第8章
タクシーを降りた時には、雨はほとんど上がっていた。俺は校舎をざっと見回したが、どの部屋にも明かりは灯っておらず、人の活動を示すものは何もなかった。建物そのものが深い眠りの中にいるようだった。
俺はとりあえず馬鹿正直に正面玄関を当たってみたが、そこには案の定鍵がかけられていた。教職員用の通用口も駄目だった。俺はどうするべきか考えた。当然といえば当然というか、深夜の学校はもちろんそうあるべきなのだろうが、葵が俺をここに呼び出した以上、今の場合には何かが起こるべきだった。手詰まりになった俺は、足元に転がっていた石ころを車のない駐車場に向かって蹴り飛ばした。石は点在する水溜りを器用に避け、車止めに当たった。二つ蹴り、三つ蹴っても何も起こらなかった。
その時、俺はふとあることに思い当たり、校舎を横に回りこんだ。歩きながら、どうしてすぐに思いつかなかったのか不思議に思った。うっかりしていた。葵が俺のために入り口を用意しているとすれば、あそこしかないはずだった。
しかし、俺の予想に反して生徒会室の窓は開かなかった。鍵は中ほどまでしか下りていなかったが、それは侵入者を阻むには十分だった。俺は葵が前に想像上の窓を開けたように両手で窓を抱えて揺らしてみたが、現実の窓は簡単には開かなかった。
「本当にこれで開くのかよ?」
その時、俺の横から白い一対の手が伸びて、俺の握っている窓枠を捉えた。俺は驚いて思わず手を引いた。葵だった。
「び、びっくりしたぁ」
声を失っている俺を尻目に、葵は慣れた手つきで、と言うには些か強引に、窓を揺すった。
「これで開くはずなんだけどな」
しかし、いくら揺さぶっても窓が開く気配はなかった。たった今顔を出した月の光に照らされ、葵の白い手が一層白く見えた。
「俺、明日の二時の飛行機で出発する予定なんだけど、それまでには開くかな?」と俺は嫌味っぽく言った。
「もし駄目だったら、一年後にまた改めて挑戦しましょ」と葵が言った。
「ここじゃ駄目なのか?」
「何が?」
「いや、それは俺が訊きたいんだけど、お前が俺を呼び出した目的の何かだよ」
「別にここでもいいんだけどさ。やっぱ、出発する前にもう一度教室見たいべさ?」
「……ありがと」
「何もだ。だってまだ教室に入れてないし」
葵はそう言いながら、足元に落ちていた拳大の石をやおら拾い上げ、振りかぶった。俺は慌てて葵の腕を押さえた。
「おい、いくらなんでもそいつはまずい。窓は開いても、留学への道が閉ざされることになる」
「あら、お上手」と葵がこちらを見て言った。「でも、それはそれで意味のある行動だったってことになるわ」
「ふざけてる場合か」
「あら、本気よ。でもそれじゃああまりに自分勝手だし、ニコが可愛そうだからやめとく」
そう言って葵は石を放った。
俺は地面が濡れていないことを確かめてから、校舎にもたれる格好で腰を下ろした。葵はまだ諦めずに窓を揺すったり、叩いたりしていた。
「葵、ありがとな」と俺は言った。一週間前に言いそびれたことを後悔し、次に会ったら言おうと思っていた言葉だった。
「何が?」と葵が手を止めずに訊いた。
「色々だよ。お前が俺のためにしてくれたことすべて」
「何だか気持ち悪いよ」
「俺の素直な気持ちだよ」
「それに何だか水臭い。それより味噌汁飲まない?」
「味噌汁?」
俺は驚いて訊き返した。味噌汁って何だ? 状況が飲み込めないでいる俺をよそに、葵は窓枠から離れ、足元に置いてあった紙袋をあさり始めた。中から出てきたのは、魔法瓶と紙コップとインスタントの味噌汁だった。俺はしばらく呆気に取られてその様子を見ていた。
「あっさりアサリとわっかめワカメ、どっちがいい?」と葵が何食わぬ顔で訊いた。ご丁寧に味の選択肢まであるらしかった。
「わっかめワカメって何だよ?」
俺は失笑しながら言った。「だいたい、お前、突飛にも限度ってものがあるぞ」
「そう? 一年日本を離れるその前夜には打って付けの飲み物だと思うけど。で、どっち?」
「わっかめワカメ」
俺は少し迷ってから、そう言った。
俺たちは並んで座り、味噌汁を啜った。雲間が少しずつ広がり始めていた。目が慣れてきたのか、それとも月明かりのためか、辺りはここに着いたころより随分明るくなった気がした。どこか遠くのほうからバイクのエンジン音が聞こえた。
「不安はないの?」
「え?」
「留学に不安はないの? 一年間、言葉の違う国で、一人で暮らしていくことに」
「まさか。不安だらけさ」
「そうなの?」
「もちろん」
「不安と期待、どっちが大きい?」
「……五分五分。いや、不安のほうが大きいかな」
「それでも行くの?」
「行く」
「勇敢なんだ」
俺は葵の顔を見た。葵はじっと湯気の立つ紙コップの中を見つめていた。俺は首を横に振り、自嘲の笑いを漏らした。
「全然そんなんじゃない。全然」
「勇敢じゃないってこと?」
「あぁ」
「そうかな? 勇気の要ることだと思うけど」
「俺は」
俺は次の言葉を考えた。言葉の詰まった箱をひっくり返し、床に散らばった言葉の一つ一つを精査し、また箱に戻した。それでもしっくりくる言葉を見つけることができなかったので、思いつくままに喋ることにした。
「俺はどこかに行きたかったわけじゃない。ここにいたくなかっただけなんだ。ここにいて、次に自分の行くべき場所を決めることが俺にはできなかった。だってそうだろ? 自分が何をしたいのかもわからないのに、どこに行くかなんて決められない。だから俺はとりあえずどこかに行って、そこで次に俺は何をするべきか考えることにしたんだ。悪い考えじゃないだろ?」
「うん、全然」と葵は言った。「考える時間と場所が必要だったんだね?」
「そういうこと。モラトリアムってやつだ」
「それで留学を選んだの?」
「あぁ。でも、それにだって立派な根拠があったわけじゃない。偶々、留学生募集の要項を目にして、それで『それもいいかも』って思っただけなんだ。別に留学じゃなくてもよかったし、その要項を見ていなければ違う場所を選んでたと思う」
「でも実際にはそれを見て、イギリスに行くことにした」
「そう。英語には興味があるし、ビートルズもストーンズも好きだからね。別にマイナスの要因だけで留学を選んだわけじゃない」
俺は味噌汁を啜った。
「俺にはむしろ、決めろと言われて次にどこに行くか決められる皆のほうが信じられない。皆が優秀なのか、俺に問題があるのか」
「皆に問題があるのよ」と葵は言った。「もちろん皆が皆に問題があるって言うわけじゃないけど、皆が皆、ニコみたいにちゃんと考えてるわけでもないと思う。ニコみたいに自分が何が欲しいかとか、自分に何が必要かとかを考えないで、とりあえず何でもありそうなデパートみたいなところに行っちゃって、そこで手頃なものを見つけようっていう人も一杯いるんじゃない? 大きな決断を必要としない、手軽な人生を好む人」
「そっちのほうが正しい人生なのかもしれない。そっちのほうが勇気の要る人生なのかも。少なくとも俺には、ここに留まることよりもどこかへ逃げることのほうが手軽だった」
「ニコは逃げるわけじゃないよ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と俺は言った。
「難しいのね」と葵が言った。
「そう。簡単じゃない」
「でも、あたしはやっぱり勇気ある決断だと思うわ。誰にでもできることじゃない」
「ありがとう」
俺はそう言うと、すっかり冷えた味噌汁を一気に飲み干した。ざらざらとした感触が喉を通り、消えていった。俺は時刻を知りたくなった。帰りたかったわけではない。ただ、時間の感覚がないことが俺を不安にした。夜の深さを知りたかったのだ。
「通りに出よ」
葵が立ち上がり、ズボンに付いた砂を払った。
「教室に入れなくて残念だったね」と葵が歩きながら言った。
「いいさ。永遠の別れってわけじゃない」と俺は言った。
時刻は深夜の一時を優に回っていたはずだったが、通りには存外多くの車が走っていた。タクシーを待っていると、葵が頓狂な声を上げた。
「何だよ。びっくりするべや」
「危ない。あたし、もうちょっとで一生後悔するところだった」
「何を?」
葵は俺の問いには答えずに、紙袋の中から小さな細長い木箱を取り出した。
「はい」
「何、これ?」
「餞別」
「本当に?」
葵は大きく頷いた。その割には、包装やリボンなどの装飾は一切なかった。「開けてもいい?」
「もちろん」
俺は箱の蓋をゆっくりと開けた。中から出てきたのは懐中時計だった。全体が金属で文字盤が白のシンプルな作りのものだった。
「誰が忘れようと、あたしはあんたのこと忘れないよ」と葵は言った。俺は思わず噴き出した。
「なんだよ、それ?」
「はなむけの言葉」
「随分だな」
「応援してるから頑張れってこと」と葵はちょっと怒ったように言った。
「ありがとう」と俺は言った。「それから時計も」
「どちらかと言うと、時計がメインなんだけど」
「時計をありがとう。それから温かい言葉も」と俺は言い直した。
「どういたしまして」
俺は蓋を閉めようとしてあることに気づき、手を止めた。
「これ、時間合ってるの?」
「そんなには狂ってないと思うけど」
葵はそう言って箱の中にある時計を覗き、自分の腕時計と見比べた。
「うん。ぴったり。なして?」
「いや、何でもない」と俺は言った。
それから俺たちは通りかかったタクシーを捕まえ、乗り込んだ。俺は葵を家まで送ろうとしたが、葵が俺の家に先に行って欲しいと言った。だから、俺は運転手に俺の住所を伝えた。
「お前は卒業したらどうするんだ?」と俺は俺の家までの行程の半分を過ぎたあたりで葵に訊いた。見ると、葵は新しい紙コップに味噌汁を作っていた。
「うぅん、よくわかんない」と葵は答えた。
「大学には行くんだろ?」
「それはたぶん間違いないと思うわ。どこにするかはセンター試験の結果と相談して決める」
「ふぅん」
葵は味噌汁が出来上がると、運転席と助手席の間に身を乗り出し、運転手に話しかけた。
「よかったら味噌汁どうですか?」
「はい?」
運転手は葵の言ったことがよくわからなかったようだった。そして葵が差し出す味噌汁を見たあとでも、すぐには状況を飲み込めずに当惑していた。運転中に客から突然味噌汁を差し出されたのだ。おまけにバックミラーが見えないのだから、当惑して当然だった。それでも彼は紙コップを受け取ると、ドリンクホルダーにそれを置いた。
「ありがとうございます」と彼は律儀に礼まで言った。
「どういたしまして。ちなみにそれは、わっかめワカメのほうです」と葵が言った。
「え?」
運転手は再び当惑した。当然だった。俺は笑った。
俺たちが最後にどんな言葉を交わしたか、俺ははっきり覚えていない。俺が思い出せるのは、タクシーが走り去る時に、ほんの一瞬耐え切れなくなったように歪んだ葵の顔と、空にぽっかりと浮かんだ月の白さと、計り知れない虚無の感覚だけだった。
こうして、俺たちはそれぞれの場所でそれぞれの未来を考えることになった。
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