第7章

 出発までの一週間は思いのほかに多忙だった。色々な人から色々な誘いが入った。中学時代の友人とボーリングに行ったり、高校の友人とご飯に出掛けたりした。彼らは口々に葵のことを俺に尋ねた。俺と葵が付き合っているのかとか、どこまでいったかとか、そういう罪のない質問だ。もちろんそういう問いがなされることは予想できたが、はっきり言ってそれらの質問は俺にはどれも的外れなものに思えた。


 だから俺はその質問を聞くと笑い、「ただの友達だよ」と答えた。これだって的を射た回答とは言い難かったが、それ以外にどう答えるべきか俺にはわからなかった。きっと葵だってそう答えただろう。

 いずれにしろ、みんながそうやって俺との別れを惜しみ、俺のために色々と企画してくれることに俺は驚き、そして嬉しく思った。


 しかしその一方で、夏休みに入ってから葵からは何の連絡もなかった。終業式の日に話をしたのを最後に、それまで毎日のように電話やメールをくれていた葵から何の音沙汰もなくなった。別に俺たちの間に何かがあったわけではなかった。終業式の日も、いつものようにたわいない話をして笑って別れた。あれから二週間。俺は葵が俺の世界から消えてしまったような気がした。籠の蓋を開けられた小鳥のように。あるいはおもちゃに倦んだ子供のように。


 もちろん俺から連絡を取ることもできたし、それも考えたが、葵が突然連絡してこなくなったのには何か理由があるはずだった。だから俺は葵から連絡が来るのを待つことにした。


 葵から再び連絡があったのは、出発の前々日だった。スーツケースに衣類やらお土産やらを詰め込んでいると、家の電話が鳴った。


「もしもし」

「もしもし、ニコ?」

 俺は言葉につまり、返事ができなかった。

「あたし。葵」

 実際には半月しか経っていなかったのだけれども、俺は随分長いこと葵の声を聞いていなかった気がした。ほとんど懐かしいと言ってもいいくらいだった。


「お前、どこ行ってたんだよ?」

「どこも行ってないわよ。ずっとここにいた」

「じゃあなんで連絡くれなかったんだ?」

 葵が小さく、ふふっと笑うのが聞こえた。

「おかしなこと言うね。そっちからだって連絡取れるでしょ?」

「それはそうだけど」

 俺は言葉に窮した。


「まぁいいや。そのことはまた今度話すわ」

「今度って、いつだよ?」

「明日の夜は暇?」

「別にこれといって用事はないけど」

「じゃあ十二時に家の外に出て」

「十二時に家の外?」

「そう」

「なんで?」

「お願い」

 葵の声はいつになく真剣だった。

「わかった」と俺は言った。「出てどうすればいい?」

「出ればたぶんわかるわ。じゃあディールね。ありがと」と葵は言った。「したっけ、明日」


 俺の言葉を待たずに葵は電話を切った。俺はしばらくの間受話器を耳に当てたまま立ち尽くした。無機質な信号音が規則的に響いていた。


 翌晩は雨だった。俺は十一時五十分に二階にある自分の部屋を出ると、両親に気づかれないように静かに階段を下り、玄関へ向かった。居間からは明かりが漏れていて、テレビの音が聞こえた。明日からも、ここではこうやってゆっくりと時間が流れるのだろう、ちらっとそんな考えが頭に過ぎった。


 言われたとおりに外に出たものの、そこには別段変わったものは何もなかった。細い雨が静かに降っているだけだった。俺は時間を見ようとポケットに手を入れたところで、携帯を解約してしまったことを思い出した。がらっと変わるべね、か。腕時計買わないとな。


 それから少しして、一台のタクシーが家の前に止まり、運転手は俺の姿を確認すると後ろの扉を開けた。俺は恐る恐る近づき、開かれた扉の中を覗き込んだ。


「ここ、仲村さんちでしょ?」

 俺が何か尋ねるよりも前に、運転手が必要以上の音量で言った。車内灯を受けて銀歯が鈍く光った。

「はい、そうです」

「七丁目の十番地三」

「そうです」

「それじゃあ、乗ってください」

「やっぱり、俺が乗るんですよね?」

 運転手は少し怪訝そうな顔をした。

「そのために出てきたんじゃないのかい?」

 おそらくそうなんだろう。傘をたたみ、乗り込むと、タクシーは滑るように動き出した。


「あの、行き先は?」と俺は、運転手に訊かれるよりも先に尋ねた。

「学校でしょ?」と運転手はバックミラー越しに言った。

「学校ですか?」と俺は驚いて訊き返した。

「そう言われてるけどね。白陽高校。違うの?」

 おそらくそうなんだろう。

「それって、若い女の人から言われました?」

「さぁ、電話受けたのは私じゃないから。仲村さんところで男性のお客さん乗せて、白陽高校行ってくれってことだったから。それでいいんでしょ?」

 実際のところ俺には判断しかねたが、ここは身を任せるしかないようだった。

「はい。それでお願いします」

「はいよ」

 運転手はそう言うと、スピードを少し上げた。


 見慣れた通学路の景色も、深夜の雨の中を走るタクシーの車窓という角度で切り取ると、まるで映画で見る異境の街のようなよそよそしさがあった。俺は雨に滲んだ街の明かりが近づいては過ぎるのを黙って見つめながら、向こうで望郷の念に駆られた時にはこの風景を思い出すのかもしれない、とただ何となくそう思った。ラジオからはボブ・ディランの「天国の扉」がごく小さな音で流れていた。


「七夕の夜だっていうのに残念だね」

 赤信号で止まった時に、運転手はそう言って少しかがむようにしてフロントガラス越しに空を見上げた。俺はそう言われて、初めて今日が七夕だったことに気がついた。

「ところで、こんな遅くに学校行ってどうするの?」

「七夕のイベントです」と俺は答えた。

「ほう。だったらますます残念だ」と運転手は言った。

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