俺 2007年7月
第4章
「八月に決まったわ」
葵は融けていくソフトクリームを忙しそうに舐めながら言った。
「何だって?」と俺は訊き返した。聞こえなかったわけではなく、何のことについて話しているのかわからなかったのだ。話の重要な部分をいの一番に言ってしまうのが、葵の話し方の癖だった。だから俺はいつも、葵が何について話し始めたのか、色々と考えを巡らせなくてはならなかった。
しかし、今日ばかりはあまりの暑さに考える気も起こらなかった。昨日までの陰鬱な梅雨空が嘘のように晴れ渡り、気の早い七月の太陽がじりじりと地面や建物の屋根や人々の肌を焼いていた。木々の影は短く、そのまま地面に焼きついてしまうのではないかと思えるほどくっきりとしていた。
ほとんどの生徒が茹るような暑さを避けて冷房の効いた食堂にいて、外のテラスには俺たちのほかに留学生のグループが一組いるだけだった。彼らはみなヨーロッパ人らしいはっきりとした目鼻立ちをしていて、肌は浅黒かった。そして彼らの輪の中からは三分に一回くらい、どわっと笑い声が起こった。あるいは彼らにとって、このくらいの暑さは全く問題ではないのかもしれない。
「八月に行くことになったのよ」と葵は言った。俺にはまだ何の話か見当もつかなかった。
「旅行にでも行くんだっけか?」
俺は鞄からペットボトルのお茶を取り出すと、一口飲んだ。
「違うってば。留学に行くの。前に言ったでしょ?」
俺は葵の顔を見た。彼女は相変わらずソフトクリームを舐め続けていた。葵が俺の視線に気づいているのかは、判断がつかなかった。
「いや、聞いてない」と俺は言った。
「そうだっけ? じゃあ今言ったわ」と葵は言った。
「どのくらいの間?」
「一年。あっという間よ」
もちろん一年というのは、あっという間と言うには長すぎた。特に待たされる側にとっては。そして葵はそれをよく知っているはずだった。知っていて言っているのだ。
「あっという間、か…」
俺は短いため息を一つ吐いた。「出発まであと一ヶ月ちょっとだろう? かなり具体的なことまで決まってるのか?」
「そうね。行く大学も住む家も決まったわ。あとは目の前のテストをそつ無く終えるだけよ」
二週間のうちにいくつかのテストといくつかのレポートを終えれば、その先には長く自由な夏休みが待っていた。
「そこまで準備を進めてたなんて知らなかった」と俺は言った。それはもちろん葵が俺に気づかれないようにしていたからに違いなかった。しかし、葵は何でもなさそうに言った。
「特に一念発起して準備にかかったってわけじゃないのよ。留学について詳しく知ろうと思って説明会やなんかに行ってるうちに、気がついたら出発の三歩手前くらいまで来てたのよ」
「お前は重要なことをいつも最後の最後まで言わないように思える」
「そうかしら?」
やっとソフトクリームを食べ終えた葵が、ティッシュで手を拭きながら言った。
「でもニコにはすべてが確定してから教えたかったのよ」
俺は葵が留学するという「確定した」事実を聞いた今でも、そのことについてほとんどどのような感情も抱かなかった。自分が受けているはずのショックの大きさを測れずにいた。一ヵ月半の猶予がその輪郭をぼやかしているのか、それとも一年があまりに長すぎるのかは俺にはわからなかった。ただ漠然と葵の存在そのものの大きさを感じていた。
「今度は立場が逆になるわけだ」と俺は独り言のように言った。
「立場?」
「そう。見送る側と旅立つ側。待つ側と待たせる側」
葵は俺の顔を見つめ、「そうかもね」と言った。
「でも、二人の関係そのものが四年前とは違うわ」
「そうかな?」
俺は空を見上げた。濃いブルーの空に、くっきりとした真っ白な雲がぽっかりと浮かんでいた。
俺は四年前に東京で見た空を思い出した。紺碧の空をゆったりと漂う白い雲。『智恵子抄』の一句から東京の空を思い描いていた俺は、その青さに驚いた。しばらく空を見上げていると、それを四角く縁取るビルの高さに目が眩んだ。ある種の光景は強い感情を伴っていつまでも記憶の中に留まり続ける。四年前、故郷を後にし、東京で見上げた空はそんな光景の一つだった。
初夏の空気の中にその時の感情の余香を嗅いだ。
「そうかもしれない」と俺は言った。
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