俺 2007年8月
第9章
葵は駅前の地図看板に寄りかかる格好で立っていたが、俺を見つけると半ばスキップするように駆け寄ってきた。顔にはいつものように笑顔を浮かべていたが、どこか疲れているようにも見えた。
「突然ごめんね」
「いや、俺のほうは暇だからまったく問題ないよ」
俺たちはどちらともなく駅前の目抜き通りに向かって歩き出した。
「あんまり時間ないんだけど、居酒屋入らない?」と葵が言った。
「この後何かあるの?」
「うん。出発前に色々とやっておきたいことがあるんだ」
「出発日は決まったの?」
「明後日だって言わなかったっけ?」
俺は驚いて葵の顔を見た。
「聞いてない」
「あれ、そうだっけ? ごめん、言い忘れたみたい」
「単なる言い忘れ?」
「あいにく、百パーセント純然たる失念だわ」
「随分と薄情なもんだ」
「出発する前に伝えれたことがせめてもの救いね」と葵は笑った。
「返す言葉もない」と俺は言った。
俺たちはあまり値の張らないチェーンの居酒屋を見つけてそこに入った。終業時間を少し過ぎたばかりの店内に客はほとんどいなかった。隅のテーブルに着くと、俺はビールを、葵はレモンサワーを注文した。
「ニコとこういう店に来たことあったかな?」
紙ナプキンを折りながら葵が言った。
「二人っきりで居酒屋にっていう意味なら、たぶん初めてだと思う」と俺は言った。言いながらそのことを少し意外に思った。
「やっぱりそう? 意外ね」と葵が言った。
まもなく、飲み物と通しの枝豆が運ばれてきた。俺はメニューを見ずに、タコわさびと軟骨の唐揚げを注文した。
「唐揚げにマヨネーズ付けてください」と葵が付け加えた。
「当店はタコではなくてイカなんですが、よろしいですか?」とすべての注文を伝票に書き写してから店員が申し訳なさそうに言った。俺はそれで構わないと言った。タコがイカに変わったところで、致命的な違いはなさそうだった。
店員がイカわさびとマヨネーズ付きの軟骨の唐揚げの注文を抱えて厨房に戻ったところで、俺たちは乾杯した。
「葵の出発に」と俺が言った。
「ニコの就活に」と葵が言った。
葵はグラスを置くと、さらに二、三手を加えてから折られた紙ナプキンを俺のほうに差し出した。それは一般的な折り紙の鶴に似ていたが、それよりも首が長くて尾は太く、羽は丸みを帯びた胴体と一つになっていた。
「普通の鶴とちょっと違うみたいだ」と俺は言った。
「それは白鳥なの」と葵が言った。
言われてみれば、鶴よりは白鳥に似ていた。
「それで? 出発前にやっておきたい準備って?」
白鳥を葵のほうに返しながら俺は尋ねた。
「雑務よ。準備というよりは後片付け」
「後片付け?」
「そう。今までいた湖を綺麗にしてから次の湖に行きたいのよ」
「このあとの用事もそれ?」
「そう。明日もおそらくそう」
「湖は随分と散らかってるみたいだね」
「かなりの大仕事よ」
「できることがあれば手伝うよ」
「ありがと。でも大丈夫」
マヨネーズ付きの唐揚げとイカわさびが運ばれてきた。客が少ないので厨房も暇を持て余しているらしく、仕事が速かった。
「ニコは留学に行く直前はどんな気持ちだった?」と唐揚げをつまみながら葵が言った。
「さぁ、どうだったかな。よく覚えてない」
「やっぱり、不安だとか寂しいとか、そういうの?」
「そうだったと思う」
「期待とか楽しみとか、そういうのは?」
「もちろんあっただろうけど、不安のほうが大きかった気がする」
俺はもちろん、その時の気持ちを今でもありありと思い出すことができた。しかし今は思い出したくなかった。ひょっとしたら葵は、自分が四年前にも同じ質問をしたことを覚えていて、そして俺が何て答えるかを知っていて、あえて訊いているのかもしれないと思った。俺はジョッキに残ったビールを一気に飲み干した。
「不安なの?」
「まぁね」
「お前のことだから、わくわくどきどきでいっぱいなのかと思った」
「もちろんそれもあるけど、同じくらい不安よ。同じ以上かも」
そんな言葉を葵の口から聞いたことに、俺は少し驚いた。
「お前も人の子だったってことだ」
「当然よ。牛やマンボウの子だと思った?」
「まさか」と俺は言った。「牛やマンボウに失礼だ」
葵が枝豆の皮を投げて遣した。
俺は葵のサワーがまだ半分近く残っていることを確認してから、離れたところで雑談をしていた店員を呼んでビールを頼んだ。例によって今回の注文に対しても迅速な対応がなされた。
「俺が留学に行く前の日のこと覚えてるか?」
俺は運ばれてきたビールを一口勢いよく流し込んでから、切り出した。
「前の日? あぁ、夜のこと?覚えてるわ。味噌汁が美味しかった」
「そのときに、お前時計くれただろ?」
「うん、あげた。銀色の懐中時計」
葵は俺の言葉を待っていたようだったが、俺が何も言わなかったので不思議そうな視線を俺に向けた。「時計がどうかしたの?」
「消えたんだ」
「消えた? いつ? 確かこないだ学校で会ったときは持ってたべさ?」
「あぁ、確かにあの時はあった。でもあの日の夜に消えたんだ」
葵が留学に行くと聞かされた日のことだった。その時までは確かにあった。家に帰って外した記憶もあった。あの時計は俺にとって大切なものだったから、いつも決まって枕元に置くようにしていた。それでなくても一人暮らしの狭い部屋だ。失くすことは考えにくかった。しかし、次の朝に起きた時にはいつもの場所に時計はなく、それから何度となく部屋の至る所を探したが、ついに時計は出てこなかった。状況を考えれば俺は消えたと表現したかったが、その言い回しは、葵の前ではもちろんフェアではなかった。
「あの日の夜に失くしちゃったんだ」と俺は言い直した。
「失くしたって、どこで?」
「家の中」
「あの狭い家の中ってこと?」
「そう。あの狭くて汚い家の中」
「じゃあ、いずれ出てくるんじゃない?」
「そう思ってからもう一ヶ月経つ」
「よく探したの?」
「もう探すべき場所を思いつかない」
「じゃあ仕方ないね」と葵は少し残念そうに言った。
「ごめん」
「なんで謝る? だってあれはニコの時計だべさ」
「葵からもらった時計だ」
「でも失くなったものは仕方ないよ。どんなに大切にしていても駄目になっちゃうものってあるもの」
「ありがと」
「もし見つかったら、今度は失くさないようにしてね」
「必ず」と俺は言った。
「ところで携帯は解約したの?」
俺は葵が公衆電話からかけてきたことを思い出した。
「うん。海外で使えるのもあるんだけどね。お金かかるし、スローライフもいいかなって」
「賛成」
ふと気になって見たが、葵は腕時計をしていなかった。「時計はしないの?」
「持ってたんだけど、壊れちゃって。もう出発まで時間もないし、向こうで安いのを買うつもり」と葵は言った。
「時計がなくて不便じゃない?」
「うぅん、全然。今はそんなに時間に縛られた生活してないし。それにね、時計を持ってると気づかないけど、世の中って時計で溢れてるのよ。私びっくりしちゃった。まるでどこに行っても、『お前は時間の網からは抜け出せないんだ』って言われてるみたい」
「ビッグブラザーみたいだ」と俺は言った。
「でも、ないとやっぱり不便なときもあるだろうし、向こうに着いたら安いのを買うわ」と葵はもう一度同じことを言った。
俺はあることを思いついた。
「そうだ。明日いつでもいいから時間作れないか?」
「明日? どうだろ、夜なら何とかなるかな」
「じゃあ夜に会おう。夜八時に南口の高架横の公園。どう、来れる?」
「たぶん大丈夫」
「じゃあその時間にその場所で」
「オッケー」と葵は言い、左手の親指と人差し指の先をくっつけて見せた。
「ディール、だろ?」
「そう、ディール」
それから、俺と葵はそれぞれビールとカルアミルクを一杯ずつと焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。そして主に将来のことについて話をした。葵は俺が大学を出た後にどうするつもりか知りたがったが、俺には酒のつまみに聞かせるような明確な青写真はなかった。俺は正直に「わからない」と言った。葵は「そんなもんよね」と言っただけだった。
やがてグラスは二つとも空になり、話が一段落したところで葵が言った。
「私、そろそろ行かなきゃ」
俺は時間を見ようとして携帯を手に取ったが、ふと思い直して店内を見回した。十時の方向の壁に時計はちゃんと掛かっていた。あと十二、三分で七時というところだった。
「随分と早いね。どこか行くの?」
俺のその何気ない問いに、葵は少しの間何かを迷っていたようだが、やがて浮かない表情で言った。
「今日の最終便で親が来るの」
「北海道から?」
葵は黙って頷いた。
「あぁ、お前の見送りか。明後日だもんな」
俺は改めて、葵がもうすぐ、本当にすぐにいなくなってしまうことを確認した。
「そんなとこ」と葵は俯き加減に言った。葵の様子がおかしいことを俺は感じ取った。
「どうかしたか?」
その時、葵が一瞬だけ今にも泣き出しそうに顔を歪めた気がした。俺ははっとした。三年前の夜の光景が蘇った。しかし、次の瞬間に葵が顔を上げた時には、そんな様子は跡形もなく消えていた。さっきまで葵を覆っていた影も、今はもうなかった。
「何でもない」と明るい声で言った。
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