私 2007年10月

第四章

 台風の夜だった。風の仕業か、カラスが鳴くような不気味な音が断続的に窓の外から聞こえた。私は、その夜もいつもの夜と同じように、うまく眠れない予感を感じていた。丑三つ時が静かに過ぎ、夜が朝の空気を帯び始めるころになるまで、眠りは私のもとに訪れないことを私は知っていた。そしてそれが本当の意味での睡眠ではなく、朝が夜の空気を完全に失う前に解けてしまうまどろみにすぎないことも。


 私はベッドにもたれる格好で床に座り、缶ビールの口を切ると、テレビのスイッチを入れた。題名のわからない洋画がやっていたので、私はそれを見るともなく見ていた。筋の通らない展開に、やたらとセックスと暴力の多い映画だった。深夜と呼ぶには少し早すぎるこの時間帯に放送してもいいものか、と心配になるような代物だった。害のない分、砂嵐のほうがまだ見る価値がある。私はテレビを消すと、コンポの再生ボタンを押した。電話が鳴ったのはその時だった。


 どうして電話に出る気になったのか。やはり、私の苦しみを分かち合ってくれるのは姉しかいないと信じる(あるいは、願う)気持ちがどこかにあったのかもしれない。とにかく、私はその電話をとった。


「もしもし」

 しばらくの間沈黙があった。闇の底のように深く、冷たい沈黙だった。風がヒステリックに窓を殴った。

「どうして今まで電話に出なかったの?」

 私はその質問には答えなかった。何と答えていいのかわからなかったのだ。私は黙って電話を耳に当てたまま、窓を開けてベランダに出た。湿気を含んだ風が、堰を切ったように吹き込んだ。雨は降っていなかった。

「何度も電話したのよ」

「知ってる」

「前に私の言ったこと、考えてくれた?」

「考えた」

「じゃあ、わかってくれたのね?」

「やっぱり就職はしない」

 再び短い沈黙があり、それからはっきりと姉のため息が聞こえた。


「ねぇ、あなたは馬鹿じゃない。そこらへんに溢れてる並の人間よりずっと頭がいいわ。なのに、どうしてわからないの?どうしてその能力を生かそうとしないの?」

 姉の言うとおりだった。そう、私は馬鹿じゃない。

「じゃあ、どうして私が作家として成功できないと思うの?」

 私は努めて冷静に言った。「私に能力があるって言うなら、作家にだってなれるでしょう?」

「普通に社会で働くことと、作家みたいな特殊な職業に就くことがイコールじゃないことくらい、あなただってわかってるでしょ?」

「私の能力じゃ、普通に働くことはできても、作家にはなれないってこと?」

「子供みたいなこと言わないで。私は確実性について話してるの。私はあなたに確実に幸せになって欲しいのよ」

 姉の声は時折吹き荒ぶ風に掻き消されたが、静かな室内に戻る気にはなれなかった。


「安定した職業に就いてある程度の収入が得られたとして、それは私の求めてる幸せじゃない。どんなに苦労したとしても、やりたいことができれば私は幸せなの」

「苦労すれば作家になれるって言うなら、好きなだけ苦労すればいいわ。でもね、あなたみたいに作家になりたい人は五万といて、そのうちのほとんどがなれずにいるの。それが現実なの。一か八かの人生送って、あとで後悔するようなことになって欲しくないのよ」

「私は後悔なんてしない。できる限りすべてのことをやって、それでも駄目だったとしたら私は満足よ。まだ何もしていないうちから諦めるほうが遥かに心残りなの」

「諦めろって言ってるんじゃないの。ただ、今はとりあえず」


「もうやめよ」

 私は強い口調で姉の言葉を遮った。姉には理解してもらいたかったか、現実には議論をすればするほど彼女の気持ちが濃い霧に隠されるように朧にしか見えなくなっていくのを私は感じた。「堂々巡りだわ。これ以上続けても意味がない」

「それでも、一つの答えが出ないまま終わるわけにはいかないわ。ねぇ、考えて。これはとても重要な問題なの」

「そうよ、わかってる。とても重要な、私個人の問題よ。私の問題は私が考えるし、考えた上で結論は出てるの」

「それは違うわ。これは私たち二人の問題よ。私はあなたに幸せになってもらわなきゃならない。あなたを幸せにするのが私の義務なの」

「誰に対しての義務?」


 思わず大きくなってしまった声に、姉が電話の向こうで一瞬怯むのが感じられた。それから、姉がたじろいだのが単に私の語勢に気圧されたからではなく、雨上がりに点在するぬかるみを注意深く避けるように姉が触れないできた「私と姉の問題」の周縁に、私が足を踏み入れてしまったからであることに私は気づいた。それから私はできる限り語気を和らげて続けた。


「誰も私たちのことなんか気にかけないし、私たちも誰のことを気にする必要もない。私たちは私たちの好きなように生きればいい。違う? 私たちは深い傷を負った代償に、少なくともその権利を得たのよ」

姉は何も答えなかった。どうやら姉は泣いているらしかった。時折、そのことを私に悟られないように静かに鼻を啜る音が聞こえた。私は眼下を流れる車の波を眺めながら、姉が何か言ってくれるのをひたすら待った。しかし、いくら待っても姉は何も言ってはくれなかった。


「とにかく、これは私が決めたことなの。お姉ちゃんには悪いと思うけど、好きにさせてほしい」

 すすり泣く音も今は聞こえず、受話器からはただ沈黙が聞こえるだけだった。気がつけば、風はすっかりやんでいた。頭上からカラスの鳴き声が聞こえた気がした。私は空を見上げたが、その姿は見えなかった。台風の目に入ったのか、幾つかの星がちかちかと瞬いていた。


「私に対する義務だったの」と姉は唐突に、辛うじて聞こえるだけの声で言った。「あの時、子供心に思ったの。あなたを幸せにするのが私の役目だって。私があなたを守らなくちゃいけないんだって。あなたが就職はしないって言ったとき、あなたが私のもとを離れて行ってしまう気がしたの。私の手が届かないところに。あなたは私がいなくても生きていけるのかもって思った。支えられてきたのは、私のほうなのかもって」

「そんなことない」

「私が大人にならなきゃいけないのよね。あなたはもうあの時のあなたじゃない。私も、いつまでもあの時の私じゃいられない」

「……」

「あなたは今まで立派に生きてきたわ。これからだって大丈夫だって、私は信じてる。でもね、覚えておいて欲しいの。自分の好きなように生きるのは、そうじゃない生き方の何倍も辛いのよ」

「それでも自分で選んだ道だから、投げ出したりはしない」


 姉が電話の向こうで笑みをこぼすのが見えた気がした。ふと、母親もこんなふうに笑っていたのかもしれないという思いが私の頭を過ぎった。それから私は姉に対してすまない気持ちになり、すぐにその考えを振り捨てた。

「それは心配してないの。あなたは意志の強い子だって知ってる。これだけ説得しても、てんで聞き入れないんだから」

 そう言って姉は笑った。「ただ、だからこそ心配なのよ。もしどうにもならないことがあったら、一人で悩まないで私に連絡しなさい。私はそのためにいるんだから」

「ありがとう」

 そう言った私の頬を温かい涙が伝った。泣くつもりはなかったのに、涙は次から次へととめどなく流れた。電話の向こうでは、姉がまた少し涙ぐみながら、「元気でね」と言い、電話を切った。私はその場にしゃがみ込み、涙が涸れるまで泣いた。


 部屋の中では、リアム・ギャラガーが独特のしわがれた声で「ストップ・クライング・ユア・ハート・アウト」を歌っていた。

 とても長い時間のあと、私はやっとのことで立ち上がり、台所へ行ってコップに水を汲んで一気に飲み干した。それでやっと私は落ち着くことができた。


 部屋のあちこちに無造作に置かれた段ボール箱が、月明かりに照らされて青白く浮かび上がっていた。こうして家具がなくなると、七畳半のその部屋が随分と広くなったようだった。そしてそれはもう自分の部屋ではないように見えた。

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