第6章
夏休みが近づいたある日の朝、俺が席に着くなり葵がやって来て言った。
「今日の放課後、買い物に付き合ってくれない?」
「買い物?」
「そう。予定あり?」
「特にないけど」
「なら、ディール」
こうしていつものように一方的に約束が取り付けられた。
しかし、昼休みが終わるころに葵は再び俺のところへ来た。
「やっぱり待てないわ。今行きましょ」
「今って、五時間目は?」
「キャンセル」
「キャンセルって、歯医者の予約じゃないんだから」
「いいから」
結局のところ、俺は葵の頼み(と言うには些か強引だが)を断ることはできないのだった。クラスメイトの視線が追ってくるのを背中に感じながら、俺たちは鞄を持って教室を出た。
「こういうのは俺の趣味じゃない」と校舎を出たところで俺は言った。
「授業をさぼること?」
「そう。掃除当番もついでにね」
「授業さぼったことないの?」
葵が驚いたように訊いた。
「ないね」
「ただの一度も?」
「ただの一度も」
「あんたって希少種ね」
「誉め言葉として受け取っとく」
「卒業したら、向こうの大学行くの?」
「え? あぁ、それは今のところ考えてない」
「じゃあ、こっちの大学?」
「今のところ決めてない」
葵は「ふぅん」と言った。
「すべては未定ってわけね。とりあえず行ってみる。行ってから考える」
「そんなとこ」
「いいと思うわ。でもそうなら、ひょっとしたら日本の学校に通うのはこれが最後かもしれないのよね?」
「まぁ、その可能性もないとは言えない」
正直なところ、俺は留学に行くことで頭が一杯で、帰ってきてからのことまでとてもではないが気が回らなかった。
「それなら、一時間ぐらいさぼったところで罰は当たらないわよ」
「なるほど。そういう考え方もあるわけか」と俺は感心して言った。実際、葵のものの考え方を知ると、自分が少し自由になった気がした。
「他にどんな考え方があるのよ?」
葵は、本当にわからないというふうに言った。
俺は駐輪場に停めてあった自分の自転車の鍵を外した。葵はというと、そんな俺の様子を少し離れたところから見守っていた。
「自転車は?」と俺は尋ねた。
「パンクしちゃったから家に置いてきたの。後ろに乗せてくれる?」
もちろん俺は断れなかった。
「ジュース一本」
「ディール」
葵が後輪部分に立つかたちで二人乗りをし、学校を後にした。
葵の指示でまず辿り着いたのが雑貨屋だった。ログハウス風の小さな建物で、店先には多くの観葉植物が置かれ、大きなガラス張りの入り口の扉の上には「地球屋」と書かれた大きな看板が取り付けられていた。
「ジブリのアニメに出てきそうだな」
「素敵でしょ」と葵は言った。
店の中には、何組かのカップルと制服を着た女子中学生のグループがいた。葵は彼女たちの間を縫うようにして忙しく店内を歩き、気になったものを一つ一つ手に取り、そのすべてに感想を述べた。俺はおとなしく後ろに続いて、彼女の感想に対する短い批評を述べた。
十五分ほど物色した後、葵は結局何も買わずに店を出た。それでも彼女は満足しているらしかった。
「何も買わないの?」
「うん。お金ないし、見てるだけで楽しいから。バナナスタンドはなくても困らないしね」
次に俺たちが行ったのは駅前のデパートだった。平日の昼下がりの店内に人はそれほど多くなく、そのほとんどが小さな子供を連れた主婦だったが、それでもゲームコーナーやフードコートには学生の姿がちらほら見られた。俺は確かに希少種らしかった。
葵はいくつかの雑貨屋や服屋を見て回った後(それらの店でも何も買わなかった)和服店を訪れた。
「着物好きなの?」と俺は何気なく訊いた。
「好きだけど、今日はニコのお土産を探しに来たのよ」
「俺のお土産?」
「そうよ。ホストファミリーと未来の友達へのお土産。何か日本的なものがいいじゃない?」
確かにそうだったが、言われるまでそのことには全く考えが及んでいなかった。
「ひょっとして、今日ずっと俺のお土産を探してくれてたの?」
「まさか。前半は完全に私本位の行程よ」
「あぁ、やっぱり」
結局、その店で大小の雪駄と風呂敷を三枚、玩具店で剣玉を二つと紙風船を三十個買った。俺がそれまでにした買い物のなかで、最も日本的な買い物だった。
それからフードコートでピザとジュースを買って食べた。ジュースは約束通り葵の奢りだった。
「携帯は向こうに行く前に解約するの?」とピザを食べ終えたところで葵が訊いた。
「あぁ」
「携帯のない生活か。今までとはがらっと変わるべね」
携帯電話の有無よりもっと根本的な変化がある気はしたが、俺は「そうだな」と言った。
「ほら、あたしたちって携帯に依存してるじゃない。もし携帯がなかったら電話やメールのほかにも色々と不便なことがあると思うの」
「例えば?」
「スケジュール管理に手帳が必要になるでしょ。時間を知るのに腕時計が要るし、写真を撮るのにはカメラでしょ、それに朝起きるときは目覚ましが必要だわ」
確かに俺自身、今はその全てを携帯でまかなっていた。
「確かにそうだな。でも俺はむしろそっちのほうがいいかな。少しゆっくりした生活がしたい」
「そうね。手帳からカメラに持ち替えるくらいの余裕が人生には必要ね」と葵が言った。
「人生は駆け抜けるものじゃないってね」と俺は言った。
「家まで二人乗りで送ろうか?」と提案したが、葵は「遠いからバスで帰る」と言った。自転車だと葵の家までは優に三十分はかかったから、確かに二人乗りには少し骨の折れる距離だった。
「ニコがイギリスに行っちゃったら、日曜に学校行ってももう会うこともないんだね」
バスを待っているときに葵がぽつりと呟いた。俺は葵の顔を見た。葵は少し俯き加減で、無表情だった。俺は前を向き直り、空を見上げて、「そうだな」と言った。
「でも一年なんてすぐよね」と葵が言った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と俺は正直に言った。
実際のところ、俺には全く予想が出来なかった。一ヶ月先、海の向こうにどんな生活が待っているのかも。そして一年後にどんな生活がここにあるのかも。
「そう言えば、ずっと気になってたんだけど」と俺は言った。
「何が?」
「その、学校で会ったときのことだよ。二ヶ月前の日曜日」
「二ヶ月前の日曜日」
葵が呪文を唱えるみたいに繰り返す。「それがどうしたの?」
「一体どうやって入ったんだ?」
「そのこと?」
「うん。そのこと」
「だからニコが入ったところから入ったのよ」
「でも俺、鍵かったと思う」
「確か?」
「かなりね」
俺たちが待っているバスとは違うバスが俺たちの前に止まり、乗り口の扉が開いた。葵が頭の上で大きくバツを作った。バスは扉を閉めると、クラクションを一つ鳴らし去っていった。俺と葵はしばらくその後姿を見送っていた。
「ちゃんと掛かってなかったのよ」
「ちゃんと掛かってなかった?」
「そう。鍵が少ししか下りてなくて、窓をこうやって揺すってるうちに外れたのよ」
葵は目の前にある概念上の窓を両手で押さえ、左右に揺すって見せた。
「本当に?」
「本当に。どうしてそんなことが気になるの?」
「さぁ、どうしてだろう」
葵が乗るバスがやって来るのが見えた。葵がため息を一つ吐いてから、ゆっくりと立ち上がった。
「今日はありがとね」と葵が言った。
「え、いや、こちらこそ」
俺は一瞬何に対してお礼を言われたのかわからなかった。葵の買い物に俺が付き合うというのが今日の名目だった。でもお礼を言うべきなのは明らかに俺のほうだった。
バスが目の前にぴたりと止まり、扉が音を立てて開いた。葵が小走りにバスに駆け寄り、そのままステップを登った。扉が閉まり、バスが葵を気遣うようにゆっくりと動き出した。葵は後ろのほうの席まで歩き、俺に向けて小さく手を振ってから座席に腰かけた。俺が慌てて手を振り返したときには、すでに葵の姿は見えなくなっていた。
バスが完全に見えなくなってしまうと、俺はひどく孤独な気持ちになった。草木を輝かせる夏の日差しの中で、俺は一人だった。手には葵が残していったたくさんのものがしっかりと握られていた。俺は葵にきちんとお礼を言わなかったことを後悔した。
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