俺 四年前

第5章

 俺と葵が出会ったのは四年前のことだった。


 高校三年に進級した時、クラス替えで俺と葵は初めて同じクラスになった。葵の存在はすぐに俺の目に留まった。きっと誰の目にも留まったのだと思う。葵は飛び抜けて容姿端麗というわけでもなければ、何か目立つ行動をしたわけでもなかった。それでも彼女には人の目を引く何かがあった。空気。俺にはそうとしか表現できない。


 五月のある日曜。その日何の予定もなかった俺は教室にいた。当然のことながら校舎に人の姿はなかった。生徒の喚き声も廊下を駆け抜ける足音も聞こえない校舎は不気味にひっそりとしていて、今にも崩れてしまいそうな危うさが辺りに満ちていた。ただチャイムがいつもと同じように規則的に、いつもよりも大きな音で鳴った。


 一時半を少し過ぎたころ、不意に教室の扉が開いた。開けた窓から外を眺めていた俺はその人物が廊下を歩く足音に全く気がつかなかった。俺は咄嗟に先生か警備員が見回りに来たのだと思った。しかし、振り向いた時そこに立っていたのは、上下揃いの黒のジャージ姿の葵だった。


「あれ、こんなところで何してるの?」

 俺の姿を見た葵が言った。俺はほっとした。

「お勉強中」

 そう言って俺は顎で俺がさっきまで座っていた机を指した。机の上には教科書やらノートやらが広げられ、その周りにシャーペンやら消しゴムやらが雑然と転がっていた。「ふぅん、偉いのね」と葵が言った。

 新しいクラスになって一ヶ月余りが経っていたが、確かこの時まで俺は葵と話をしたことはなかったと思う。俺は席に戻り、葵は前の机にこちらを向く格好で腰掛けた。


「そっちは?」と俺は訊いた。

「部活が終わったとこ」

「あぁ、バレー部だっけ?」

「そう。バリボー」

 葵はそう言うと、両手でトスを上げる素振りをした。俺はその手の動きを、動物園で珍獣を観察するみたいに眺めていた。

「そうだ、昼ご飯食べた?」と葵が唐突に言った。

「昼飯?いや、まだだけど」

「じゃあ、行こう」

「行こうって、どこに?」

「ラーメン屋」

「ラーメン?」

「あたしの独断」

「まぁ、違いないわな」

「乗る?」

「いいよ」

「じゃあ、ディール」


 その時、先刻葵が入ってきた扉が再び勢いよく開いた。

「お前たち、ここで何してるんだ?」

 担任の鈴木先生だった。中年の体育教師で、多少下ネタが度を越すことがあるが、話せるいい先生だった。

「勉強です」と俺は言った。

「その応援です」と葵が言った。

「勉強もその応援も結構だが、日曜に校舎内に入っちゃまずい。学校じゃなくて自分の家でやれ。そっちのほうが他のことも出来ていいだろう?」

 そう言って先生はにやりとした。始まった。

「休憩中にしりとりなら、ここでもできますよ」

 俺はそう言いながら、横目に葵のほうをちらりと見た。葵は一瞬だけしかめっ面でちらっと舌を出して見せた。俺はそれを見て小さく笑いながらも、顔が微かに火照るのを感じた。

「尻もいいが、やっぱり俺は……」

「先生!」

 葵がほとんど叫ぶようにして遮った。その声の大きさに先生も思わずたじろいだ。俺は笑った。

「おぅ、怖ぇな」

 そう言って教卓の中から何枚かのプリントを取り出した先生は、ふと思い出したように言った。


「ところでお前たちどうやって入ってきたのよ?」

「テレポーテーション」と俺は言った。

「瞬間移動」と葵が言った。

「ほぅ、その歳であの技が使えるとはな」と先生は格闘漫画の登場人物みたいなことを言って、俺たちの冗談に乗ってきた。「で、その二つの違いは何だ?」

「英米人が名付けたか、日本人が名付けたかです」と俺が答えた。

「念力を使うか、超能力を使うかかも」と葵が思いついたように言った。

「お前ら似た者夫婦だな」と先生がまたにやつきながら言った。

「一言余計です」

 俺は努めて冷静に言った。葵は、ははっと笑った。


「それはそうと、真面目な話、出来るだけ早く帰れよ。出る時は職員玄関から出て行け」

 最後だけいかにも教師らしくそう言うと、先生は教室を出て行った。俺と葵はしばらくの間徐々に遠のく足音を黙って聞いていた。

「あの人も、余計なことを言わなければ言うことなしなんだけどな」

 訪れた静けさに少し居心地が悪くなって、俺は口を切った。

「それこそ、余計なことを言わなかったら言うことがないんじゃない?」

「お、それうまい」

「へへっ」

 

 俺が机の上のものを片付けていると葵が言った。

「机の中から手帳取ってくれる?」

「手帳?」

 葵は頷きながら俺の目の前の机を指差した。手で探ると、飛行機の絵が描かれたスケジュール帳が出てきた。朝、教室へやってきて何となく座る場所を選んだ俺は、その時にようやく自分が座っていたのが葵の席だということに気がついた。

「あ、ごめん」

 俺は決まりが悪くなって、思わず席から立った。

「なんで謝る? 別に減るもんじゃないし、いいよ」

 葵は心から不思議そうな顔をして言った。


「何なら席ばくろっか? あたし、あの席割と好きなのよね」

 そう言って、葵は窓際の一番後ろの席を見た。そこが俺の本来の居場所だった。

「あそこが好きなのか? 窓を開ければカーテンが煩わしいし、プリントが余ったら前まで持っていかなきゃならないし。ろくな席じゃないぜ。黒板の前に障害物多いし」

「あら、授業中にみんなのこと観察できて楽しそうじゃない?」

「確かに、みんな色々と興味深いことやってるよ。プリント回そうとして後ろの人の頭殴ったり、授業中に寝ぼけて突然手を挙げたり」

 俺はそう言って葵の表情を盗み見た。葵の表情が何かを堪えるように歪んだ。

「それ」

 今では真っ赤に高潮している。「あたしぃ!」

 俺は転がるように教室を出た。


「ところで、実際のところどうやって入ったんだ?」

 ラーメン屋で味噌ラーメンを食べながら俺は訊いた。ラーメン屋に行きたいと言った当の本人は、ラーメンではなくチャーハンを食べていた。

「和成と同じ方法よ」と葵は言った。

「俺がどうやって入ったか、知ってんの?」

「生徒会室の窓からでしょ?」

 その通りだった。正面玄関は開いてなかったので、俺は校舎のぐるりを周り、鍵のかかっていなかった窓から入り込んだのだ。


「見てたの?」

「部活行くときに偶々ね」

「見られないように注意したんだけどな」

「私以外には見られてないんじゃないかな。惜しかったわね」

「でもさ」と俺は記憶をたどりながら言った。「俺確か閉めたよ、鍵」

「そう? 記憶違いじゃない?」と葵はチャーハンから目も上げずに言った。「そんなことよりさ、本当に留学しちゃうの?」

「え? あぁ。誰から聞いたの?」

「風の便り」

 留学に関してはほとんど誰にも話していなかった。一体どこの穴から風が漏れたのか。

「今年の八月からイギリスに一年であってる?」

 俺は驚いた。

「それも風の便りに聞いたの?」

「そうよ」

「驚いたな。俺の知らないところで随分と風が吹いてるみたいだ」と俺は言った。「ひょっとして、こないだの古文の小テストが三点だったこともばれちゃったかな?」

「そんな便りはまだ届かないわね」

 葵が笑って言った。「みんな暇なのよ。暇が高じると他人のことを何やかや言うのよ。どうでもいいようなことばっかり。大した興味もないのにさ」

 葵はうんざりしたように言った。俺が何と言うべきか考えていると、葵がしまったという表情をした。

「ごめん、和成の噂のことじゃないんだ。その、世間一般の話」

「わかってる。気にしてないよ」と俺は言った。

 

 翌朝登校すると、葵が俺の席に座っていた。

「本当にばくるの?」

「あの席好きなんでしょ?」

「まぁね」

「私はこの席が好きよ」

「つまり?」

「ディール」


 学校生活ではお決まりのように、クラスメイトたちは好奇の目で俺と葵を見るようになった。俺と葵に関してありがちな噂がたった。しかし葵はそんなことはちっとも気にならないようだった。だから俺も努めて気にしないようにした。


 結局のところ、俺とあいつは似た者同士だった。他の奴らには見えないものが、俺とあいつには見えていた。

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