいるかもしれない」
「葵の母親は知ってたってことか? あいつが放浪の旅に出るつもりだってことを」
「あぁ。初めはあいつ、親にも隠してたらしいよ。って言うよりも、親にも言わずに旅立つつもりだったみたいなんだけど、さすがに日向の母さんがどうもおかしいって感づいて、問いただしたらしい。母親の勘ってやつだ」
「それで当然やめるように言ったんだろう?」
「あぁ。最初は本気にしてなかったんだけど、日向が真剣で、そのうえ決心が固いってことがわかると、毎日のように電話して説得したんだってさ。何度か直接こっちにまで着たりもしたらしい。それでもあいつの決心は変わらなかった」
俺は葵が出発する前々日に会ったときに、親が北海道から出てくると言っていたことを思い出した。あれは見送りのためではなく、説得をするためだったのか。
「どうして、なんでそこまでして」
「それはわかんないよ。誰にもわかんない。日向本人以外には。よっぽどの理由があったんだろ」
「それでいつ戻ってくるんだ?」
「それもわかんない。戻ってくるかどうかも」
そう言うと、宮元は思い出したように煙草を口に運んだ。
「でも、バイトで貯めた金なんてたかが知れてるだろう? 直に底を突いて帰ってくるんじゃないのか?」
「貯金は三百万あったらしい」
「三百?」
俺は危うく煙草を落としかけた。「あいつ、そんなに貯めてたのか?」
「夜の仕事もしてたらしいよ」
宮元ができるだけ何でもないことのように言った。
「一年そこそこで尽きるってことはないんじゃないか? それに向こうで何かしら仕事を見つければ、何年でもやっていけるだろ。あいつのことだから、やっていけるどころかビッグビジネスを起こすかもしれない」
そう言って宮元は笑った。しかし俺の表情を見ると、真顔に戻り、慰めるように言った。
「いいか、これはあくまで又聞きだから、百パーセント真実ってわけじゃない。実際はそんなに長い旅にするつもりはなくて、一年経ったら帰ってくるかもしれないしさ」
「又聞きって言ったって、お前の親が葵の母さんから聞いた話だろ?」
「まぁ、そうだけど」
「そして葵の母さんは葵から直接聞いた。いつ戻るかはわかんないし、戻るかどうかもわかんないって」
「そうだ」
「それなら百パーセント真実だろう。葵はいつここに戻るかわからないし、戻ってこないかもしれない」
宮元は黙っていた。そこに店員が新しいビールを運んできた。宮元が無言のまま受け取った。
「あんまり深刻に考えすぎるな」
それを半分ほど飲んでから宮元が言った。「旅に出ることも、それを誰にも伝えないことも、あいつが決めたことなんだ。俺たちにはどうすることもできないだろ?」
「わかってる」と俺は言った。わかってる。
「まぁ、帰ってくるように説得するのは自由だけど、何も変わらないと思う」
「説得も何も、連絡の取りようがない」
俺がそう言うと、宮元は少し驚いたような表情を見せた。
「連絡先聞いてないのか?」
「聞いてない」と俺は答えた。
「どうして?」
「あいつが言わなかった」
「言わなかったって……お前は訊かなかったのか?」
「訊いてない」
「どうして?」
「訊くのを忘れてた」と俺は答えた。「一年で帰ってくると思ってたから」
「呑気なもんだな」と揶揄するように宮元が言った。
「そうかもしれない」と俺は笑った。
宮元は財布から白いカードを取り出すと、俺の前に置いた。それは名刺のようだったが、名前や肩書きはなくただ手書きでメールのアドレスが書き込んであるだけだった。俺はそれを手に取り、裏返した。そこにもやはり何も書いてはいなかった。俺は鞄から手帳を取り出し、余白にそのアドレスを写した。
「連絡するのか?」
宮元がカードを元あった場所にしまいながら尋ねた。
「わからない」と俺は答えた。宮元は何度か頷いただけで、この件に関してはそれ以上何も言わなかった。ただ別れるときに、「知らせたほうがいいと思って」と言っただけだった。
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