第二章

「宝の地図みたいね」

 私の話を一通り聞いた姉は、ノートをテーブルの上に置き、そう言った。それから慣れた手つきで煙草に火をつけた。

「どう思う?」と私は訊いてみた。

「どう思うって、よくわかんないけど」

 姉は面倒くさそうに眉をひそめた。「宝物が見つかったら教えてちょうだい。それより、今日は大事な話があるの」

「今日も?」と私は嫌味っぽく言った。

「あなたが真剣に取り合ってくれるまで、何回でも同じセリフを言うわ」

 私はため息をつきながら、ノートを鞄にしまった。

「相変わらず就職する気はないの?」

 私は首を振った。

「執筆のほうは?」

「何とかやってるわ」

「あれ以来、賞とか取ってないの?」

「そんなに簡単じゃないのよ」


 二年前の今ごろ、私はある文学賞を受賞した。受賞した次の日から生活が一転するような派手な賞ではないけれど、有名作家も何人か若いころに受賞している権威ある賞だった。少なからぬ賞金が入り、私の原稿はハードカバーの立派な装丁をされて書店に並んだ。しかし、売り上げは出版社が見込んだほど芳しくはなかった。担当の編集者は、「悪くない」と言った。快晴とはいかないけれど、雨は降っていないから良しとしよう、という感じの言い方だった。去年の今ごろに出版された二作目も同じようなものだった。


「悪くないよ」

 彼はため息混じりに、一年前と同じことを言った。

「天気は雨曇り、ですか?」

 彼は幾分引きつった笑いを浮かべた。

「そんなことはないよ。この二作である程度固定した読者は付いてきてるだろうから。ただ、もう少し話題になって、部数も伸びればね。我々の間での評価は割といいんだよ」

 彼は曖昧な言葉を使って曖昧な言い回しで、はっきりと一つのことを言った。

「要するに」と私は言った。「次回作がある程度話題になってもう少し売れないと、割とまずいってことですね?」

 彼はさっきよりもさらに引きつった笑いをこぼした。

「まぁ、すごく無骨に言えばそういうことになるかな」

 要するに、雨曇りだ。


「印税ってどれくらいなの?」

 ティースプーンで意味もなくコーヒーをかき回しながら、姉が訊いた。二階に位置する喫茶店の窓と同じ高さのところに見える鉄道の高架では、電車がひっきりなしに左から右へ、右から左へと行き交っている。駅が近く、速度を落としているので、乗客の表情がかろうじてわかる。みんな一様に疲弊した顔つきをしている。そんなに疲れるなら、やめてしまえばいいじゃない。彼らが何に疲れているのかもわからないが、私はそう言いたくなる。

「雀の涙よりもわずか」

「それでどうやって生きていくつもりなの?」

「足りない分はバイトでもして補うわよ」

 姉はため息と一緒に煙を吐き出すと、煙草を灰皿に押し付けて火を消した。

「フリーターっていうことね」

「社会的分類によれば、そういうことになる」

「定職につきながら執筆も続けるっていう選択肢はないのかしら? 社会的分類によれば、そっちのほうがずっと妥当な選択だと思うけど」


 いかにも、それは社会的常識に則した意見だった。そして姉らしい意見だった。きっと姉のように社会的常識に何ら疑問を持たずに生きている人には、決して私の考えは理解されないんだろう。そう思いながら私は言った。

「就職したら今みたいに時間を自由に使うことは出来なくなるでしょ? 毎朝同じ時間の満員電車に乗って、夜は帰ってきて寝るだけ。朝起きたら、また満員電車が待ってる。そんな生活をしていたら、書いてる暇なんてないじゃない」

「それが社会で、それが生きるってことなのよ」

「人間、磨り減るわ」

「それが生きるってことなのよ」

 私は姉の目をまっすぐに見据えた。姉は少しの間私の目を見つめ返してから、やがて耐えられなくなったように視線を逸らした。


 姉はほとんど毎週のように私を呼び出しては、今日のように就職の話をした。私はそんな姉の話を聞くたびに、心の中で、「どうして」と問いかけずにはいられない気持ちになった。

姉は私と同じ痛みと悲しみを負っているはずだった。いや、小学校の低学年だった私よりも、三つ年上の姉のほうがきっと負った傷は深かったに違いない。社会的常識なんてものは、私たち姉妹の周囲を取り巻くものであり、それゆえに私たちが苦しめられるものでしかないはずだった。姉の気持ちを理解しようとすればするほど、私はひどく混乱することになった。


「とにかく」と私は自らの思考を振り払うように言った。「私は今書きたいのよ。今思ってることを、今言葉にしたい。そうじゃなかったら、きっとすぐに忘れちゃうから。二十二歳の感情は二十二歳のときにしか体験できないのよ」

 姉は、高校生たちが嬉々としてダンスを踊っている眼下の小さな公園をじっと見つめたまま、黙っていた。私は水っぽくなったオレンジジュースを啜った。

「やっぱり、あなたの考えは甘いと思うわ。立派な理屈を付けたところで、言ってることは結局働かないで好きなことをしたいってことでしょ? そんな考えが通用するのは若いうちだけ。社会じゃ通らないわ。働かざるもの食うべからずよ」

「働かないとは言ってない。好きなことを職業にしたいって言ってるのよ」

「それが甘いのよ」

 姉は公園から視線を剥がすと、一瞬だけ私の目を見て、すぐに視線を落とした。その目は少し涙ぐんでいるように見えた。それで私は動揺した。しかしそれは私の見間違いだったかもしれない。少なくとも、姉が涙ぐむ理由を私は見つけられなかった。


「世の中に、本当に自分の好きなことで生計を立てられる人がどれだけいると思ってるの? 奇跡のような確率よ。一回文学賞とるのとは訳が違うの」

 姉のその言葉に、私は唇を噛んだ。

「そんなのわかってる」

「わかってないわ。わかってたらこんな選択しないでしょ?」

「もういい」

 私はそう言い捨てると、席を立った。しかし私が立ち去るより早く、姉が私の手首を掴んだ。

「落ち着いて。何もあなたと言い争うために来たわけじゃないのよ」

 姉は優しくそう言うと、握った手の力を緩めた。

「ね、聞いて」

 私の頬を涙が伝った。私は再び椅子に戻った。


「あなたにもう一度良く考えて欲しいのよ。人生を台無しにして欲しくない」

 私のしようとしていることがどうして私の人生を台無しにするのか、私にはちっともわからなかった。

「もう一回よく考えて。それでもし本当に働く気になったら言いなさい。うちの専務に掛け合ってあげるから。いい人でね、私とか他の若い社員のことを色々と気にかけてくれるのよ。ほら、うちは小さな会社だから、上の人ともすごく仲がいいの。アットホームでとても働きやすい環境よ」

 姉はそこまで言うと、ほっとしたようにため息をついた。どうやら、今日私を呼び出したのはそれを言うためだったらしかった。


「とにかく、うちか、でなかったら関連会社に口を見つけてくれるように頼んでみるわ。きっと何とかしてくれると思う。もちろんすんなり採用ってわけじゃないわよ。他の社員と同じように、エントリーシート書いて、筆記試験と面接も受けることになるわ。それは当然でしょ? あなたにチャンスを与えてくれるように頼むってこと。そのあとはあなた次第よ。いいわね?」

 私は何も答えず、顔を伏せたまま、視界が滲み、滲んでは大きな水滴となってジーンズに落ち、落ちてはまた視界が滲むのを見つめていた。

「じゃあ行くわよ」

 姉がそう言い、椅子を引く音がした。それからハイヒールの靴音が足早に遠ざかるのを聞いた。


 窓の外で、私のことを叱りつけるみたいにカラスが鳴いていた。

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